闇から光へ

コロサイ1:11-14

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1:11 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、
1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

 人生は「過去・現在・未来」、「きのう・きょう・あす」で成り立っています。もし、人生に未来への希望がなければ、私たちは生きる意味も目的も失ってしまいます。また、私たちが、過去に受けた恩恵を忘れると、学業や事業が成功したときに、あたかも自分の力だけでそれをしたかのように思い上がってしまい、神の祝福を受けられなくなってしまいます。逆に、失敗したときには、自分の不幸をすべて自分の過去のせいにしてしまい、親が悪かったからこうなった、あの人がひどいことをしたから自分が駄目になったのだと、人を責めるだけで終わってしまいます。貧しい家に生まれたから、両親がそろっていない家庭に育ったから、こどものころにこころの傷を受けたから、自分は何をしてもだめなのだと思い込み、過去に縛られて生きていかなければならなくなります。過去を正しく評価できなければ、現在も、未来もないのです。なんと多くの人が、あすの希望を持たず、きのうを感謝できないでおり、きょうを生き生きと生きることができないでいることでしょうか。

 そんな私たちのために、神は、私たちの過去を清算し、未来を与えてくださいました。聖書はいたるところにそのことを書いており、それは、コロサイ人への手紙1:9から始まる使徒パウロの祈りの中にも表われています。

 一、現在のための祈り

 パウロは9節で「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。」と言ってから「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように」(9-10節)と祈りました。この祈りの中に「歩む」という言葉があります。聖書では「歩む」というのは日々の生活を表わしますので、この部分は、私たちの「きょう」のための祈り、現在のための祈りと考えて良いでしょう。神のみこころを知る真の知識、霊的な知識、信仰的な知識が、日々の歩み、つまり、現在の生活の中に実を結ぶようにとの祈りです。

 教会に来て賛美をささげ、祈りをささげ、みことばに聞き、みことばを学ぶ。そのようなことは一昔前には意味があったかもしれないが、現代のような忙しい時代には無駄なことだと言う人もいます。しかし、聖書は、神を知ることが私たちの日々を生かし、実りある人生を与えると教えています。しかし、木が実を実らせるようになるまでは、何年かかかります。そのように、神を知ることが人生の実りとなるのにも時間がかかります。木が実を結ぶというのは、クリスマスツリーに飾りをつけるようなわけにはいきません。それはインスタントなことではないので、人々は神のことばと現実の祝福との関係を見落とすことが多いのです。

 私たちのキリストに結ばれた人生は、信仰によって植えられ、バプテスマの水を注ぎかけられて始まります。そのときは、何もかも新鮮で、生き生きしていたのに、やがて、自分が少しも成長していないように感じられる期間を体験することがあります。信仰のスランプのような時、冬のような時です。しかし、そんなときも礼拝を休まず、聖書を読み続け、日々の祈りを止めなければ、神は信仰の冬の間も私たちのうちに働き続けてくださいます。木が冬に葉を落とし、枝を伸ばすことがなくても、大地に根を下ろし、春に花を咲かせ、夏に葉を茂らせ、秋に実を結ぶ準備をするように、私たちにとっても人生の冬、信仰の冬は無意味ではないのです。むしろ、それによってしっかりとキリストに根を下ろし、キリストに結びつくことができるのです。キリストのことばを私たちの内に豊かに住まわせましょう。それによって「わたしにとどまりなさい」(ヨハネ15:4)と言われたキリストにつながり続けることができるのです。

 二、未来のための祈り

 次にパウロは未来のために祈ります。11節と12節です。「また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」この祈りの「聖徒の相続分」とは、信仰者が神の国を相続することを言っています。天国を相続する。これは考えただけでも、わくわくすることです。キリストに従う者の現在は、霊的な実で満たされるのですが、その未来は、それよりももっと素晴らしいのです。聖書によれば、地上で体験する、愛、喜び、平安などの実は、天国の前味、アパタイザーに過ぎないのです。「子羊の婚宴」でサーブされるメインディッシュが待っているのです。

 私たちが地上で与えられる実は、「利息」あるいは「配当」にたとえられています。私たちが天国に宝を積むなら、神は、私たちが地上にいる間はその利息や配当を与えてくださり、私たちが天国に行くときには、何倍にもなった元本を受け取るのです。いまごろ、どの銀行にお金を預けてもわずかな利子しか受け取ることができませんし、どの企業に投資しても配当は少なく、悪くすれば、その会社が倒産してしまって、元本も戻ってこないということすらあります。政府のボンドなら大丈夫と思っていても、州が破産したり、国が破産するということがある時代ですから、どこにも保証はありません。しかし、天国銀行は違います。預けたものに上回るほどの利息があり、神の事業は決して破産することはなく、豊かな配当が保証されているのです。

