キリストに根ざす

コロサイ2:6-10

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2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

 クリスチャンがよく使う言葉に「キリストにあって」("In Christ")という言葉があります。手紙の最後に「主にあって」などと書かくことも多いかと思います。「キリストにあって」("In Christ")、あるいは「彼にあって」("In Him")は、聖書に繰り返し出てくる大切な言葉です。コロサイ人への手紙にも、「キリストにある兄弟たち」(1:2)、「キリストにある信仰」(1:4)、「万物は御子(キリスト)にあって成り立っている」(1:17)、「神の本質を御子(キリスト)のうちに宿らせ」(1:19)、「キリストにある成人」(1:28)、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」(2:3)などというところで使われています。きょうの箇所でも「彼(キリスト)にあって歩みなさい」(2:6)、「キリストの中に根ざし」(2:7)、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」(2:9)、「あなたがたはキリストにあって満ち満ちている」(2:10)というふうに使われています。きょうは、「キリストにあって」("In Christ")ということが「キリストを受け入れる」ことから始まり、「キリストにとどまる」ことにおいて継続し、「キリストにあって歩む」という結果を生み出すことを学びたいと思います。

 一、キリストを受け入れる

 「キリストを受け入れる。」ここから「キリストにあって」が始まります。そして「キリストを受け入れること」の出発点は福音を聞くことです。コロサイ1:5に「あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました」とあります。誰も、聞いたことのないもの、知らないものを信じ、受け入れることはできません。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのことばによるのです」(ローマ10:17)とある通りです。

 しかし、「聞く」といっても、ただ「耳にする」というだけでは、キリストを受け入れることにはつながりません。世界中の誰もが「イエス・キリスト」のことを耳にしています。しかし、ムスリムの人々にとってはイエスは預言者でしかなく、キリスト(神の御子、救い主)ではありません。仏教徒にとっては、外国の神々のひとりでしかないのです。福音を「聞く」というときには、イエス・キリストについて「聞きかじる」だけでなく、イエス・キリストがどのようなお方か、私たちのために何をしてくださったかを「教わる」必要があります。ペンテコステの日に集まった人々はペテロの説教を聞いてはじめて、イエス・キリストが自分たちの救い主であることを知って、信じ、受け入れました(使徒2章)。エチオピアの高官は聖書を読んではいましたが、ピリポから説明してもらってはじめてイエス・キリストが人の罪のために身代わりとなって死なれたことを知りました(使徒8章)。コロサイ1:6に「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来…」とあるように、コロサイの人々は、福音を「聞いて」、「学んで」、「理解して」、イエス・キリストを信じ、受け入れ、「キリストにある兄弟たち」となったのです。

 皆さんがイエス・キリストのことをはじめて聞いたのはいつだったでしょうか。イエス・キリストが、神の御子であり、あらゆるものの「かしら」であり、しかも、私たちを罪から救ってくださるお方であることを学んだのは誰からだったでしょうか。そして、イエス・キリストを「私の救い主、また主」として受け入れたのはどのようにしてだったでしょうか。イエス・キリストを受け入れた者は、キリストにあって、神に受け入れられます。罪を赦され、神の子どもとされ(1:14)、神の国を受け継ぐのです(1:12)。闇から光に移され、キリストに守られ、導かれます(1:13)。キリストを受け入れることによって、「キリストにある」者とされるのです。

 二、キリストにとどまる

 「キリストにあって」とは、次に、キリストにとどまることです。「キリストにとどまる」と聞いて、誰もが思いうかべるのは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)というイエスの言葉でしょう。枝はその木から切り離されたら、あとは枯れるだけで、実を結ぶことはできません。キリストを信じる者は、キリストとつなぎ合わされ、そこから養分を得て、つるを伸ばし、葉を広げ、そして実を結びます。このキリストとの命のつながりを保つことが「キリストにとどまる」ことです。

 ヨハネの福音書ではキリストを信じる者は「枝」にたとえられていましたが、コロサイ人への手紙では、幹も、枝もすべて揃った一本の「木」にたとえられています。木は幹や枝が揃っていても、それだけでは育ちません。植えられた場所にしっかりと根を張らなければならないのです。

 我が家のことですが、今年の冬、とても寒くなり、玄関の植え込みが死んでしまいました。それで、寒さに強いものを買ってきて植えたのですが、根が張らず、夏の暑さで枯れてしまいました。枯れた木を抜いてみたらほとんど根付いていませんでした。けれども種から芽が出て育ったりんごの木をポットから出して地面に植えたものは、ちゃんと根付いて、すくすくと大きくなっています。私はこのことから、「キリストに根ざす」ことがどんなに大切かを学びました。

 キリストを信じたばかりの者は、まだ小さな苗木にすぎません。それはキリストという大地にしっかり根をおろさなければ成長することはないのです。幹から切り取られた枝が枯れていくように、大地に根付いていない木は、やがて枯れていきます。「キリストにとどまる」とは、「キリストに根ざす」ことです。

