勝利の主イエス・キリスト

コロサイ2:11-15

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2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

 Happy Easter! イースターおめでとうございます。教会では、レントの期間、習わしにしたがって、「ハレルヤ」を含む賛美を歌うのを控えてきました。イースターの日のために「ハレルヤ」をとっておいたのです。イースターになり、もうすでに「ハレルヤ」と歌いましたが、もういちど、初代教会がしたように、「ハレルヤ」の叫び声をあげましょう。私が「主はよみがえられた」と言いますので、みなさんは「ハレルヤ」で答えてください。三度繰り返します。

主はよみがえられた。ハレルヤ!
主イエス・キリストはよみがえられた。ハレルヤ!
主イエス・キリストは、じつによみがえられた。ハレルヤ!

 先週、私たちはイエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城され、十字架に向かわれたお姿を見ました。そこではイエスが平和の王として描かれていたのですが、きょうの箇所では、イエスは戦いに勝利し、凱旋する王として描かれています。15節に「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」とあるとおりです。イエスは十字架によって神の戦いを戦い、それに勝利し、復活によって勝利の凱旋をなさったのです。

 では、私たちの主イエスは、何と戦い、何に勝利されたのでしょうか。イエスは、第一に「死」と戦いそれを滅ぼしました。第二に「罪」と戦いそれに勝利されました。第三に「悪の力」と戦ってそれに打ち勝ちました。

 一、死に対する勝利

 第一に、イエス・キリストは復活によって死に勝利されました。イエスの復活は、いったん死んだ人が息を吹き返したといったものではありません。呼吸が停止し、心臓が停止しても、人は生き返ることがあります。しかし、イエスは生き返る可能性などまったく何もない状態で死なれました。ローマ兵はイエスの心臓を槍で刺し、そこから流れ出た大量の血と水によってその死を確認しました。何人もの犯罪人の処刑に携わってきたローマ兵とローマの隊長が仮死状態と死を間違えるはずがありません。イエスは間違いなく、完全に死なれたのです。しかし、主は三日目に復活されました。主は死に打ち勝ち、今も、永遠までも生きておられ、信じる者に永遠の命を分け与えてくださるのです。

 聖書は「肉体の死」だけでなく「霊的な死」や「永遠の死」についても教えています。「霊的な死」というのは、からだは生きていても、そのたましいが神に対して死んだ状態のことを言います。それは、なにも、人生に疲れ、生きる気力を失っている状態であるとは限りません。どんなに強くたくましく生きていても、生きがいややりがいをもった人生を送っていても、もしその人が神から遠く離れているなら、その人のたましいは死んでいると、聖書は教えています。肉体がたましいから分離していくことが「肉体の死」であるように、たましいがいのちのみなもとである神から分離していることが「霊的な死」なのです。

 コロサイ2:13で「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であった」と言っているのは、この「霊的な死」を意味しています。「割礼」は旧約時代の、神と神の民との契約のしるしでした。旧約時代、ひとびとは「割礼」によって神の民とされ、神との関係の中に歩みました。神の民とされたひとびとは礼拝と祈りの生活の中で神を愛し、神に愛されて生きる、神とのまじわりを楽しんだのです。神の民が、そのように神とのまじわりの中に生きていたときに、「異邦人」、あるいは「無割礼の民」と呼ばれたひとびとは、まことの神を知らずに生きていました。私たち日本人も、聖書の観点から見れば「異邦人」です。日本には「やおよろず」と言いますから、八百万の神々がいて、ひとびとは宗教に熱心かも知れませんが、そこには人を愛してくださる神はおらず、ひとびとも神を愛することはありません。神々は人間にたたるものであり、そんな神を「愛する」など、とんでもないことです。神々はできるだけ人間世界から切り離して、山の頂や森の奥深くに隠れていてくれれば良いだけの存在なのです。私たちはそのようにして、まことの神を知らず、霊的に死んだ状態でした。

 しかし、死に勝利されたイエス・キリストは、ご自分の復活の力によって、そんな私たちをいのちによみがえらせてくださいました。復活されたイエス・キリストを信じる者は、たとえ過去の宗教がどうあれ、もはや「異邦人」でも「無割礼の民」でもなく、「神の民」、「神の子ども」となったのです。11節に「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです」とあります。ここで「人の手によらない割礼」、「キリストの割礼」と言われているのは、バプテスマのことです。キリストは旧約時代の割礼に代えて、新約時代の割礼、バプテスマを与えてくださいました。死に勝利されたイエス・キリストは、バプテスマによって、信じる者を霊的な死から、いのちへとよみがえらせてくださいました。私たちが神によって生かされ、神のために生き、永遠に神と共に生きることができるためです。

