ともに死にともに生きる

コロサイ2:11-15

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2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

 皆さんは、バプテスマを受ける前に、バプテスマの意味について学んだことと思います。けれども、振り返ってみると、「あのときは、バプテスマについて何も理解できていなかった」と感じる人がほとんどだと思います。私も、バプテスマを受けるときには、イエス・キリストが私の救い主であることを堅く信じていましたし、バプテスマの後、言いようもない喜びが心に湧いてきましたが、その時、バプテスマが意味することをきちんと理解していたわけではありませんでした。バプテスマを受けたあとで「私が受けたバプテスマにはこんな意味があったのか」と、徐々に理解するようになりました。バプテスマの意味は、バプテスマを受けることによって理解でき、バプテスマを受けたあとで分かるようになるのです。ですから、聖書は、すでにバプテスマを受けた人々に対して、くりかえしバプテスマの意味を説いてるのです。私たちも、くりかえし、バプテスマについて学び、バプテスマによって与えられている恵みを確認し、それを感謝したいと思います。

 一、罪の赦し

 では、バプテスマにはどのような意味があるのでしょうか。それは私たちに何を示しているのでしょうか。三つのことを学びましょう。

 第一は「罪の赦し」です。13節に「それは、私たちのすべての罪を赦し…」とある通り、バプテスマは「罪の赦し」の恵みを示すもの、その「しるし」です。

 ペテロはペンテコステの日に、集まったユダヤの人々にこう言いました。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:36)ペテロの説教を聞いていた人々の中には、ピラトがイエスを赦そうとしたとき、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ人たちもいたことでしょう。救い主を退け、死に追いやるという大きな罪を犯しました。しかし、ペテロは、その罪もまた、イエスを信じてバプテスマを受けるなら赦されると約束しました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」(使徒2:38)

 パウロは、もとは教会を迫害する者でした。しかし、キリストに出会い、信じる者となりました。そのパウロにアナニヤはこう言いました。「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(使徒22:16)キリストを信じる人々に鞭をふるい、縄で縛り上げて牢獄に閉じ込めることは、つまりは、キリストご自身に鞭をふるうことでした。しかし、そのような罪も、イエスはバプテスマによって赦してくださったのです。

 コリント第一6:9-11にこうあります。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」多くの罪が並べられています。コリントの教会には、イエス・キリストを信じる前にそのような罪にかかわっていた人もいました。しかし、それがどんな罪であっても、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けたとき、それらの罪は洗い流され、赦されたのです。だから、イエス・キリストを信じる前の罪の生活に戻ってはいけないと、教えられているのです。罪を赦された恵みを、ほんとうに知っている人は、簡単に同じ罪に戻っていくことはありません。「私はバプテスマを受けた者」、「罪を赦された者」、このことを覚え、感謝するとき、私たちは、次の段階、「罪からの解放」に進むことができるのです。

 二、罪からの解放

 バプテスマは、第二に「罪からの解放」を表しています。13節の後半から14節にかけてこう書かれています。「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」「私たちを責め立てている債務証書」とは、何でしょう。それは「律法」を指しています。律法とは、神が人類のために定めたルールのことです。律法は人がしあわせに生きることができるために、なすべきことを命じ、してはいけないことを禁じるものです。もし、私たちが律法が命じることを守り、律法が禁じることから遠ざかっているなら、律法は私たちにとって喜ばしいものとなります。しかし、律法が禁じていることをしてしまい、律法が命じていることを行っていないなら、同じ律法が私たちを責めるものになるのです。

 聖書では、罪を「負債」(借金)に例えています。私たちは罪を犯すたびに、罪という借金を増やしていることになります。そして、律法がその借金を支払うようにと責め立てる「債務証書」となるのです。この罪の借金はあまりにも大きく一生かかっても返すことなどできません。私たちは生涯、いや、永遠にその債務証書に責め立てられるはずでした。

 しかし、あわれみ深い神は、私たちの罪の負債を、イエス・キリストの命によって支払ってくださいました。それが、あの十字架です。ひとたび借金が支払われたら、債務証書は効力を失います。コロサイ2:14に「神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました」と書かれているのは、そのことを言っています。イエスは、私たちが罪の負債から解放されるために、ご自分の命を「代価」にし、すべての負債を支払い、十字架によって債務証書を無効にされたのです。

 14節では、罪からの解放が「負債」とその「返済」という経済的なことに例えられていましたが、15節では、軍事的なことに例えられています。「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」ローマはもとは小さい国だったのですが、同盟国を守ることによって勢力を広げ、大きな帝国となりました。同盟国が侵略されたり、人々が捕虜や奴隷になったりすると、ローマ軍が出動し、捕虜となった人々を解放するだけでなく、逆に侵略した国の人々を捕虜にし、「さらしもの」として凱旋の行列に加えました。今、捕虜に対してそんなことをしたら国際問題になりますが、当時はそのようにして、ローマの力を示し、あの「ローマの平和」が行き渡ったのです。ここでは、イエス・キリストが凱旋将軍にたとえられています。イエス・キリストはその復活によって罪と死、また、私たちを罪に縛りつけているこの世の力、また、その背後にある霊的な力を滅ぼし勝利されたこと、それらを捕虜にして、勝利を宣言しておられることが言われています。愛に満ちたイエス・キリストの恵みによって、私たちは罪を赦されたばかりでなく、勝利の主イエス・キリストによって、私たちを束縛し、苦しめる罪の力からも解放されるのです。バプテスマは、この解放のしるし、勝利のしるしです。

