信仰の出発点とゴール

コロサイ1:25-29

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1:25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
1:26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 一、出発点―あるがままの自分

 NHKラジオに「英語会話」という番組があります。みなさんの中にも、これで英語の勉強をした方が多いと思います。私は、松本亨さんが講師の時にこの番組を聞き始め、松本亨さんから東後勝明さんに講師が変わった頃まで聞いていました。東後さんは1972年から13年間、「英語会話」のラジオ番組を担当ししました。

 東後さんは17歳のとき、父親を失くしました。お父さんは死ぬまぎわに、「勝明、おまえ、出世しろよ。」と言い残していきました。東後さんは、その言葉を守り、必死に勉強し、留学もし、大学教授への道を登っていきました。NHKの番組「英語会話」の仕事はとても大変なもので、時間に追われる生活をしていました。そのため、東後さんの娘が不登校になり、家族の信頼関係が大きく揺らぐようになっていました。家族と口をきくのがおっくうになり、仕事が終わって家に帰ろうとすると足がすくむようになったそうです。NHKの「英語会話」の仕事が終わたあとも、そのためにできなかった大学での研究に没頭していたため、家庭を顧みることがありませんでした。

 そんな時、大学の教授会で報告を読み上げていた東後さんが、急に、極度の貧血で倒れたのです。救急車で近くの病院に運ばれました。どこかの動脈が切れ、血液がおなかの中に貯まっていたのです。すぐに手術ということになったのですが、そのとき、出血が止まり、病室に戻されました。東後さんの奥さんがクリスチャンで、その教会の牧師が東後さんを病室に訪ねました。牧師は東後さんの枕元で詩篇23篇を読みはじめました。東後さんは、聖書のことばを聞くうちに、今までとは違う生き方があることに気付きました。今まで父親のことばに従って、出世のために頑張ってきたのですが、人間の頑張りを超えた、信仰の世界があることが分かってきたのです。それは、ちょうど東後さんの56歳の誕生日のことでした。

 それから、東後さんは、奥さんといっしょに教会に行くようになりました。それまでの東後さんの信条は「人より一歩でも前に出る」ことでした。彼は、人一倍の努力家でした。しかし、その努力は、家族であれ、友だちであれ、職場の同僚であれ、常にその中心に自分がいたいという願い、「この世の中すべてが自分中心に回って欲しい」という思いから出たものでした。聖書を学ぶにつれて、東後さんは、自分がいかに自己中心的で、他者に対する配慮を持たない人間であるかが分かってきました。

 そのころ、家庭が崩壊寸前というところまで来て、東後さんは、研究をとるか、家庭をとるかの決断を迫られました。聖書の光を受けていた東後さんは、家庭を選びました。その決断は神の助けなしはできない決断でした。そして、東後さんは、あの入院から一年後のクリスマスに洗礼を受けました。1995年のことでした。洗礼のあと、東後さんは、大学で学生担当教務主任になり、定年退職まで学生たちの相談にのるようになりました。それまでは学生にとって「怖い先生」だった東後さんが大学でも評判の「優しい先生」に変わっていったのです。もちろん、東後さんの家庭が一変したことは言うまでもありません。

 東後さんが母校の高校に招かれたとき、「ありのままを生きる」というテーマで講演しました。「みんなそれぞれ神さまから尊い命を頂いているのだから、自分らしい人生を生きればいい。勉強ができようが、できまいが、容姿がよかろうが、なかろうが、そんなことは問題ではない。あなたの真の価値、命の重みは変わらない」と話しました。講演のあと、目を真っ赤に泣きはらした女子生徒がやってきて、東後さんにこう言いました。「私はこれまで十七年間、『そのままでいい』と言われたことは一度もありませんでした。そんなことばを聞いたのは、今日がはじめてでした。いつも『ここが駄目、あそこが駄目』『こうしなければ、ああしなければ』と言われ、本当に自分は駄目な人間と思っていました。」そして、あたりかまわず泣いたそうです。

