知恵と知識の宝

コロサイ2:1-5

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2:1 あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。
2:2 それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。
2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
2:4 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。
2:5 私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。

 きょうの説教のタイトルは「知恵と知識の宝」です。知恵と知識は誰にも必要で、誰もが求めているものです。こどもたちにどんなに多くの財産を遺しても、使ってしまえばそれで終わりです。しかし、こどもたちに教育を与えてあげれば、それによって仕事をし、生活を成り立たせることができますし、社会に役立つことができるようになります。日系社会で一世の方々が、子どもたちの教育に力を注いだのはそのためでした。しかも、クリスチャンは、子どもたちを大学に行かせることや、より専門的な技能を身につけさせることだけでなく、神から来る知恵、信仰の知識を身につけさせようとしました。教会はサンデースクールを盛んにし、ユース・グループを作り、カンファレンスやリトリートなどもして信仰の教育に力を入れ、若者たちを育ててきました。「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられる。」(箴言2:6)とあるように、私たちも、神からの知恵、みことばの知識を何にもまさって追い求め、それを次の世代にしっかり伝えていきたいと思います。そうすれば、この先、時代がどう変わっても、子どもたちは時代の波に呑みこまれ、世の嵐に負けることなく、確かな人生を送ることができるようになることでしょう。

 一、信仰の闘い

 きょうの箇所は「私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います」ということばで始まっています。ここで使われている「苦闘」という言葉は、1:29では「奮闘しています」という動詞の形で使われていました。この言葉には "struggle" "fight" "opposition" "concern" などという意味があります。パウロは、教会の父として、信仰の子どもが主を知り、成長することをいつも心にかけ、そのために闘っているというのです。信仰の知識を教え、伝えるのは、何の苦労もなくできるもではないからです。それは、皆さんも子育ての中で経験していることと思います。なかには勉強の好きな子どももいるかもしれませんが、ふつう、子どもは勉強が嫌いです。そんな子どもたちの好奇心をかきたて、発見の喜びを与え、知識を積み重ねていくために必要な忍耐や自制心を身につけさせるのは、大変なことです。子どもに毎日の宿題をさせるのに、それこそ子どもと格闘している親たちも多いのではないかと思います。

 そうした闘いに加えて、信仰を持つ親たちは、神のことばに反する教えとの闘いも経験します。進化論や、セックス・エデュケーシション、また、同性愛のことなど、聖書が教えているのとは違う価値観が学校で教えられるとき、なぜそれが間違っているのかをきちんと教えていくという闘いがあります。子どもたちも、宿題の答だけを書き写したり、試験のときに不正をしたり、いじめや万引き、うらないや偶像礼拝に誘われるということがあるのです。真っ向から信仰に挑戦してくるものばかりでなく、隠れた形で、子どもたちを信仰から引き離そうと誘惑するものでいっぱいです。聖書に基づいた教育は、ほうっておいてできることではありません。そこには「苦闘」があります。信仰の教育を与えようと子どもを教会に連れてくると、「そんなにしてまで子どもに信仰を教えるのは、押し付けになる。信仰は個人のことなのだから、子どもに選ばせれば良い」と言う人もいます。しかし、子どもは正しいものを選ぶことができる十分なものを与えられているでしょうか。信仰を選ぶか、無信仰を選ぶかは、その両方について十分な知識があってはじめてできることです。こどもたちは月曜日から土曜日まで、毎日何時間も信仰以外のことを学び、信仰のことは週に一度日曜日に一時間だけしか学んでいないかもしれないのです。もし、日曜日に教会にも来ないし、家庭でも聖書が開かれず、賛美も祈りもないというのであれば、子どもは、どうして、信仰を選ぶ判断ができるというのでしょうか。ほんとうに子どものことを考えるなら、信仰の教育をもっと本気で考えてあげなければならないと思います。

 子どもの信仰のために心を砕いている親であれば、また、教会でこどもたちを教えている教師であれば、さらに、次の世代を心にかけ祈っている大人であれば、パウロが教会のために、まだ会ったこともないラオデキヤやコロサイの教会のためにも、苦闘していたその苦闘を理解することができると思います。パウロが「私がどんなに苦闘しているか、知ってほしい」と言ったことばを、覚えて、私たちも、今の時代に、この場所で、与えられた信仰の闘いにひるむことなく立ち向かいたいと思います。

