目的のある人生

コロサイ1:13-17

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1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 一、目的のある人々

 私には、インターネットのおもしろいページを見つけては、それを知らせてくれる友だちがいます。私は、彼のことをかってに「ミスター・グーグル」と呼んでいるのですが、今回、ミスター・グーグルが「テネシーにすごいおばあちゃんがいるよ。」と教えてくれました。彼が送ってくれた YouTube のリンクをクリックしてみると、ニュースのひとこまが写りました。"Powerful Words" というタイトルがついていました。テネシーの Dyer County に Dyersburg という町があるのですが、そこのウォール・マートの近くのグロッサリーで92歳のポーリン・ジャコビさんが買い物をし、家に帰ろうと車のドライバー・シートに座ったとたん、パッセンジャー・シートにひとりの男が乗り込んできました。男はポーリンさんに拳銃をつきつけて「金を出せ。」と脅しました。ところが、ポーリンさんはそれにひるまず、こう言いました。「拳銃を撃ったら、わたしは天国に行くけど、あんたは地獄に行くんだよ。」そして、「この車にはね、イエスさまがおられるんだよ。わたしがどこに行ってもイエスさまが一緒なんだ。」と話し、10分間ほど、この男にイエスさまの話をしました。男は涙を流してその話を聞いていたそうです。ポーリンさんは自分のほうからその男に10ドルあげて、「ウィスキーなど買っちゃだめだよ。」と念を押しました。男は、ポーリンさんのほおにキスをして去っていったそうです。去年(2007年)12月6日のことでした。92歳のおばあちゃんは、腕力でも、防犯スプレーでもなく、聖書のことばで、男に強盗を思いとどまらせ、自分を守ったのです。それで、このニュースに "Powerful Words" というタイトルがついたというわけです。

 似たような話は2005年、アトランタでもありましたね。3月11日のことですが、アトランタの裁判所で、殺人の容疑者ブライアン・ニコルが裁判を受けるため、15人の警備員にガードされて法廷に連れてこられました。どのように隙をついたのかわかりませんが、彼は拳銃を奪い、裁判官や警備員、法廷のリポーターらを撃ち、法廷から逃げだし、アパートの一室に隠れました。そこには26歳の女性がひとりで住んでおり、ブライアンは彼女を人質にとって立てこもったのです。彼女は、アシュレー・スミスという名で、ご主人は、彼女と生まれたばかりの女の子を遺して事故で亡くなりました。アシュレーさんは、そのショックからドラッグに手を出すようになり、女の子もおばさんに預けられ、孤独な日々を過ごしていました。けれどもドラッグ・アビュースの治療のために通ったクリスチャンのクリニックを通して彼女は、はっきりした信仰を持つようになり、そこから立ち直りました。そして、自分の信仰を成長させるために、一冊の本を読んでいました。それが、リック・ウォレンの「人生の五つの目的」(Purpose Driven Life)でした。彼女はブライアンの人質になりましたが、恐れることなく、自分の身の上を話し、ちょうどそのとき開いていた「人生の五つの目的」の33章から、神さまのことを話し出したのです。ブライアンは、彼女の話を聞いているうちに、悔い改め、アシュレーさんを解放して自首しました。

 ポーリンさんも、アシュレーさんもすごい人だと思いますが、決して特別な人ではありませんでした。普通の人でした。いや、普通というよりも、老齢になっているという弱さ、シングルマザーで、もとドラッグの患者であったというハンディを持った人たちでした。何が彼女たちをそんなにも強くしたのでしょうか。それは、彼女たちが、イエス・キリストを信じる信仰を持っていたこと、そして、その信仰によって目的のある人生を送っていたことでした。