 二、罪に対する勝利

 第二に、イエス・キリストは罪に対して勝利されました。「犯罪」の中で一番重いのは人を殺す罪です。しかし、「罪」の中で最大のものは、神を殺す罪です。イエス・キリストを死に追いやった人々の罪は、じつに、神を殺す罪でした。それは、今から二千年前、ローマ総督の官邸で「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ人々だけの罪ではありません。水野源三さんの作品に「わたしがいる」という詩があります。

ナザレのイエスを
十字架にかけよと
要求した人
許可した人
執行した人
それらの人の中に
私がいる
(『わが恵み汝に足れり』より)
この詩のように、それは、わたしやあなたの罪、全人類の罪だったのです。

 イエスは神の子なのですから、自分を十字架につけようとした人々を蹴ちらすことができました。そうやって人の罪に勝利することができたのです。しかし、イエスはあえて、自分を殺そうとする力に屈しました。いわば、人の罪に負けたのです。しかし、それに負けることによって、罪に勝利されました。イエスは人類の罪のすべてを自らに引き受け、イエスご自身が罪びととなって、人々の身代わりに神の裁きを受けられました。イエスはそれによって、ご自分に罪を犯した人々を赦し、ご自分が死ぬことによって、ご自分を殺した人々を生かそうされたのです。これが、イエスが十字架でなしとげてくださった贖いです。イエスはこの贖いによって私たちのために罪の赦しを勝ち取ってくださったのです。

 聖書は罪を「負債」、「借金」にたとえ、罪の赦しを、負債が帳消しになることにたとえています。日本には「闇金融」というものがあって、そういったところかお金を借りると、ほんのわずかな借金が雪だるまのように大きくなり、その取り立てに苦しめられるようになります。そのために死に追いやられた人たちも少なくありません。私たちの罪もそのようなもので、自分ではとうてい払いきれない負債となっています。しかし、イエス・キリストは、ご自分が負債を背負って十字架に死ぬことによって、それを帳消しにしてくださったのです。14節に「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました」とあります。私たちを責め立てる債務証書には、私たちのどんな罪が書かれているでしょうか。その中には、思いあたるものもあるでしょうが、もう忘れてしまっているもの、自分では罪だと自覚していないものもきっと多くあるでしょう。しかし、イエスは私たちに代わって罪の債務をすべて払ってくださいました。ですから、罪を責め立てる債務証書は私たちに力を持たないのです。それは十字架に釘づけにされ、そこには、イエスの血によって「支払い済み」("PAID IN FULL")と書かれているに違いありません。キリストは私たちの罪の負い目のすべてを、あの尊い血潮によって払ってくださったのです。

 イースターは、このイエスの罪に対する勝利、罪の贖い、罪の赦しを確認する日です。もし、イエスが復活されなかったとしたら、イエスの十字架が私たちの罪の贖いのためであった、そこに私たちの罪を責める一切のものが釘づけにされたと言われても、ほんとうにそうだという保証がないのです。しかし、イエス・キリストは、その復活によって、十字架の贖いが力あるものであり、罪の赦しが確かであることを宣言してくださったのです。

 イエスの復活は、私たちの罪を赦すだけでなく、私たちに罪に打ち勝つ力を与えてくれます。12節に「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」とあります。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ」とあるのは、バプテスマを受けた人が水に沈んだとき、そこでその人が死んだことをさしています。出エジプトのとき、紅海の水が、エジプトの軍勢を呑み込みました。この出エジプトの出来事は、バプテスマのことだと聖書は教えています。バプテスマの水は第一に「裁きの水」です。そこで、古い自分が裁かれ、死んだのです。

 以前、洗礼槽のヒーターの調子が悪くて、水が十分暖まらなかったことがありました。その時バプテスマを受けた人が「死ぬかと思った」そうですが、その人は「死ぬかと思った」だけでなく、実際、その人は死んだのです。その人の古い自分はそこで死んだのです。水が冷たかったのはほんとうに申し訳けのないことでしたが、それによって「バプテスマによってキリストとともに葬られた」という真理をより実感していただけた思います。これからは、バプテスマの水を冷たくしたほうが良いかもしれません。