 二、闘いの目標

 パウロはコリント第一9:26で「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません」と言いました。競走、競技、闘いで目標やゴールを見失ったら、どんなに一所懸命走っても、拳を振り回しても無駄です。自分は何のために、どんな相手と、どのように闘っているのかということが分からなくてはいけません。パウロは、信仰の闘いにおいて、はっきりとしたビジョン(目的)、ゴール(目標)やストラティジー(方策)を持っていました。パウロは自分の働きのゴールを、1:28で「それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです」と言いましたが、2:2-3では、それを別のことばで言い換えて、こう書いています。

それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

 ゴールは「神の奥義であるキリストを真に知る」ことです。今、世界でイエス・キリストの名を聞かなかった人はほとんどいないでしょう。しかし、「イエス・キリストを知っている」という人のすべてが「キリストを真に知っている」わけではありません。クリスマスは世界中で祝われていますが、神の御子キリストが私を救うために人となってくださったことを知っている人はどれだけいるでしょうか。もうすぐイースターが祝われますが、キリストが十字架にかかられたのが私の罪のためであり、死者の中から復活されたのは私を救うためであったと知っている人は、このアメリカでも、多くはないと思います。また、イエス・キリストがどんなに聖く、高く、力あるお方であるかを知っているクリスチャン、キリストの真実、恵み、またキリストの愛を知り、体験している信仰者となると、さらに数少ないかもしれません。ですから、神の奥義であるキリストを真に知るようになることが、すべてのクリスチャンのゴールとして与えられているのです。

 私たちの教会では近いうちに、執事と理事を選びますが、聖書は、こうした人々について「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人」(テモテ第一3:9)という条件をつけています。「信仰の奥義を保っている」人とは、「神の奥義であるキリストを真に知っている」人という意味です。執事として働くには、人柄や能力が必要でしょう。理事の働きにはある程度の専門知識も求められるでしょう。しかし、聖書が一番大切にしているのは、その人たちが本当にキリストを知り、健全な信仰を保っているということです。教会は、信仰の共同体です。真理のために共に闘う砦です。様々なことが決められ、さまざまなことが行われますが、それが信仰にもとづき、真理にそうものでなければ、「団体」としては問題なく運営されていても、キリストの「教会」としては問題が残り、真理を伝える力を失ってしまいます。それで、執事や理事は、キリストを知り、キリストにある成人として成長していくことを目指す人々の模範であるようにと、聖書は教えているのです。

 どの団体も、それが力強く前進していくためには、ビジョン・目的・ゴールと、人々をそこに導くリーダシップが必要だと言われます。教会にもビジョンが必要です。よく「ビジョンを作る」と言いますが、教会に関して言えば、ビジョンは作るものではなく、与えられるものです。そして、神はすでに聖書の中に教会が目指すべきものを示していてくださっているのです。私は、ペニンスラ・バイブル・チャーチに行ったとき、教会の正面に「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」(コリント第一6:20)と彫られてあるのを見ました。聖書のことばがそのままこの教会のビジョン・ステートメントでした。聖書には、それがそのままビジョン・ステートメントになるような箇所が数多くあります。コロサイ2:2-3もそのまま教会のビジョンとして受け取ることができる箇所だと思います。「神の奥義であるキリストを真に知る」これを、私たちのビジョンとし、ゴールにすることができたら、すばらしいと思います。

 三、闘いの方策

 パウロは闘いのゴールを「奥義であるキリストを知ること」と定めました。そして、そこに至るために必要なものを三つあげました。それは、2:2の前半に「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し」とあるように、「励まし」と「愛」と「理解」の三つです。

 確かに闘いで一番必要なのは「士気」です。「士気」というのは「武士」の「士」と「勇気」の「気」です。英語的に言うなら「サムライ・スピリット」です。今回の東日本大震災では、日本の各地から消防隊がかけつけました。大阪府の富田林からも消防隊が派遣され、岩手県大槌町で人命救助活動に携わりました。そして、地震発生から92時間ぶりに70歳の女性を、がれきの下から救い出しました。この女性を救出した富田林市消防本部の中野敬介さんは「すごくうれしかった。救助活動している仲間の士気も高まった」と話していました。真理のための闘いが困難だと、キリストの兵士である私たちの士気は、ともすれば小さくなり、消えかかってしまうことがあります。常に心に励ましが必要です。あらゆる慰めと励ましのみなもとである聖霊を求め、この聖なる、偉大なスピリットによって、私たちのスピリットも高められたいと思います。