 二、目的のない人々

 みんなが人生の目的を知り、目的に生きているなら、しあわせな生涯を送ることができ、社会ももっと良くなると思うのですが、残念ながら、多くの人は目的のない人生を送っています。リック・ウォレンは、Purpose Driven Life の中で、人々は、目的によってではなく、他のものによってドライブされて生きている、それは、「罪責感」、「怒り」、「恐れ」、「モノとカネ」、そして「受け入れられたいという願望」の五つであると言っています。

 「罪責感」というのは、過去に犯した罪や失敗にいつまでもしばられていることです。私たちは犯罪を犯すことはなくても、罪は犯します。人を刃物で傷つけることはなくても、ことばで傷つけることがあります。アメリカや日本では姦淫罪というものはありませんので、それは犯罪にはなりませんが、道徳的には罪です。「愛」という言葉でコートされていても「不倫」は罪です。私たちは、他にねたみや欲深さ、高ぶりや、その裏返しとしての劣等感によって多くの罪を犯しています。人は罪の性質を持ち、罪を犯します。また、人はみな不完全で、過ちを犯します。失敗のない人は誰もいません。罪やあやまちを軽く考えるべきではありませんが、「罪の赦し」を知らない人々は、過去に犯した罪やあやまちに縛られ、何をするにも過去の苦い体験がよみがえってきて先に進めないということがあります。真面目で誠実な人ほど罪責感を強く持ちます。キリストの救いは、なによりも、第一に、私たちをその罪の牢獄から解放することです。キリストの福音は罪の赦しの福音です。もちろん、それはキリストを信じて赦されているのだから平気で罪を犯してよいとか、どうせ人は罪びとなのだから罪を犯してもしかたないのだということではありません。それは間違った教えです。キリストを信じる者は、罪にたいして敏感になり、真剣に罪を悔い改めるようになります。しかし、同時に、不必要な罪責感から解放され、目的のある人生を生きることができるようになります。

 第二の「怒り」というのは、案外、穏やかそうに見える人にもあるのです。怒りを外に表すと他の人から斥けられたり、立場を失ったりするので、怒りを内側に隠している場合があります。しかしどんなに隠しても、怒りは意地悪やいじめ、あるいは他の人を支配することとなって現れます。また、他の人をきずつけないようにと、怒りを自分の心にしまい込んでいる人は、やがてそれによって自分が押しつぶされてしまいます。怒りのすべてが悪いわけではありません。悪や不正に対して怒りを持たないほうが間違っている場合もあります。しかし、私たちの怒りの多くは、ものごとを正しく知らないで勝手に勘違いして怒ったり、自分のわがままが通らないための怒りであったりして、罪深い性質から出ているものが多いのです。私たちの怒りとその背後にある感情をすべて知り、それを解決してくださるのは、イエス・キリストだけです。イエス・キリストにすべての感情を打ちあけ祈ることによって、私たちは怒りから解放され、目的のある人生を生きることができるようになります。

 第三に、多くの人は恐れにとりつかれて生活しています。先週、あるあつまりで、日本のテレビに占い師が登場する番組があるが、それをどう思うかということが話題になりました。最近も、ある宗教が、占いで人々に恐怖心を与えて、お金を脅し取るという事件がありました。そうしたときに決まって使われるのが「先祖があなたを呪っている。たたっている。」ということばです。日本では、今でも、何かというと、「呪い」とか「たたり」という言葉が使われます。現代でも人々は平安時代と同じように「呪い」や「たたり」を恐れています。しかし、良く考えてみてください。あなたの先祖はあなたを呪うでしょうか。いったい自分のこどもや孫をのろう親があるでしょうか。あなたが世を去って、何世代かのちに「先祖」となったとき、あなたは子孫を呪いますか。子孫のしあわせを、繁栄を願いこそすれ、決して呪ったり、たたったりはしないでしょう。聖書にイエスが話された「ラザロと金持ち」のたとえ話があります。こじきのラザロは世を去ってユダヤ人の祖先アブラハムのいるさいわいなところに行きますが、金持ちは、自分の間違った生き方のため苦しみの場所に行きました。金持ちは、後悔して、自分の親族が自分と同じ苦しみの場所に来なくてすむようにラザロを親族に遣わして、よくよく言い聞かせてくださいとアブラハムに願ったと、あります。たとえ話の中の金持ちが、自分の親族のさいわいを願ったように、先祖は子孫のしあわせを願うものです。先祖が子孫を呪ったり、たたったりすることは決してありません。イエス・キリストを信じる者はこうした無意味な恐れから解放されます。イエス・キリストはただひとり死んでよみがえられたお方、生きている者の世界も死んだ者の世界をもすべて治めておられるお方です。この王の王、主の主に信頼するとき、私たちは、ポーリンさんやアシュレーさんのように、恐れのない、目的のある人生を生きることができるのです。

