御霊による愛

コロサイ1:3-8

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1:3 私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
1:4 それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。
1:5 それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。
1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
1:7 これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、
1:8 私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。

 明日はバレンタイン・デーです。バレンタインは実在の人物で、269年、ローマ帝国皇帝クラウディウス2世のときに殉教したウァレンティヌスのことだとされています。皇帝は、妻を残して戦地に行くと士気が下がるという理由で、兵士たちの結婚を禁止したのですが、バレンタインはそれにかまわず兵士たちを結婚させたので、捕らえられ、処刑されました。その殉教の日、2月14日が「バレンタイン・デー」となったのですが、バレンタイン・デーは教会や信仰と関係ないところで、チョコレート会社の宣伝材料に使われてきたようです。

 バレンタイン・デーで祝われる「愛」と聖書の「愛」はまったく同じものではありませんが、この日に聖書が教える「愛」を考えてみるのは良いことと思いますので、きょうの箇所から、神が私たちに与えてくださった愛が、どんな愛なのかをご一緒に学んでみたいと思います。

 一、信仰と愛

 今朝の箇所はパウロからコロサイのクリスチャンへの挨拶の部分です。パウロはコロサイのクリスチャンに「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています」(3節)と言っています。コロサイのクリスチャンの何を感謝していますか。それは、三つのもの、「信仰」と「希望」と「愛」です。4節に「それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです」とあって「信仰」と「愛」が出てきます。5節には「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです」とあって、「望み」、つまり「希望」について語られています。パウロはコロサイのクリスチャンに与えられた「信仰・希望・愛」の三つの賜物を感謝しているのです。コリント第一13:13に「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」とあるように、「信仰・希望・愛」の三つは、クリスチャンにとって何よりも大切なもの、クリスチャンを生かしているもの、クリスチャンのいのちです。「信仰・希望・愛」のどれを失っても、クリスチャンはクリスチャンでなくなってしまいます。名前だけのクリスチャンになってしまい、内実のないものになってしまうのです。「信仰・希望・愛」は、クリスチャンをクリスチャンにしているものと言ってよいでしょう。

 しかも、「信仰・希望・愛」の三つは常に一体で、切り離すことはできません。「信仰・希望・愛」は三つ葉のクローバーのようです。三つ葉のうちひとつでも切り取られたら、もうクローバーでなくなってしまうのと同じように、「信仰・希望・愛」のうちどれかひとつでも取り除かれたなら、他のものは無意味なものになってしまいます。5節には、「信仰」と「愛」は希望に基づいていると教えられています。「希望」なしに「信仰」も「愛」もないのです。また、コリント第一13章に「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません」(コリント第一13:2)とあるように、「愛」のない「信仰」は欠陥のある信仰です。「完全な信仰」と書かれていても、「愛」のない「信仰」は「完全」どころか、「不完全」な信仰になってしまうのです。逆に、信仰に基づかない「愛」は、高く、聖く、深く、大きい愛とはなりません。コリント第一13章に「(愛は)不正を喜ばずに真理を喜びます」(コリント第一13:6)とも教えられているように、本当の愛は決して真理をないがしろにしません。真理を慕い求め、それを守り、それを喜ぶのです。そして、私たちを真理に結びつけるのは「信仰」なのですから、「信仰」なしには「愛」は本物の愛にならないのです。

 「信仰・希望・愛」の三つは強くつながっていています。互いに互いを必要としています。三つが共に成長していくのです。しかし、「信仰・希望・愛」の成長には最初に「信仰」、次に「希望」、そして「愛」という順序があります。「信仰・希望・愛」をチューリップのような球根にたとえるなら、信仰は「根」で、希望は「葉」です。愛は「花」です。愛は、信仰の根に支えられ、希望の葉に養われてはじめて花を咲かせることができるのです。誰もが「愛」を求めます。「愛の人」になりたいと願っています。しかし、「愛」だけが独立して成長することはありません。愛を育てたいと願うなら、「信仰」から始めなければなりません。人と人の間でも、信頼のないところに、愛は育ちません。まして、神と人との間では、神への信仰や信頼のないところでは、神の愛を受けることも、神を愛することもできないのです。愛を育てるために、まずは信仰を育てましょう。

 二、みことばと愛

 では、信仰はどのようにして育つのでしょうか。それは「みことば」によってです。みことばに「聞く」ことによってです。ローマ10:17に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とある通りです。コロサイ人への手紙でも、5節で「あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました」と言われています。コロサイの人々はエパフラスから、この「福音の真理のことば」を聞きました。聞いて、イエス・キリストを信じ、神の国の希望を持ち、そして、愛を与えられたのです。ここで「聞く」という言葉はたんに耳に聞こえてくるという意味ではなく、もっと積極的に、耳を傾けて聞くということです。英語なら "hear" でなく "listen" という言葉で訳したほうが良いでしょう。いや、"learn"(学ぶ)、"receive"(受け取る)、"experience"(体験する)といった言葉のほうが適切かもしれません。6節に「あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来…」とあるように、みことばを「聞く」というのは、みことばによって伝えられる恵みを受け取り、その真理を理解し、実際に体験することを意味しているのです。

