主を知るために

コロサイ3:15-17

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3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

 一、救われて主を知る

 私たちはこの一年、「主を知る」ということに焦点をあわせて教会生活に励んできました。人間は、神のかたちに造られ、神は人の心に「永遠を思う思い」(伝道3:11)を与えられましたから、誰もが「神がおられる。」ということを、感じることができます。しかし、神がどのようなお方で、私たちのために何をしてくださるのかは、イエス・キリストを知り、信じるまでは、はっきりと知ることができないのです。聖書は、イエス・キリストを信じる前の私たちの姿を「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イエスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(エペソ2:12)と描いています。

 しかし、クリスチャンに出会い、神のことばを聞き、教会に来るようになって、イエス・キリストを信じる者になりました。「イエス・キリストが私の罪のために十字架で死んでくださった。死を打ち破り今も生きておられるイエス・キリストは私の主、救い主です。」ということを、自分の口とバプテスマ(洗礼)によって言い表わし、私たちは救われたのです。イエス・キリストを信じた時、罪が赦され、神の前に正しい者と認められました。罪の奴隷であった者が神の子となりました。神の国、天国を受け継ぐ者とされたのです。救いは大きな変化です。それは闇から光へ、死からいのちへ移ることです。神なく、望みのなかった者たちが、神の民となり、天国の希望をもって生きる者とされたのです。バプテスマを受けた皆さんは、この大きな変化を体験し、確信していますね。

 新聖歌(358)に

神なく望みなく さ迷いしわれも
救われて主をほむる 身とはせられたり
われ知るかつては 目見えざりしが
目を開かれ 神をほむ 今はかくも
と歌われています。キリストの救いを受けるまでは、私たちの心の目は罪のために曇っていました。魂は盲目だったのです。ですから、神がどのようなお方なのかが分かりませんでした。そして、神がどんなお方か分からなければ自分がどんな者かも分かりません。神が見えない時は、自分のほんとうの姿も見えないのです。神が見えず、自分の姿が見えないため傲慢になって神を否定したり、劣等感に捕われて自分を苦しめていました。また、人生のあらゆることがらにおいて、確かな見分けがつかないため、間違った方向に歩んでいました。しかし、キリストを信じた時、まことを神を知り、自分の本当の姿を知ったのです。歩むべき正しい道を見いだしたのです。「目を開かれ 神をほむ 今はかくも」と歌われているように、神を賛美するものとされました。(図2)

 二、主を知ることに成長する

 では、救われて主を知ったなら、それですべてが終わったのでしょうか。救いは、大きな変化です。救われなければ何も始まりません。しかし、救われてそれですべてが終わったのではありません。救いは、ゴールではなく、スタートです。ここから私たちの信仰の歩みが始まるのです。私たちはキリストの救いのうちに平安を見いだしますが、だからと言って、救いはそこに腰をおろして居眠りをするところ、Lazy Boy のような安楽椅子ではありません。

 救いは、赤ちゃんの誕生のようなものです。赤ちゃんの誕生はとてもうれしいことで、みんなでお祝いします。しかし、赤ちゃんは無事誕生して、それで終わりではありませんね。母親の胎内にいた 9 months よりもはるかに長い人生をこれから生きていくのです。母親も、出産よりももっと大変な「子育て」という仕事を始めていくのです。誕生がゴールでなく、スタートであるように、救いもゴールではなくスタートです。イエス・キリストを信じる者は、神の子として新しく生まれ変わります。バプテスマは、バプテスマを受ける人が神の子とされたことを表すもので、バプテスマの水は赤ちゃんが使う「産湯」のようなものです。私たちは、ひとりでも多くの人がイエス・キリストを信じてバプテスマを受けるよう願って伝道しています。バプテスマを受ける時には、みんなでお祝いします。しかし、バプテスマを受けた人が、その後、そのまま置き去りにされたら、どうなるでしょうか。両親の保護なしには赤ちゃんは育ちません。温かく、また、規律のある家庭の中でこそ、子どもは、健全な成長を遂げます。そのように、教会には、「伝道」とともに、救われた人々が受け入れられる「交わり」、教えられ育てられる「弟子訓練」がなくてはならないのです。

 私たちは救われて、はじめて神を知るようになりました。もっと正確に言えば「神を知りはじめた」のです。クリスチャンとして成長するに従って、さらに深く神を知っていくのです。ペテロは「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(ペテロ第二3:18)と教えています。主を知るために必要なのはみことばのミルクです。ペテロは「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(ペテロ第一2:2)と言っています。「みことばのミルク」というのは、聖書の基本的な教え、初歩の教えのことを意味しています。ミルクは大切です。しかし、ミルクしか飲めなかった赤ちゃんがやがて離乳食を食べ、固いものも食べることができるように、クリスチャンも、やがてはミルクだけでなく、固い食べ物を食べることができるようにならなければなりません。クリスチャンになってからいたずらに年数だけを重ねるというようなことがないようにしたいものです。ヘブル人への手紙では「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:12-14)と言われています。私たちは、固い食べ物もかみ砕き、消化できるようになっているでしょうか。