 神は、あるがままの私たちを愛しておられます。聖書はこの神の愛を次のように言っています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)あるがままの私たちは、神の前には罪人の私たちです。しかし、神はその罪人を愛してくださったのです。ビリーグラハムの伝道集会では、かならず「いさおなきわれを」という賛美歌が歌われていました。「いさおなき我を 血をもて贖い イエス招き給う み許にわれゆく。」英語では "Just as I am, without one plea, But that Thy blood was shed for me, And that Thou biddest me come to Thee, O Lamb of God, I come, I come!"(あるがままで、何の言い訳もなく、あなたの血が私のために流されたゆえに、あなたが私を「来なさい」と招いておられるゆえに、神の子羊よ、私は行きます。私は行きます。)と歌われています。神の前には、どんなに自分を立派に見せようとしても無駄です。神はあなたの心の奥底まで見抜いておられます。逆に自分を卑しめるのも間違っています。神は、あなたのあるがままを認めおられるのですから。"Just as I am" あるがままのあなたを愛しておられる神に、あるがままで飛び込んでいきませんか。それが、信仰の出発点です。

 二、目標―キリストにある成人

 「あるがままの自分が神に受け入れられている。」これは聖書の素晴らしいメッセージです。しかし、それが聖書のメッセージのすべてではありません。その続きがあるのです。「あるがままの自分」は信仰の出発点です。聖書は出発点だけでなく、ゴールも示しています。出発点は、ゴールがなければ意味がありません。そのゴールとは、コロサイ1:28の「キリストにある成人」です。「成人」というのは、「おとな」という意味です。イエス・キリストを信じるとき、人は聖霊によって、新しく生まれ変わります。霊的に誕生するのです。東後さんは57歳になって、その誕生を体験しました。生まれたばかりの人はみな赤ん坊です。東後さんのように、大学教授として第一線で活躍していた人であっても、今から16年前には、霊的には赤ん坊だったわけです。東後さんは、その後の教会生活によって、出世街道を突っ走る人から、家族を愛する人となり、自己中心的にものごとを動かす人から、学生たちの立場にたって物事を考えることのできる愛される教授に変えられ、霊的に成長して行ったのです。

 「あるがままで愛されている」ということは尊い真理です。しかし、それは、悔い改める必要がないとか、救われる前の状態にとどまっていて良いということでは決してありません。「あるがまま」ということが、罪を悔い改めないことの言い訳に使わるとしたら、それは、私たちを「あるがまま」で救ってくださった神をどんなに悲しませることでしょうか。神は「罪人」(sinners)を「聖徒」(saints)に変えようとしておられます。もし、あるがままで神の前に出るという出発点は持っていても、聖なる者となるためきよめられていくこと、キリストにある成人として成長していくというゴールを見失ってしまったら、信仰生活は、自己満足的なもので終わってしまい、目的の無いもの、力の無いものとなってしまいます。

 今から30年前までは、もっと真理を知りたい、さらに神とのまじわりを深めたい、もっと聖められたいという霊的な飢え渇きが、多くのクリスチャンにあったように思います。そして、同時に、そこには、みことばをさらに深く理解しようとしてなかなかできないもどかしさや、神との豊かなまじわりを失った寂しさ、なかなか聖めに達することができないといういらだちもありました。人は自分の努力で救われるものではありませんが、救われた者にはさらに神を求める努力や苦闘があるのです。しかし、すべてのことが最小限の努力で手に入るインスタントな時代となるにつれて、信仰のことがらも、最小限のことだけを知っておけばそれで良いと考えられるようになってきました。より高いものを求めてストラグルするよりも、低いところで落ち着いていたほうが良いという風潮がクリスチャンの間にも広がるようになりました。「ストレスの多い現代に聖書を学ぶために努力するなんて、ストレスを加えるだけだ」「忙しい毎日に、祈りのために時間を割くことなどできるわけがない」などと言って、今まで大切にされてきたことが否定されるようになり、お手軽るなことだけが求められるようになりました。しかし、それでは、霊的にはいつまでたっても成長することができず、信仰生活でほんとうのいのちと力を体験することができないままで終わってしまいます。

