第一のお方

コロサイ1:15-18

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1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

 イエスは、いままで誰も語らなかったような仕方で語り、誰も出来なかったさまざまな奇蹟をなさいました。それで人々は、イエスを驚きの目で見て、「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう」(マルコ6:2)と語り合いました。イエスが人の罪を赦すのを見て、人々は「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう」(ルカ7:49)と言って驚きました。ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネを殺した人物ですが、ヨハネよりも多くの人々がイエスに従って行くのを見て、「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう」と言いました。イエスの弟子たちも、イエスがガリラヤ湖の嵐を静めた時、驚き、恐れて、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」(マルコ4:41)と言っています。

 「このお方はどういう人なのだろう。」聖書はこの問いにさまざまな形で答えています。きょうの箇所では、この問いに、イエス・キリストは神の御子であり、すべてのものの上に立つ、第一のお方であると答えています。この箇所は神の御子としてのイエス・キリストを賛美している、力強く、また美しい箇所ですが、ここから、イエス・キリストがどのようなお方なのかを学びましょう。

 一、造られたものにまさる方

 今朝の箇所は二つに分けることができます。15-17節と18節です。15-17節はイエス・キリストがあらゆる造られたものの上におられ、すべてを治めておられるお方であると教えています。つまり、この世のすべてのもの中で第一のお方であるというのです。18節はイエス・キリストが教会のかしらであり、この世のことだけでなく、救いの領域においても、神の国においても第一のお方であると教えています。

 そして、この二つの部分にはイエス・キリストについて同じ言葉が使われています。それは「長子」、ギリシャ語では「プロートトコス」、英語では "firstborn" という言葉です。15節で「先に生まれた方」、18節で「最初に生まれた方」と訳されている言葉がそれです。両方とも、同じ言葉が使われていますが、それぞれ強調点が違います。15節の「造られたすべてのものより先に生まれた方」と言われているところで使われている "firstborn" は、キリストが他とは区別された特別な存在であることを示しています。

 今日の日本やアメリカでは、「長男」だからといって特別扱いされなくなってきましたが、古代には、とくにイスラエルの国では、「長男」には特別な権利とまた責任が与えられていました。長男は他の兄弟の二倍のものを相続しました。財産ばかりでなく、神からの祝福を受け継ぐ者でした。創世記のヤコブとエサウの物語では、エサウが「長子の特権」を軽んじたため、それがヤコブのものになってしまったことが書かれています。出エジプト記では、家畜も人も最初に生まれたものは神のものであると定められました。聖書では「長子」は特別な存在として扱われています。コロサイ1:5での「長子」 "firstborn" という言葉も、キリストが造られた他のものから区別された特別なお方であることを示すために使われています。

 ギリシャの思想では人間は神々の子孫であると考られていました。それで人々は、聖書がイエスが「神の御子」であると教えていても、それを正しく理解しないで、イエスを他の人間と変わらない存在にしてしまいました。その人たちは「イエスが神の子だからと言って何も特別なことはない。我々も神の子なのだ」と考えました。イエスはすぐれた人物であったとしても、自分たちと同じところに立つ者であり、イエスは模範、教師、先輩にすぎず、誰もが努力すれば「キリスト」になることができると考えたのです。

 それに対して聖書は、神とそれ以外のものの間にはっきりとした区別をつけています。神おひとりが創造者であり、他のすべてのものは神によって造られたもの被造物です。神のように自ら存在しているのではなく、神によって存在させられているものです。人間は神のかたちに、神に似せて造られてはいますが、神ではありません。絶対でも、無限でもありません。天使は、人間よりももっと神に近い存在ですが、天使もまた被造物です。目に見えるものが被造物で見えないものは神であるというのではありません。コロサイ1:16は「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。」と言っています。ここで「天にあるもの」や「見えないもの」というのは、霊的な世界のことを指していますが、神以外のすべてのものは、たとえそれが霊的な存在、超自然的なものであったとしても、神によって造られたもの、被造物です。

 しかし、キリストは被造物のひとつ、神によって造られたものの一部ではありません。コロサイ1:16が「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」と教えているように、キリストは創造者です。すべてのものがキリストにあって、キリストによって、キリストのために造られたのです。そうであるなら、キリストが造られたものの中に含まれることはありえないのです。キリストは永遠の先から父なる神とともにおられた神の御子、ひとり子なる神です。

 ヨハネの福音書は、イエスが造られたもののひとつではなく、すべてのものをお造りになった方であることを、次のように言っています。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1-3)
イエスご自身も、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(ヨハネ8:58)と言って、ご自分が永遠のお方であることを明らかにされました。

 イエスは、神が「わたしは有って有る者」と言われたのと同じように、"I am that I am." と言われたのです。イエスは弟子たちに命じて言われました。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:19-20)
弟子たちは、キリストが世のはじめから世の終わりまで共におられることを堅く信じ、そのことに励まされて、恐れることなく、キリストを宣べ伝えたのです。