 バプテスマは古い自分が死ぬだけでなく、新しい自分が誕生することでもあります。バプテスマを受けた者は、水に沈められたときにいったん死に、水から上がったとき死から復活するのです。紅海の水はエジプトには裁きでしたが、イスラエルには救いでした。イスラエルは、紅海の水を通って、奴隷から自由の民へと変わりました。そのように、私たちもバプテスマによって罪の奴隷から解放され、罪に打ち勝ち、新しい歩みへと導かれました。バプテスマによって神を知らなかった時の、自分が中心の考え方、生き方から、神を第一にし、神のために生きるものへと変えられたのです。

 三、悪の力に対する勝利

 第三に、イエスは、その復活によって悪の力に勝利してくださいました。15節の「支配」や「権威」は、霊的な力、しかも、悪の力を指しています。古代には戦いに勝利した王は、自分が打ち負かした国々の支配者たちを捕虜にし、凱旋の行進に加え、人々に、敵の敗北を知らせたのですが、イエスもまた、復活によって悪の力を滅ぼし、ご自分の敵、また、私たちの敵に対するキリストの勝利の宣言されました。

 私たちは、自分で罪を犯すのですから、自分で罪をやめられるはずなのですが、自分の力でそれができる人は誰もいません。これはいけないから直そうと努力しても、そこから抜け出すことができないのが現実です。人は自分の罪の奴隷になるのです。また、社会の悪というものにも影響をうけます。社会の問題は個々人の罪から出てくるのですが、では、みんなが善意の人であれば、悪のない社会が生まれるかというとそうでないことを、私たちは知っています。多くの人が人間の意志や力を超えた悪の力があることを意識しています。聖書は、そのような力がこの世界に働いていると教えています。エペソ2:1-2に「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」とあります。ここには、人は三つのものに支配されていると言っています。第一はその人自身の「罪過と罪」、第二は「この世」、つまり神から離れ、神に敵対する社会や文化、第三は「空中の権威」「この世の支配者」「不従順の中に働いている霊」と呼ばれている悪魔や悪霊です。キリストはその復活によって、こうした目に見えない支配や権威にも勝利し、私たちをその力から解放してくださったのです。

 バプテスマは悪の力からの守りです。キリストはその復活の力によって私たちを守ってくださるのです。バプテスマの力は、キリストの復活の力そのものです。バプテスマは私たちにキリストの復活の力を与えるのです。

 しかし、バプテスマを受けた者は、その後、どんな生活をしようと自動的にその力が与えられるというのではありません。12節の前半には「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られた」とありますが、後半には「また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」とあります。バプテスマによってキリストとともに死んだ者には、信仰によって歩むことが求められています。バプテスマは信仰の終着点、卒業式ではありません。それは出発点、入学式です。ここから「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって」歩む毎日が始まるのです。それは、コツコツと毎日を主とともに歩む歩みです。毎週の礼拝によって導かれていく歩みです。そのようにして一年、一年を重ね、天のゴールを目指していく歩みです。この歩みから離れてしまいそうになったときには自分に授けられたバプテスマを思い返しましょう。バプテスマによって与えられた恵み、バプテスマによって招かれた信仰に立ち返りましょう。そして、そこから一歩一歩を歩き続けていきまよう。

 バプテスマの瞬間、それはほんの一瞬の出来事です。しかし、そこにはキリストの十字架と復活の奥義が凝縮されています。そこで、大きな神の救いの出来事が起こったのです。バプテスマを受けたばかりのときには、そこで起こった出来事をまだ十分に理解できないでしょう。しかし、やがてバプテスマの意味を深く知るようになります。それが、古い自分に死に、キリストに結ばれた自分に復活していくことであることが分かってきます。クリスチャンにとってグッドフライデーとイースターは年に一度の行事ではなく、毎日の出来事です。日々の歩みの中で、キリストが与えてくださった永遠のいのちが、信仰によって育っていくのを体験していきましょう。そして、そのような体験によって、イエス・キリストの復活を確信し、勝利の主をほめたたえましょう。ハレルヤ!

 (祈り)

 父なる神さま、イエス・キリストが十字架によって死と罪と悪の力と戦い、その復活によってそれらに勝利してくださったことを心から感謝します。主はその復活によって罪の中に死んでいた私たちを生かし、罪の束縛から解放し、悪の力から守ってくださいます。神さま、あなたは、この救いと勝利をバプテスマによって保証してくださいました。このイースターの朝、私たちは、あなたからいただいたバプテスマの恵みに応えて、ここから歩み出します。私たちを導き支えてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/24/2011