 第四の「モノとカネ」については多くを語る必要はないでしょう。6,000以上のハイテック企業がひしめいている、ここシリコン・バレーは、まさに、「モノとカネ」が幅をきかせている地域ですが、「モノとカネ」は人を決してしあわせにはしません。「モノやカネ」は目的ではありません。それは、もっと偉大な目的のために使われる手段にすぎません。このことについては、今週の水曜日夜の祈り会で学ぶことになっています。「モノやカネ」を追い求めているこの社会の中で、私たちはどう祈るべきかを学びます。イエス・キリストを信じる者は「モノとカネ」の奴隷から解放され、目的のある人生を生きることができます。

 第五の「受け入れられたいという願望」についても、先週ある集まりで、それが話題になりました。ある人が、「日本では、他の人がどうしているかを良く観察して、その通りにしないと、非難され、仲間はずれにされる。そのことでつらい思いをした。」と話してくれました。そこでは、ものごとを、自分がどう思うかではなく、人がどう思うかの基準で行わなければならないのです。そこには、主体的な生き方も、自由もありません。アメリカでは、第一の関心事は「自己の確立」であり「自分が何を目指し、どのように生きていくか」なのですが、日本では、人々の第一の関心事は「人間関係」であり「人とうまくやっていくこと」であるという統計が新聞に載っていました。だから日本人のほうが「人への気遣いができて良いのです。」と言う人もありますが、自己が確立していないところでは、「人への気遣い」が時として「おせっかい」や「干渉」、「支配」になってしまいます。いわゆる「コディペンデンシィ」という人間関係の病気です。自己の確立を大切にしているアメリカ人のほうが、報いを求めないで困っている人を進んで助けます。道を聞いてもわざわざそこまで一緒に行ってくれる人もあります。人の良いところを見つけ出しては、温かい心でそれをほめてくれます。自己を大切にするからこそ、あいての人格も大切にできるのだろうと思います。リック・ウォレンは「受け入れられたいという願望」が昂じると、「人を喜ばせようとして、自分を見失う」と言っています。イエス・キリストを信じる者は、自分が神の目にどう見えるかを大切にします。そのことによって、人の目にどう見えるかということから解放され、主体的な、目的のある人生を生きることができるようになるのです。

 三、目的を与えるお方

 今朝、私は、人生を目的をもって生きている人と、そうでない人とについてお話ししました。だから「目的をもって生きましょう。」という結論で終わっても、一般のお話しとしてはかまわないのですが、それでは、聖書の説教、神のことばにはなりません。なお、もうひとつのことをお話ししなければなりません。それは、私たちの人生に目的を与えるお方がイエス・キリストだということです。