 パウロは25節で言っています。「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。」(25節)パウロは神のことばの一部を伝えればそれで良いとは言いませんでした。その全部を、余すところなく、伝えるのが自分の務めであると言いました。実際、パウロは使徒20:27で「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」と言っています。キリストは小さなこどもでも、知り、信じることができるお方です。しかし、だからといって、キリストは決してちっぽけなお方ではありません。キリストは神の本質の満ち満ちたお方であり(コロサイ1:19)、すべてのものを造り(1:16-17)、すべてに満ちておられるお方です。このお方を知るのに、だれも「もうこれで十分」と言うことはできません。キリストは、私たちにとって「奥義」であり、どこまでも奥深いお方なのです。

 パウロは、キリストについて「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(27節)と言いました。「奥義」とは、今まで隠されていたが、時が来て明らかにされたもののことです。キリストは旧約時代には隠されていましたが、今、新約の時代には福音によって明らかにされました。それで、キリストは「奥義」と呼ばれています。しかし、キリストは、すべての人に自動的に明らかになったわけではありません。「奥義」という言葉には、信仰によって理解されるものという意味もあります。さらにキリストを知りたいと願い求める信仰によってはじめて、私たちは「奥義」であるキリストを知ることができるようになるのです。キリストが私たちの「中におられる」ということが体験できるようになるのです。どんな苦しみの中にあっても、キリストが「栄光の望み」となって、その希望が私たちを生かし、私たちを支えるのです。

 私は末っ子でしたので、こどものころ、兄とせいくらべをして、いつも負けていました。柱の上のほうにある兄や姉の背丈に早く届きたいと願ったものです。兄の背丈が私のゴールでした。私は中学生ごろから急に身長が伸び出し、そのゴールは達成されたのですが、クリスチャンとなった私に、神は、「キリストの背丈」まで届くようにとのゴールを与えてくださいました。エペソ4:13-15にこうあります。

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
これは、コロサイ1:28で「すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです」と言われていることを別の言葉で言い表したものです。

 ひとりびとりの霊的な成長の度合いや、成長のしかたはそれぞれに違っています。信仰をもってすぐに成長する人もあれば、長い時間をかけて徐々に成長する人もあります。若いころはそうでなくても、生涯の終わりになってその成熟さを増す人もあります。しかし、成長しなくて良い人は誰もいないはずです。コロサイ1:28に「<あらゆる人>を戒め、<あらゆる人>を教えています。それは、<すべての人>を、キリストにある成人として立たせるためです」あるように、神は「あらゆる人」、「すべての人」が、いつまでもこどものままではなく、キリストにあって成人(おとな)になることを願っておられるのです。

 神は、すべての人に霊的な成長を願っておられます。けれどもそれは、人間の親が子どもに行き過ぎた「要求」や「期待」をかけるのとは、まったく別のものです。神は、私たちが罪人のままでいることがないように、私たちを聖霊によって生まれ変わらせ、私たちのうちに新しい命を与えてくださいました。私たちはキリストにあって造り変えられ、新しくされたものなのです。クリスチャンにとって「あるがままの私」とは、救われる前の古い私ではなく、キリストにある私、キリストに結ばれた新しい私です。神は、私たちに無いものを要求するお方ではありません。神は私たちに成長する命をお与えになったゆえに、私たちの成長を願い、それを喜んでくださるのです。私たちも神からの賜物に気づき、「キリストにある私」を発見し、「キリストにある成人」を目指していきたいと思います。

 さきほど私たちは「なおも御恵みを、なおも御救いを、なおもわがために、見失せし主を知らん。なお深く主を、なお深く主を、なおもわがために、見失せし主を知らん」と賛美しました。この賛美が私たちの日々の祈りとなり、「なお深く主を」という成長を求める願いが私たちのうちにあふれるよう願ってやみません。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝、私たちは、あなたの愛が、私たちの成長の出発点であり、またゴールに導く力であることを学びました。私たちを「あるがまま」で受け入れてくださったあなたの愛、私たちを「キリストにある成人」として立たせようとしておられるあなたの恵みに信頼します。私たちのうちに成長を願う思いを満たし、あなたの教会の中で、あなたの恵みによって養ってください。私たちの成長のゴールである主イエスのお名前で祈ります。

3/27/2011