 イエスが神の御子であり、この世界の、いや全宇宙の造り主であり、それらすべてのものを治めておられるお方であるなら、このお方を信じる者は、この世のどんなものにも恐れることなく、勝利の中を歩むことができます。ローマ人への手紙8:35-39には次のように書かれています。

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
この箇所は、どんなに力あるものがあったとしても、それはしょせん「被造物」にすぎない。キリストが万物を造り、それを治めておられる。だから、「どんな被造物も、私たちを神の愛から、私たちを引き離すことはできない」と宣言しています。信仰の勝利宣言です。キリストを、あらゆるものの上に立つ第一のお方として信じる信仰が、私たちを勝利に導くのです。

 二、復活をもたらすお方

 さて、きょうの箇所の第二の部分、18節には「御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです」とあります。ここでも "firstborn" という言葉が「(死者の中から)最初に生まれた方」というところで使われています。

 15節の「(造られたすべてのものより)先に生まれた方」というところで使われている "firstborn" は、他とは区別されたものという意味でした。しかし、18節の "firstborn" は、他との区別でなく、つながりを示すために使われています。どういうことかと言うと、キリストが十字架から三日目に死に勝利し、墓を破って復活なさったのは、ご自分が神であり、救い主であることを示すためだけではなく、キリストを信じる者にも、キリストと同じように永遠の命を与え、やがての日の復活にあずからせるためだったからです。

 コリント第一15:12-23に次のようにあります。少し長いですが、大切な箇所ですので、読んでみましょう。最初は12節から19節までです。

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
ここで言われていることはお分かりですね。キリストの復活がなければ、私たちの復活もない。どんなにキリストを信じても、人は永遠の命を持つことはない。そこに救いはないというのです。とても絶望的な文章です。しかし、聖書はそこでは終わっていません。続きを読みましょう。20節からです。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
そうです。キリストが復活されたのは、私たちもまた復活するためでした。キリストは「眠った者の初穂」と呼ばれています。穀物が多くの実りをもたらすときには、かならず、初穂 "firstfruits" があります。初穂に続いて収穫があるのです。そのように、キリストはキリストを信じる者たちの初穂 "firstfruits" となってくださったのです。 キリストが「死者の中から最初に生まれた方」 "firstborn" であるというのは、「死者の中からの初穂」 "firstfruits" であるという意味なのです。キリストは最初に死者の中から復活されたお方、救いにおいて第一のお方になることによって、キリストのあとに続く、私たちの救いと復活とを保証してくださったのです。

 キリストは他のどんな被造物からも区別され、その上に君臨されるお方です。しかし、そんなお方が、人となり、罪人のために十字架で死なれ、復活されることによって、私たちをご自分のものにしてくださいました。教会のかしらとなることによって、信じる者をそのからだの一部にしてくださった、かしらである「キリストに属している者」にしてくださったのです。コロサイ1:18の「御子はそのからだである教会のかしらです」というのは、そのことを意味しています。キリストは造られたものの上にあって第一のお方であるばかりでなく、私たちの救いにおいても第一のお方です。私たちは第一のお方につながることによって第二、第三の者となってキリストの救いにあずかるのです。

 よく、さまざまな団体が、皇族や著名人を名誉会長などに選ぶことがあります。それによって、団体の知名度を高めたり、信用を勝ち取ったり、また何かあったときに自分たちを守るためにそうするのでしょう。しかし、教会にはどんな名誉会長も、名誉会員もいらないのです。教会のかしらはすべてのものの主であるお方なのですから。神の御子、すべてのものの主、すべてにおいて第一のお方が、私たちのかしらであれば、私たちに他の誰が必要というのでしょうか。

 私たちに求められることは、この第一のお方を、教会において、また、私たちの人生において第一のお方にすることです。私の人生にキリストが第一のお方になっているだろうか、私のビジネスで、私の学業で、私のファミリーライフでどうだろうか。先月、私たちの教会の財政上のアドバイザーである APM(Asset Planning Ministry)の人が、「その人のチェックブックとスケジュール帳を見れば、その人が何を第一にしているか分かる」と話していました。たしかにそのとうりです。私のお金の使い方や時間の使い方において、キリストが第一のお方になっているでしょうか。この一週間、きょうの一日に、神の御子が第一のお方となっておられるだろうか。そのことを思いみながら、この一週を始めましょう。そして神の御子イエス・キリストが第一のものとなられることによって与えられる大きな祝福をいただきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま。レントを前に、イエス・キリストがあなたの御子であり、私たちのかしらであることをもういちど確認してくださりありがとうございました。私たちがイエス・キリストを第一のお方としてあがめ、信頼し、従っているかどうか、このレントの期間、私たちの心をさぐり、生活を点検してくださり、私たちに真実な悔い改めを与えてください。そして、悔い改めがもたらす大きな祝福にあずからせてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

3/6/2011