 マルチン・ルターは、宗教改革の戦いの中で、何度も落胆や誘惑に悩まされました。しばしば悪魔の幻を見ました。ルターがそれに向かってインクの瓶を投げつけたために、彼の書斎の壁にそのシミが残っているのだそうです。信仰の確信を失ったとき、ルターはチョークをとって、机に "Ich bin getauft."(「私はバプテスマを受けている」)と書いたといわれています。ルターは自分の感情ではなく、「バプテスマを受けている」という事実に戻りました。バプテスマが意味しているイエス・キリストの救いの確かさに立ち返ったのです。私たちも、バプテスマの意味することをしっかりと心に刻み、イエス・キリストの勝利を自分のものにしたいと思います。

 三、罪に死に、新しい命に生きること

 バプテスマが表す第三のことは、私たちが「キリストとともに死に、キリストとも生きる」ようになったことです。12節に、「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」とある通りです。「キリストとともに死に、キリストとも生きる。」とても、神秘的な響きがする言葉ですが、基本的には、「キリストとともに死ぬ」とは罪に対して死ぬこと、「キリストとともに生きる」とは、神の子どもとして生まれ変わり、新しい人生を歩むことを意味しています。「浸礼」の場合、バプテスマを受ける人は全身を水に沈められます。これは、その人の古い罪の性質が死んだことを表します。そして、水から上がって来ることは、復活し、神の子どもに生まれ変わったことを表すのです。

 イエス・キリストを信じる者は、罪に死んで、新しい者になりました。けれども、私たちはバプテスマを受けたあとも、自分の中に罪が残っているのを見て、がっかりすることがあります。赦され、解放され、死んだはずの罪がよみがえってきたかのように感じるのです。はたして自分は救われているのだろうかと心配になってきます。けれども、それは、むしろ、救われた証拠です。救われる以前は、罪を罪として感じることがありませんでした。自分の罪を認め、それを悔い改めることができるのは、神の子どもとしての性質を与えられたからです。古い自分にしがみつくことをやめ、新しくされた自分に生きること、神の子どもとして、キリストにならう者へと成長していくことを目指していけばよいのです。

 罪に死ぬことも、キリストにならって生きることも、自分でできることではありません。ある著名な僧侶が「死んだつもりになれば、何だってできるし、道は必ず開かれます」と言っていました。また、多くの人が「私は、これから生まれ変わって、正しく生きていきます」と決心します。その決心は尊いものですが、そう決心したとたんに、それとは違うことをしてしまい、決心したことを続けられないというのが現実です。古い自分に死に、新しい自分に生きる。それは、キリストなしにはできません。私たちがキリストに結ばれるときはじめて、私たちはキリストとともに十字架につけられ、キリストとともに葬られ、そして、キリストともに復活することができるのです。私たちの罪のために死なれたお方、よみがえって今も生きておられるお方によって、私たちは新しい人生を生きることができるようになるのです。

 このイエス・キリストと私たちを結びつけるものが「信仰」です。もう一度12節を読みましょう。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」ここには、「バプテスマ」、「キリスト」、「信仰」の三つの言葉があります。これは、「バプテスマ」は「イエス・キリスト」を示しており、イエス・キリストを「信じる」とき、私たちは信仰によってキリストに結び合わされて、新しい歩みができることを教えています。「キリストとともに死に、キリストとともに生きる。」このことは頭だけで理解できるものではありません。バプテスマの意味を知り、日々の生活でそのことを覚え、キリストに信頼することによって、はじめて分かるものなのです。

 「罪の赦し」、「罪からの解放」、「罪に死に、新しい命に生きること」、これらはみな、イエスが私たちのために成し遂げてくださり、信じる者に与えてくださった大きな恵みです。バプテスマはこの恵みを確かなものにし、私たちにその恵みを確信させてくれます。これからバプテスマを受ける人はそれによってこの恵みを体験してください。すでにバプテスマを受けた者は、バプテスマの意味を学び直すたびに、これらの恵みをより深く体験し、より大きな感謝をささげていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちの信仰の歩みはバプテスマから出発します。そして、バプテスマは常に私たちにキリストを指し示し、私たちをキリストに結びつけます。「キリストとともに死に、キリストとともに生きる。」このことを、信仰によって受けとめ、日々の生活の中で体験できますよう、導き、助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/9/2022