 第二は「愛」です。とくに真理に対する愛です。イエス・キリストは「わたしは真理である」(ヨハネ14:6)と言われ、神のことばは真理であるとも言われました(ヨハネ17:17)。クリスチャンは真理のために、キリストのために、神のことばのために闘っているのです。ですから、自分たちが守ろうとしている真理に対する愛を確認して、共に闘う必要があります。それぞれが別々の方向を向いていては、真理を葬り去ろうとする大きな力に抵抗することはできません。真理への愛で結びあわされる私たちでありたいと思います。

 第三は「理解」です。皆さんは、買い物に行って、店員に「この品物はどこにありますか。」「この製品と、あの製品とはどこがどう違うのですか」などと聞いても、店員が良く分からなかったりして、がっかりしたことはありませんか。逆に、自分が探しているものの名前がわからなくて、「こんなときに、こうやって使うものはどこにありますか」と、あいまいなことを聞いても、「それはこれでしょう」と言って見つけてくれた店員に出会ったときにはうれしくなりますね。私は、あるとき、シャワーヘッドを取り替えるので、水漏れを防ぐためにそのネジに巻くテープを買いにいきました。そのテープの名前が分からなかったので、店員に「これこれこういうものが欲しい」というと、すぐに見つけてくれました。ついでに「これ、なんていう名前なの」と聞いたら「シリコンテープって言うんだ」と教えてくれました。この人は自分のデパートメントだけでなく、店全体のことを良く知っていて、自分たちが扱っている商品についての知識を持っていたのです。同じように、キリストを信じ、キリストを宣べ伝えている私たちも、自分たちの持っている信仰、私たちが伝えている教えをきちんと理解していたいと思います。はじめて教会に来た人から信仰のことを尋ねられたとき、もし、それに答えられなければ「牧師に聞いてください」と言って良いのですが、基本的なことは、誰もが答えられるように、しかも、正確に答えられるようになっていたいと思います。信仰はかならずしもすべてを理解してから持つものではありません。理解できないことがあったとしても、まずは信じて受け入れることが大切です。しかし、信仰を持った者は、自分が信じていることを理解したいと願うはずですし、神もまた、信仰者をそのような理解に導いてくださいます。パウロはテモテ第二1:12で「私は、自分の信じて来た方をよく知っている」と言いました。私たちも、自分の信仰を理解し、さらに強い信仰の確信へと導かれたいと思います。

 新年度が近づき、執事や理事だけでなく、それぞれの集会の責任者や多くの奉仕者が求められています。皆さんは、奉仕を頼まれて、「私には能力がないから」「十分な知識がないから」と言って心配になることがあるでしょう。しかし、能力や知識は後から付いてくるものです。もし、人が真にキリストを知っているなら、その人は、キリストに仕えるのに必要なすべてを備えられるのです。3節に「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」とある通りです。キリストは知恵と知識の宝です。キリストを知る者は、知恵と知識の宝を持つのです。逆に、どんなに知識があり、能力があっても、キリストを知らないなら、またキリストを知ろうとしないなら、その人は、キリストに仕えるための知恵と力を失ってしまうのです。キリストはすべてのものの造り主です。キリストを持つ者はすべてを持ち、キリストを持たない者は何も持たないのです。

 パウロはピリピ人への手紙で、自分の経歴を並べたあとで、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました。それどころが、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:7ー8)と言っています。「キリストを知ること」、それはどんな身分、立場、経歴、栄誉よりもすばらしいものです。「キリストにはかえられません」という聖歌は、パウロがピリピ人への手紙で言っていることを代弁しているかのようです。

キリストにはかえられません 世の宝もまた富も
このお方が私にかわって 死んだゆえです

キリストにはかえられません 有名な人になることも
人のほめることばも この心を惹きません

キリストにはかえられません いかに美しいものも
このお方で心の 満たされてある今は

世の楽しみよ去れ 世の誉よ 行け
キリストにはかえられません 世の何ものも
キリストを知る人は、この世のどんなものにもまさるものを知っている人です。キリストにある最高の宝を喜んでいる人です。私たちもキリストを知ることの素晴らしさをもっと味わいたいと思います。そこに隠された知恵と知識の宝から豊かに受けて、主のために励む者となりたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちに、奥義であるキリストを示してくださり、こころから感謝します。キリストを信じた私たちに、さらにキリストを知ることを教えてください。私たちがキリストを知ることによって、人々は私たちを通してキリストを知るようになります。私たちをキリストのうちにある知恵と知識の宝によって強め、導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/3/2011