 私がそのように話しますと、ある人は「あなたが牧師だからといって、なにもかも無理矢理イエス・キリストに結びつけなくても良い。」と言い、また別の人は「いちいちイエス・キリストだの、神などを持ち出さなければ良いことができないほど、私は弱くはない。神の助けを借りなくても、私はちゃんとやっていける。要するに聖書の教えを守ればそれでいいのでしょう。」と言うかもしれません。多くの人々が、とくに日本人の多くがこうした考え方をしますので、それに驚きはしませんが、そうした考えを聞くと、とても悲しく思います。聖書の教えが誤解されているからです。聖書は、たんなる道徳の書物ではありません。神がひとり子イエス・キリストを世に遣わしてくださったのは、私たちが道徳的になるためだけではありません。それなら、イエス・キリストは十字架で死ぬこともなく、初代のクリスチャンは殉教してまで聖書を守る必要は無かったのです。聖書の教えの中心はイエス・キリストご自身です。今朝の聖書では、イエス・キリストは「神の御子」と呼ばれています。コロサイ1:16に「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 」とあります。この世界は、イエス・キリストによって、イエス・キリストのために造られました。しかし、人間は、この大宇宙の中で塵にすぎないような存在なのに、自分を神の立場に置こうとしました。実際、人間は自分が神になろうとして、罪の中に陥りました。人間は、自分で善悪の基準を決め、自分で自分の人生の目的を設定できると思い込んでいます。しかし、善悪の基準は神が定めるものであり、この世界の目的を設定なさるのも、この世界と人間を造られた神がなさることなのです。もし、神がおられなければ、また、イエス・キリストが神でなければ、実は、世界には善も悪も、目的もなくなります。道徳的に生きること自体が無意味になってしまいまい、誰ひとり人生の目的を見いだすことができなくなります。しかし、事実は、この世界と人間が神によって造られ、私たちは神から離れては、存在すらできないものだということを物語っています。「何も、いちいち神を持ち出さなくても…」というのは、じつは善良そうに見えて、一番罪深い考え方なのです。

 また、「信仰が無くても、正しく生きられる。」と言いますが、ほんとうに人間はそれぼど立派で強いのでしょうか。自分で自分のしたいことを決め、それを実行できるのは神だけです。環境に依存し、その影響を受けている私たちは、自分でものごとを決めたいと思っても、じつはなにひとつできないでいるのです。誰か、この時代に、この国に生まれたといと思って生まれてきた人がいるでしょうか。男として生まれるのか、女として生まれるのか、どんな環境に生まれるのかは、誰も選択できないのです。さきほど、正しい目的を持たない人々は、「罪責感」、「怒り」、「恐れ」、「モノとカネ」、そして「受け入れられたいという願望」に縛られているとお話ししました。誰が、それらのものから解放してくれるのでしょうか。それはイエス・キリストです。聖書は、こう言っています。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(コロサイ1:13-14)イエス・キリストに信頼する以外に、そうしたものから解放されて、神の目的の中に生きる道はないのです。イエス・キリストは、世界の主であり、すべての人の主ですが、同時に、罪のために損なわれた世界を回復してくださるお方、罪人の救い主です。イエス・キリストを私たちのために遣わされた神の大きな愛を知るとき、私たちに神への愛が生まれ、イエス・キリストへの信頼が生まれてきます。この愛によって、信頼によって、私たちははじめてイエス・キリストが与えてくださる人生の目的の中に生きることができるようになります。イエス・キリストへの信仰なしに人生の目的に生きることはできません。

 ですから、目的に導かれたさいわいな人生を送りたいと願う人は、イエス・キリストのもとに来るのです。イエス・キリストによって、イエス・キリストを目的として生きるのです。おひとりびとりに、そのような信仰が与えられることを、こころから願ってやみません。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちが目的を持ったさいわいな人生を生きることができるようにと、ご自分の御子を世に遣わされ、御子イエスは、十字架の死と復活によって、私たちを閉じこめ、奴隷にしていた「暗やみの圧制」から解放してくださいました。私たちを生まれ変わらせ、新しく造りかえてくださいました。誕生がなくて人生はなく、解放なしに自由がないように、目的に導かれる人生を生きるために、私たちを信仰によって生まれ変わらせ、新しい思い、新しい心、そしてなによりも、あなたへの愛を与えてください。あなたの御子イエスのお名前で祈ります。

4/6/2008