バプテスマを受けてから

コロサイ2:6-7

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2:6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。
2:7 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。

 一、スタートラインとしてのバプテスマ

 先週は「バプテスマを受けるまで」と題して、これからバプテスマを受けたいと願っている方々のためにお話ししました。今週は「バプテスマを受けてから」という題で、バプテスマを受けて間もない方たちのためにお話ししたいと思います。

 どの教会でも、バプテスマを受けるまでは、バプテスマの準備会があり、それに出ないとバプテスマを受けられません。それで、バプテスマを受けるまでは皆、一所懸命出席するのですが、バプテスマを受けてからのクラスを作ってもなかなか出席してもらえないという現実があります。それは、バプテスマを受けた本人も、まわりのクリスチャンも、バプテスマを「ゴール」にしてしまい、バプテスマにたどりつけたということで安心してしまうからかもしれません。確かにバプテスマはひとつのゴールです。神を求めて教会に足を運び、信仰を求めて聖書を学んで来た人が、真理であり、道であり、命であるイエス・キリストを自分の救い主、また主として受け入れ、バプテスマを受け、キリストのからだである教会のメンバーとなるのですから、それは、ひとつのゴールです。バプテスマを受けるのに長くかかった人や、その人がバプテスマを受けるために長く祈ってきた人が、バプテスマの日に、「やっとここまでたどりついた」という気持ちになるのは当然のことでしょう。

 しかし、バプテスマは、同時に、スタートライン、出発点です。そこから、天を目指しての信仰の歩みが始まり、教会生活が始まり、キリストの弟子としての訓練が始まるからです。バプテスマがスタートラインだというのは、結婚式や入学式に例えると分かりやすいと思います。

 結婚式の祝辞で「きょう、ふたりはめでたくゴールインされました。おしあわせに」などと語られます。それとともに「結婚はゴールだと言われますが、ほんとうはスタートです。ここからふたりの生活がはじまるのです。いろいろ難しいことも起こるでしょうが、譲り合いの気持ちを忘れずにいてください」などとも言われます。こういう祝辞をするのは、決まって「オジサン」たちだけで、説教じみていて、うれしくない祝辞だと若い人の間では思われているようですが、結婚生活を長くしてきた年配者には、結婚がゴールというよりはスタートだというのは、十分に体験しているのでしょう。

 聖書ではキリストは「花婿」、キリストを信じる者たちは「花嫁」にたとえられています。先週引用した聖書の箇所(ローマ6:3)に「キリスト・ イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたち」(新共同訳)とありました。「結ばれる」というのは、日本語では結婚を表わしますので、バプテスマは、キリストとの結婚式のようなものと言って良いでしょう。結婚式がスタートラインであるように、バプテスマもスタートラインです。そこから、キリストと共に生きる新しい人生が始まるのです。

 バプテスマは、また、キリストの学校への入学式です。イエス・キリストは使徒たちに「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28:19-20)と命じました。バプテスマを受けるまでは、救われるために必要な最低限のことを学びますが、その後は、キリストが使徒たちに教えたすべてのことを学びとっていくのです。キリストの学校は、現代の学校のように教科書を覚え、試験に合格して、単位を取れば良いというところではありません。そこでは、人格と実践に重点が置かれています。日本の伝統的な芸術、芸能の世界では、師匠のところに弟子入りして技能を身につけますが、それに似ています。それで最近は、教会で、「教会教育」というよりも「弟子訓練」という言葉がよく使われるようになりました。バプテスマは、「弟子入り」の儀式です。そこからキリストの弟子としての訓練が始まるのです。バプテスマはゴールではなくスタートラインであり、卒業式ではなく、入学式です。バプテスマは、私たちに目指すべきゴールを示し、そこに向かわせるものなのです。

 二、バプテスマが示すゴール

 では、バプテスマが私たちに示しているゴールとは何でしょうか。聖書はそれを様々に示していますが、今朝の箇所では「歩く」、「根ざす」、「建てる」という三つの言葉が使われています。口語訳で読んでみましょう。

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ2:6-7)