 そして、「キリストに根ざす」ことは、具体的には「キリストのことば」にとどまることです。イエスは「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」と言っておられます(ヨハネ15:7)。私たちが根を張り、そこから養分を受けるのは聖書の真理だと言ってもいいでしょう。

 福音が広まるにつれて、それを自分勝手に解釈したり、自分たちの宗教や思想に都合のよいように変えてしまうことが初代教会の頃からありました。その代表的なものが、「グノーシス主義」というものです。「グノーシス主義」などというと、いかにも哲学的に聞こえますが、これは神話に基づくもので、人々に受け入れられるために哲学的な装いをしていたにすぎません。ですから、コロサイ2:8では「だましごとの哲学」と呼ばれています。当時の知識人の間にはグノーシス主義のみせかけの知恵や知識に惹かれて、キリストから離れていく人が多く出ました。あの聖アウグスティヌスもかつてはグノーシス主義から生まれたマニ教という宗教に入り、聖書を見下していたのです。グノーシス主義は1世紀に始まり、アウグスティヌスの時代、4世紀に栄えましたが、いったん姿を消しました。しかし、近年、グノーシス主義は「ニューエイジ」などの中に形を変えて息を吹き返しています。

 信仰とは人格を形作り、生き方を決めるものです。人は何を信じるかによって、どのような人生を送るかが決まります。正しいことをなら正しく生きることができ、間違ったことを信じるなら間違った人生を送ることになります。ふだんから聖書に親しみ、本物の信仰に触れていれば、簡単には間違った教えに引っ張られることはありません。聖書に照らして、本物と偽物を区別していけばいいのですが、もし、おかしいなと思う教えに接し、疑問をもったら、ぜひ、指導者に相談してください。

 グノーシス主義の人々は「隠されたもの」、「奥義」、「知識」、また「満ち満ちたもの」(ギリシャ語で「プレーローマ」)といった言葉を使って、人々を引き寄せました。けれども、それらすべては、キリストにあてはまる言葉、キリストにしかあてはまらない言葉です。コロサイ2:2-3にこうあります。「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」人が救われ、成長し、天に至るのに必要なものはすべて、キリストのうちにあります。キリスト以外に何かを付け加える必要はないのです。本当の知識とは、キリストを知ることです。あらゆるもののかしら、すべてにおいて完全なお方、キリストを信じる者は、「キリストにあって、満ち満ちている」(10節)のです。神の恵みと祝福に満たされた、心豊かな人生を送ることができるのです。

 三、キリストにあって歩む

 6節に「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」とあるように、キリストを受け入れ、キリストにとどまる者は、「キリストにあって歩み」ます。聖書で「歩く」というのは、日常の具体的な生活を意味しています。グノーシス主義は日常生活をまったく気にかけませんでした。どんなにいいかげんな生活をしていても、かまわなかったのです。宗教と生活が切り離されていて、彼らの宗教は実際の生活に何の変化ももたらさなかったのです。しかし、キリストを信じる信仰は違います。それは、日常生活を変えていくものです。クリスチャンの信仰は、宗教行事や教会の活動に没頭して、日常生活からから逃避するようなものではありません。私たちの礼拝は、私たちの一週間の生活を支えるもの、日々の祈りはそれを整えるものです。信仰と生活は別々のものではありません。信仰とはキリストにあって生活することなのです。

 初代のクリスチャンは、信仰と一致した生活をしました。人々がクリスチャンを嫌ったのは、信仰から生まれた生活態度のためでした。ペテロはその手紙に「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います」(ペテロ第一4:3-4)と書いています。慎ましく誠実な生活をし、どの人に対しても差別なく接したクリスチャンは、その真面目さのゆえに、世の人たちから、煙たがられました。しかし、彼らは妥協せず、信仰を貫き通しました。正しいこと、良いことをして悪く言われることをむしろ誇りとしました。他の宗教の人は、たとえば「仏教徒のくせに」などと言われませんが、クリスチャンが何か間違ったことをすると、「クリスチャンのくせに」と言われてしまいます。それはクリスチャンが、その正しい生活によって人々の信用を勝ち取り、社会に良い影響を与えてきたからです。

 「主が私の手をとってくださいます。どうしてこわがったり逃げたりするでしょう。やさしい主の手にすべてをまかせて旅ができるとはなんたる恵みでしょう」という歌があります。「キリストにあって歩む」ことは、このように、キリストに手を引かれ、キリストに信頼して歩むことです。今まで到底できないと思っていたことが、キリストによってできるようになる。また、今まで自分を中心にして行っていたことが、「イエスのために」行うことができるようになる。そんなふうに日々を歩むのです。この歩みはイエスをキリスト、また、主として受け入れることから始まります。そして、キリストにとどまることによって力を得ます。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」とあるように、それは、私たちの神への感謝となり、また多くの人々も、私たちの歩みを見て、神に感謝するようになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちはイエス・キリストがすべてに満ちておられるお方であり、私たちのすべての必要を満たしてくださるお方であることを信じています。私たちをキリストを受け入れ、キリストにとどまり、キリストにあって歩む者としてください。それによって、人々がキリストを知り、大きな感謝があなたに捧げられるようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/2/2022