 この天国の希望が、初代教会の信仰者たちを支えました。迫害の時代、役人たちはクリスチャンの資産家を狙いました。クリスチャンで財産のある者たちは自分の邸宅の一部を教会堂として提供していました。そうした資産家に難癖をつけてその財産を奪えば、クリスチャンは集まる場所を失い、散らされていきます。その上、役人は、奪った財産を自分のものにして、私腹を肥やすことができたのです。一挙両得とはこのことです。そのため、一夜にして財産を失い貧しくなった人々が多くいました。しかし、それらの人々は、天に蓄えられた財産を思い見て力づけられたのです。へブル人への手紙にこうあります。

あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。(へブル10:32-34)
このことばは、現代の私たちにも真実です。アメリカでは初代のクリスチャンが経験したような迫害を経験することはないとしても、信仰者は、そうでない人は違う価値観で生きようとしますから、どこかに衝突や摩擦が起こらないとも限りません。実際の衝突や摩擦がなくても、心の中での戦いはきっとあるでしょう。しかし、そうしたことに勝利し、神のみこころを選びとっていくとき、私たちは未来の希望に生きることができるのです。信じる者の未来には希望があります。神は約束こう約束しておられます。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げ。—それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29:11)私たちは聖書に約束されている天での幸いを信じ、それを心にとめて歩むことによって、この地上での歩みを意味あるものとすることができます。たとえ地上の生活にどんな困難や苦しみ、痛みがあったとしても、信仰者には将来の希望があります。死のかなたにも天国の望みがあります。それによって困難を乗り越え、苦しみの中でも慰めを受け、痛みを癒されるのです。11節に「神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし」 とあるように、力強くきょうを生きることができるのです。

 三、過去のための祈り

 さて、最後に、過去のための祈りを見ておきましょう。それは13節と14節です。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」この祈りの中には、キリストによる過去からの解放が宣言されています。私たちはみな、生まれながら「罪と死の奴隷」でした。過去に犯した罪に縛られ、また、やがてやってくる死への恐怖にも縛られていました。神を持たず、キリストから離れ、暗闇の中に住んでいたのです。どんなに恵まれた環境の中にいたとしても、その心に光がなかったのです。しかし、神は悔い改めてイエス・キリストを信じる者を暗い過去から解放し、光にあふれた未来へと導いてくださいました。イエス・キリストによって「贖い」を得たのです。

 ここにある「贖い」ということばは、今日の私たちには、あまり馴染みのないことばですが、ローマ帝国の時代には、誰もが理解できることばでした。その時代には、自由人はほんのわずかで、多くが奴隷でした。奴隷といっても皆が重労働をさせられたわけではなく、中には皇帝の家庭教師だった学者もいましたし、主人の財産をすべて任せられた人たちもいました。しかし、その人がどんなに優れた人であったとしても奴隷であるなら、決してローマの市民としての特権を持つことはできず、自分が管理している財産を相続することはできないのです。それを相続することができるのは、その家の子どもだけです。奴隷はそのままでは、どこまで行っても奴隷のままでした。

 しかし、奴隷にも「贖い」によって自由になれる機会がありました。「贖い金」というものを払って自由人となることができたのです。自分で「贖い金」を貯めて自由になった人もいました。しかし、罪と死から贖われるためには、誰ひとり自分のために十分な「贖い金」を用意することはできません。自分で自分を贖うことのできない私たちは、誰か、他の人によって贖ってもらわなくてはなりません。その「誰か」とはイエス・キリストです。キリストは私たちを罪の奴隷から解放するために、あの十字架の上で血を流し死に、ご自分の命を「贖い金」として、私たちのために差し出されたのです。そればかりではなく、キリストは三日目に復活され、私たちを死の恐怖からも解放してくださいました。キリストの十字架と復活によって与えられた罪の赦しと死からの救い、これが「贖い」です。キリストの「贖い」こそ、私たちが暗やみから光へ、死から命へ、奴隷から自由へと移ることのできるただ一つの道です。

 最初に話しましたように、多くの人は、過去に囚われてそれに縛られています。若い人ばかりでなく、60歳、70歳、80歳になっても、自分の両親を赦せなかったり、過去の傷に苦しみ続けている人が多くいます。それはとても悲しいことです。キリストが私たちを贖ってくださるのに、私たちの過去を清算し、その傷を癒し、明るい未来を約束してくださっているのに、いつまでも過去を引きずるのは残念なことです。パウロが「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように」と祈っているように、不信仰の暗やみをうしろに置き、信仰の光の中を歩きましょう。

御手の中で すべては変わる 賛美に
わが行く道を 導きたまえ あなたの御手の中で

御手の中で すべては変わる 感謝に
わが行く道に あらわしたまえ あなたの御手のわざを
過去の悲しく、痛い経験もまた、私を未来の栄光に導くためであったと信じて、それらをも感謝できるよう、祈り、願いましょう。「神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし」 、きょうを生きていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま。あなたは、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪を赦し、私たちの心をきよめ、癒してくださいました。イエス・キリストの十字架と復活の事実を確信し、その意味をさらに理解するものとしてください。過去を感謝し、未来を望み、そして現在を力強く生きていくことができるために、私たちをキリストを知る真の知識によって満たしてください。私たちの過去を赦し、現在を支え、未来を導いてくださる、主イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/27/2011