 「あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれた」というのは、イエス・キリストを救い主、また主として心に迎え入れたことを意味しています。信仰はまず心に宿り、キリストは信じる人の内面に住まわれます。しかし、信仰は心の中だけに閉じ込められるものではなく、それは普段の生活に、日常の行いの中に表れてきます。最初に、その人の世界観、人生観が変わります。信仰を持つまでは、世界は意味のないところ、偶然が支配するところだと考えていました。しかし、信仰によって、この世界は神が造り、導いておられることを知りました。また、信仰を持つまでは、人生に目的などない、それは運命によって支配されていると考えていました。しかし、信仰によって、人生には目的があることが分かりました。世界に意味があることを知り、人生に目的があることが分かったなら、その人は自分の人生を投げ出したり、怠けたり、自分勝手に生きたりはしないでしょう。信仰による内面の変化が、言葉や態度、生活や行いという外側の部分の変化となって表れてくるのです。

 キリストを受け入れた者は、キリストのからだの一部として受け入れられました。聖書は、「わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである」(ローマ12:5)「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(コリント第一12:27)と教えています。人間のからだは運動器系、循環器系、呼吸器系、消化器系など、その役割にしたがって分類された数多くの器官から成り立っています。その数はいったいどのくらいだろうかと思って調べてみましたが、どこにも答えはありませんでした。どの程度細かく分けるかによって数え方が違うのでしょう。骨の数だけでも、200本もあるわけですから、こまかく分ければ器官の数は何千にもなるのでしょう。キリストを信じる者はキリストのからだの器官のどれかひとつであり、キリストのからだの一部として、キリストにつながっているのです。

 からだの器官には目立つものもあれば、目立たないものもあります。しかし、不必要な器官は何一つ無いと言われています。そのように、バプテスマによってキリストのからだにつながっている人は、だれひとり、不必要な人はなく、働きは違っても、どの人も大切な役割を果たしています。ある人が、謙遜して言いました。「私はキリストのからだの中で、目や口のようでなくてもいいのです。足の裏でいいのです。」それを聞いた牧師はこう答えました。「そうですね。足の裏は誰にも見られない部分で、足の裏を誉める人などいないでしょう。でも、足の裏が全身を支えているのですよ。あなたは、とても大切な役割を果たしているのですよ。」その人は、牧師の言葉にとても励まされました。歩くとき、地面を踏むのは「足の裏」です。「足の裏になる」というのは、「彼にあって歩きなさい」という聖書の教えを実践することなのです。それで、その人は、自分は足の裏になって教会の歩みを助けるのだと決心したということです。

 「歩く」という言葉は、バプテスマを受けた者がキリストの手足となって働くことを表しています。キリストはバプテスマを受けた人をご自分の手足として用いようとしておられます。キリストの思い、お心を私たちのからだをもって実行していくこと、それがバプテスマを受けて、キリストに結ばれた者のゴールです。しかし、このことは、人間の力、頑張りだけでできることではありません。けれども、キリストが私たちの内面に住み、働いてくださるなら、また、私たちが自分のからだを生きた聖なる供え物として神にささげていくなら、キリストご自身が私たちの手足を動かしてくださるのです。キリストが私たちのうちに生きて働いてくださるとき、私たちは神に喜ばれ、人の役に立つ生き方ができるようになります。バプテスマは、キリストによって、キリストのために生きる生活というゴールへと導くものなのです。

 次の「根ざす」という表現では、キリストを信じる者が大地に植えられた木にたとえられています。その大地はキリストであり、キリストに根ざすなら豊かな実を結ぶようになると約束されています。その結ぶ実とは「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」という「御霊の実」(ガラテヤ5:22-23)です。また、それは、私たちの証しや伝道によって救われた人々という「伝道の実」、「宣教の実」(コリント第一9:1)でもあるでしょう。

 いつまでも残る、永遠の命に至る実(ヨハネ6:27)を結ぶために必要なこと、それが「キリストに根ざす」ことです。木が実を結ぶためには、大地にしっかり根ざし、大地から養分を得て育たなければなりません。そのように、私たちの信仰もキリストに根ざしていなければなりません。