 みことばにはいのちがあり力があります。6節に「この福音は…あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています」とある通り、福音はペンテコステの日以来、わずか30年で当時のローマ帝国のあらゆるところに広まりました。パウロは言いました。「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」(テモテ第二2:9)そうです。みことばはあらゆる束縛を打ち破り、迫害を乗り越え、全世界にひろがり、私たちにも届いたのです。私たちは、このみことばによって罪と死の恐怖から解放されたのです。

 みことばのいのちと力は、世界にひろく働くとともに、人のたましいに深く働きます。私たちのたましいを造りかえ、私たちを愛で満たすのです。6節に「実を結び広がり続けています」とありますが、私たちのたましいのうちに結ばれる「実」が愛の実であることは、言うまでもないことです。聖書は神からの愛のメッセージです。神からの「愛のことば」を聞くことなしには、神の愛は分かりません。神の愛が分からなければ、神を愛することも、他の人を愛することも本当の意味ではできないのです。みことばに聞きましょう。聞き続けて、毎日毎日、一刻一刻、神の愛を確認していきましょう。聖書には、神への「愛のことば」も数多くしるされています。私たちはどうやって神への愛を言い表したらよいのか分からない者たちですから、神は、私たちのために聖書の中に、すでに、そのようなことばを与えておいてくださったのです。聖書に数多くある神への賛美のことば、感謝のことば、祈りのことばを習い、それを使って、神への愛を言い表していきましょう。

 三、御霊と愛

 最初に「信仰と愛」について、次に「みことばと愛」について学びました。最後に「御霊と愛」について学びましょう。8節に「(エパフラスは)私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました」とあります。「御霊による愛」とは何でしょうか。聖書が「御霊によって」あるいは「聖霊によって」というときには、人間の知恵や知識、体験や経験を超えたまったく新しいものを指す場合が多くあります。イエスがニコデモに「聖霊によって生まれる」と言われたとき、それは、全く新しい誕生を意味しました。パウロがコリント人への手紙で「生まれつきの人」と「御霊の人」とを対比させたときも、「御霊の人」を、神によって新しく生まれた人、キリストによって造りかえられた人という意味で使っています。ですから「御霊による愛」というのも、生まれつき備わった人間的な愛以上のもの、神によって新しく与えられた愛を指しているのです。

 御霊による愛は、なにより、神を愛する愛です。コロサイの人々は、ギリシャの神々やローマの神々を礼拝してい人たちでした。しかし、みことばを聞いて、偶像を捨て、生けるまことの神に立ち返りました。偶像の本質は自己愛です。人々が偶像の神々を拝み、それに祈るのは、神々の思し召しに従うためではなく、自分の願望を聞き届けてもらうためです。ときには、醜い欲望さえも神々の助けを得て果たそうとします。日本にも人を呪い殺すような宗教がありますし、ある地方では「縛り地蔵」というものがあり、「お地蔵さま」を縛って馬で引き回し、「願いを叶えないとひどい目にあわせるぞ」と脅迫するのだそうです。イザヤ書にこんなことばがあります。

彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。(イザヤ44:14-17)
まことの神を知らない人のすべてが、このようでなくても、偶像を拝む大半の人々は、結局は神にではなく自分の腹(欲望)に仕えているのです。イエス・キリストを信じ、まことの神に立ち返るとは、今まで信じ、頼っていた神々と「キリスト教の神さま」を取り替えるということではないのです。クリスチャンになるというのは、宗教を変えるということでもないのです。神なしに生きてきた自分が、はじめて神を持つ、イエス・キリストを「私の神」、「私の主」とするということなのです。キリストを持たなかった人は、たとえ何かの宗教を持っていたとしても、その宗教で礼拝していたのは実のところ自分自身だったのですから、ほんとうの意味で神を持っていなかったのです。無神論者でなくても、聖書によれば、キリストを持たなかったとき、人は神無き者だったのです。

 しかし、コロサイの人々は、福音を聞いて、イエス・キリストを信じ、神の愛を知り、神を愛する愛を与えられました。そしてその愛は互いに愛し合う愛へと発展していきました。4節に「すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛」とあるように、コロサイのクリスチャンは聖霊による愛、新しい愛を与えられて、互いに愛し合っただけでなく、他の地域のクリスチャンのためにも、祈り、働くようになりました。その愛はコロサイだけにとどまらず、アジアの各地にまで聞こえるようになり、ローマにいるパウロの耳にまで届いたのです。

 同じようなことは、テサロニケの教会にも起こりました。テサロニケ第一1:2-3に、こう書かれています。

私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
「信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐」ということばがあるように、テサロニケの教会も「信仰・希望・愛」に生きていました。聞いて、信じて、愛して、その愛が人々の口を通して語られ、聞かれるようになっていったのは、コロサイの教会もテサロニケの教会も同じでした。私たちも同じでありたいと思います。聞いて、信じて、愛する。聖霊がそれをしてくださいます。御霊による愛で生かされていく私たちでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが主イエス・キリストによって与えてくださった「信仰・希望・愛」の賜物を心から感謝します。私たちがそれをみことばによって育て、御霊によって実行することができるよう、助けてください。私たちに与えられた信仰と希望と愛とが、さらに深まり、あなたを証しし、多くの人があなたを見出すことができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。

2/13/2011