 子どもの頃は、欲しいものがあれば親におねだりして手に入れますが、おとなになっていくにつれて、お小遣いをためたり、自分で働いたりしてお金を貯めて、欲しいものを手に入れるようになります。大人になるにつれて、私たちはより重い責任を与えられ、より複雑な社会に生きていくようになります。その重い責任を果たし、複雑な社会を生き抜いていくために、さまざまな知識を身に着け、訓練を受けます。社会が私たちに年齢や経験にふさわしい知識や訓練を求めるように、神もまた、クリスチャンに、クリスチャンとなってからの年数にふさわしいものを求められます。アメリカでは、多くの人たちが「子どもの頃、サンデースクールに行っていた。」と言います。聖書をある程度は知っているのですが、多く場合、その知識は、サンデースクールで習ったことから少しも成長していません。子どものころ学んだ知識は、こどもの頃には十分でも、大人になったなら、それでは足らなくなってしいます。年齢とともに、さらに聖書を深く学んでいく必要があります。おとなは赤ちゃんが飲むミルクだけで、激しい労働をすることはできません。十分な食事が必要です。それは、私たちの霊的な生活、信仰の生活でも同じです。あなたの信仰生活にもし力がないとしたら、それは、主を知ることにおいて成長していないからではないでしょうか。パウロは「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」(コリント第一13:11)と言っています。信仰において、知識において、おとなとして成長していなければ、この複雑な社会で本当のクリスチャンとして生きていくことはできません。私は、「子育てについて話してください。」と言われる時は、いつも「子どもを育てようとする前に、自分を育てなさい。」という話をします。父親、母親が聖書を学んでいなくてどうして子どもの疑問、質問に答えることができるでしょうか。ほんとうの子育ては子どもに人生の目的を教えることですが、人生の目的は、聖書の学びから出てくるのです。会社での重い責任、教会での奉仕を果たしていくのに必要なものを、しっかりと身につけていたいと思います。「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」とのみことばをいつも心に留めていましょう。

 三、成長のステップ

 私たちは、救われてはじめて主を知ることができます。厳密に言えば、主を知りはじめます。救いから一歩一歩ステップを踏んで、主を知る知識に成長するのです。そして、そして主を知ることに成長することによって、自分自身が成長していくのです。

 この成長のステップについて、いろんな人がいろんな提案をしていますが、リック・ウォレン先生は四つのステップを提案しており、そのひとつひとつは「人生の五つの目的」で学んだ第二から第五までのキーワードに関係しています。

1. キリストを知る(交わり)
2. キリストにあって成長する(弟子訓練)
3. キリストに仕える(奉仕)
4. キリストを伝える(伝道)
私は、たびたび「人生の五つの目的」のひとつひとつは、礼拝からはじまって、交わり、弟子訓練、奉仕、伝道というように積み重ねられていくものであると話してきましたが、それは、神がこのように、交わり、弟子訓練、奉仕、伝道という成長のステップを備えていてくだっているからです。

 リック・ウォレン先生は、この四つのステップを野球のベースにたとえています。ホームベースは「礼拝」です。ここから「キリストを知る」という基本的な聖書の学びを通して神の家族の「交わり」に入ります。これが一塁です。次に「キリストにあって成長する」という学びによって「弟子訓練」に進みます。これが二塁です。「キリストに仕える」ことを学び、「奉仕」へと進みます。これが三塁です。「キリストを伝える」ことを学び、誰かをキリストに導きます。これが「伝道」であり、そのようにして、ホームベースに再び戻ってくるのです。野球では、ホームベースに戻ってきてはじめて一点が入りますが、ホームベースに戻るには、すくなくても一塁まで出なければなりません。礼拝につどっているみなさんは、すでにホームベースに立っています。今、どこまで進んでいるでしょうか。一塁でしょうか。二塁でしょうか。それとも三塁でしょうか。リック・ウォレン先生の教会では「満塁ホームランのクリスチャンになろう!」と声をかけあっているようですが、私たちは「満塁ホームラン」をかっ飛ばそうとするよりは、ホームベースから一塁へ、一塁から二塁へ、二塁から三塁へと、着実に進んでいけたらと思います。

 リック・ウォレン先生の教会では、クリスチャンの成長のためのコースがあって、きちんとしたクラスが行われています。最初のコースから次のコース、次のコースからさらに上級のコースへと進んでいくのです。基礎ができていないのに、いきなり難しいコースに行くとか、いつまでも初歩の学びに留まっていないようにとの工夫がされています。私たちも、日曜日や水曜日の聖書クラスで、そうしたことができるように努力していますが、さらにより良い、聖書クラスを作り上げていきたいと願っています。しかし、クリスチャンの成長は、学校の勉強と同じように、頭に知識をたくわえれば良いというものではありません。私たちが目指しているのは「主を知る」ことであって、「主について知る」ことではありません。たんに聖書の知識を増やすことではなく、みことばが私たちの生活の中に生きるようになることです。コロサイ3:16に「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。」とあります。みことばは、頭にだけでなく、心にたくわえるべきものです。それはまた、ひとりひとりのうちにだけでなく、キリストのからだである教会の中に宿すべきものです。コロサイ3:16は「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」と続けていますが、これは、みことばがキリストのからだである教会のいのちになり、からだのすみずみにまでいきわたり、キリストのからだのどの部分もキリストのことばによって生きて働いている様子を描いています。私たちを成長させるのは、みことばです。神のことば、キリストのことばによって、ひとりびとりが、また教会が成長していくよう、心から祈り、励みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、いなくなった羊を見つけた羊飼いのように、なくなっていた銀貨を見つけた人のように、また、行方不明の息子が帰ってきたのを迎えた父親のように、私たちが悔い改めてあなたのもとに立ち返ることを何にもまして喜んでくださいます。私たちも、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じた時の救いの喜びを決して忘れることはできません。しかし、それと共に、あなたは、子どもの成長を喜ぶ父親、母親のように、私たちが救いからはじまって、みことばによって一歩一歩成長していくことを喜んでくださいます。私たちも、救いの喜びにまさるとも劣らない、この成長の喜びを味わうものとしてください。あなたをさらに深く知るために、私たちに必要な具体的な一歩を示し、そこに導いてください。そして、私たちのうちにキリストのことばが豊かに宿るものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/13/2005