 「根ざす」ということを言い換えると「信仰が確立する」となります。今朝の箇所の最後に「信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい」とありますが、「信仰が確立する」というのは、キリストに「根ざす」ということを別の言葉で言い換えたものです。「信仰が確立されて」というのは英語の訳(ESV)では "established in the faith" となっていました。私は、"establish" という言葉を見て、新しくできたばかりの公園に行ったときのことを思い起しました。その公園の芝生の部分に柵が設けられていて、「芝生が establish するまで、中に入らないでください」という看板がありました。芝生を見ると、たしかにまだ弱々しそうでした。やっと芽をだしたばかりの芝生を足で踏んで歩きまわったら、たちまち駄目になってしまいます。まだ establish していない、根付いていないからです。そのようにバプテスマを受けて間もない方は、すぐに活動に忙しくするのではなく、信仰を確立することに心を向けて欲しいと思います。聖書はバプテスマを受けた者に、キリストにあって「歩く」ことを求めているのであって、忙しく「走り回る」ことを勧めてはいません。地に足の着いた、落ち着いた歩みをして、信仰を確立していただきたいと思います。 

 木の根は、地中に隠れていて、人の目には見えません。しかし、木が高く伸びるためには、根も深く伸びていなければなりませんし、木が枝を広く張るには、根も広く張っている必要があります。みことばを霊の糧にし、祈りの中でキリストとのまじわりを持つという部分は、奉仕や活動と違って、人目には触れない部分です。しかし、それなしには、私たちの信仰は成長して豊かな実を結ぶことはできません。信仰の歩みや教会生活を空回りではない、ほんとうに実りあるものとするため、「キリストに根ざす」ことに心を向けていきたいと思います。

 第三の「建てられる」というのは、バプテスマを受けた者が、神の家として建てられていくことを言っています。聖書に「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」(ペテロ第一2:5)とある通りです。

 初代教会は、迫害の時代に礼拝の場所を奪われました。それで、クリスチャンたちは、あるときには野外で、あるときには地下墓所で集まり、そこを礼拝の場所としました。神が住まわれるのは木や石で作った建物ではなく、「生ける石」であるクリスチャンひとりびとりの中であり、クリスチャンが一つ心で礼拝をささげる礼拝の中であるとの確信があったからです。私たちは五感を持っていますから、教会の建物もまた、神のきよさや恵み深さを表わすもの、礼拝や祈りのために整えられたものであって欲しいと思います。けれども、たとえ、建物が不十分であっても、まごころから神を信じ、神を愛する人々の集まりの中に神は住まわれます。そのようなところに人々がやってきたとき、その人たちは、そこで神に出会うことができるでしょう。問題を抱えた人が救い主の前に重荷を下ろし、心に傷を受けた人がいやされ、弱り疲れ果てた人が強められ、より確かなものを求めている人が真理に出会うところ、それが神の家です。バプテスマを受けた者たちひとりひとりが、神の家のそれぞれの部分となって神の家を建て上げていくのです。私たちも、ここに神が住まわれ、人々がここで神に出会う、そんな神の家となっていきたいと思います。

 アメリカでは、教会に集い、教会を支える人々の数が減少しています。教会に来ないのではありません。多くの人が教会にやってきます。しかし、同時に教会から去っていくのです。それには様々な原因があるでしょうが、そのひとつは、バプテスマを受けてからの教育や訓練が欠けているからだという指摘があります。バプテスマを受けてから、どのように神とのまじわりを保っていけば良いのか、何を目指して信仰生活を送れば良いのかが、教えられていない、また、学ばれていないからだと言われています。それで多くの教会がバプテスマを受けたあとの教育や訓練に力を入れはじめています。私たちも、礼拝前、午前10時の教会学校の時間にバプテスマを受けて間もない人のためのクラスを設けました。そうしたクラスで、キリストとともに「歩む」こと、キリストの中に「根ざす」こと、そしてキリストを土台として「建てられる」ことをさらに求めていきましょう。バプテスマは出発点です。そこからさらに養われ、導かれ、目標を目指して成長していきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、どの親も子どもの健全な成長を願います。そのように、すべてのたましいの父であるあなたは、あなたの子どもの成長を願っておられます。あなたは、神の御子イエスを信じ、受け入れた者を、バプテスマによって、公に神の子どもであると宣言し、あなたの御国に受け入れてくださいました。私たちは、あなたに愛されている者として、あなたの愛にならう者になりたい、あなたの子どもらしくなりたいと願っています。私たちの歩みを導き、もっとキリストに根ざすものとし、あなたの家となることができるよう、助けてください。バプテスマを出発点として、さらに成長させてください。スタートがなければフィニッシュはありません。多くの人がバプテスマというスタートラインに着くことができるよう、導いてください。私たちの主イエスのお名前で祈ります。

8/25/2013