目からうろこ

使徒9:10-19a

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9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。
9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
9:12 彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。

 「鵜の目鷹の目」「目の中に入れても痛くない」「生き馬の目を拔く」「壁に耳あり障子に目あり」「夜目遠目笠の内」「目の上の瘤」「目は口ほどに物を言う」など、日本のことわざには「目」に関係のあるものがいくつもあります。「白い目で見る」「目くじらを立てる」「目を三角にする」「目を丸くする」「目から鼻に抜ける」などという言い回しもあって、数えればきりがありません。その中に、聖書から出たものがあるのですが、ご存知ですか。「目には目を歯には歯を」もそうですが、「目からうろこ」は、きょうの箇所から来たことわざです。「目からうろこ」はよく使われるのですが、これが聖書から来ていることを知らない人がほとんどです。このことわざを使うとき、それが聖書から来ていることを話してみてください。イエス・キリストのことを話すきっかけになると思います。他にも、身近なところで聖書の言葉が使われています。『目からうろこ』という小さな本に、そうしたもののいくつかを紹介していますので、よかったら、お使いください。

 「目からうろこ」ということわざには、今まで見えなかったもの、理解していなかったことが突然のようにして見え、分かるようになるという意味があります。サウロはその体験をしたのですが、彼はいったい、何が見えるようになり、分かるようになったのでしょうか。

 一、自分が盲目であること

 サウロが分かった第一のことは、「自分が盲目であった」ということでした。サウロは、実際に目が見えなくなって、自分がイエス・キリストについて何も分かっていなかった、真理に対して盲目であったことを知りました。サウロはイエスと同時代の人で、イエスが宣教し、十字架にかけられ、復活された時、エルサレムにいて、高名な学者ガマリエルのもとで学んでいました。サウロは、多くの人がイエスの話を聞き、奇蹟を目撃し、イエスのことを話題にしていたのに、そうしたことには目もくれず、律法の研究に没頭していました。しかし、ステパノの殉教をきっかけにして、サウロは教会を迫害しはじめました。

 ステパノは、使徒6章で、「食卓の奉仕」のために選ばれた「七人」のひとりでした。ステパノは大祭司の命令によって町の外に連れ出され、石で撃たれ、教会の最初の殉教者となりました。使徒7:58に「証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた」とあります。この「証人」とは、ステパノについて偽りの証言をした人たちです。この人たちがステパノを石で打ったのですが、サウロは彼らの上着を預かりました。「上着を預かる」ことには、上着を預けた人々のすることについて責任を負うことを意味しました。サウロは、ステパノに直接手をくだしませんでしたが、ステパノを死に追いやったひとりだったのです。使徒8:1にも「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」という言葉が繰り返されています。

 この時からサウロは「教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れ」(使徒8:3)るという乱暴なことをするようになりました。エルサレムの教会だけでなく、遠くダマスコの教会にも迫害の手を伸ばしました(使徒9:1-2)。なぜ、サウロは、そんなにも教会を迫害したのでしょうか。それは、彼の霊的な目が閉ざされていて、イエス・キリストを見ることができなかったためでした。それでいて、サウロは、自分の知識に依り頼み、自分は「見えている」と思い込んでいました。しかし、ダマスコに向かう道でイエス・キリストに出会い、目が見えなくなって、はじめて、自分が霊的に盲目であることに気付きました。そしてそれに気付いたことが、彼の救いの第一歩となりました。

 ヨハネ9章で、イエスは盲人の目を開かれた時こう言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」「見える者が盲目となる」というのは、イエスが示された真理を受け入れないでいると、真理を知りたいと思っても、それを知ることができなくなるという意味です。この言葉を聞いたパリサイ人たちは、イエスに言いました。「私たちも盲目なのですか。」イエスはそれに答えて言いました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:39-41)ほんとうは真理が見えていないのに「見える」と主張するところに罪があります。自分が真理に対して盲目であることを認め、「私の目を開いてください」と願う時、それが「目からうろこ」の時となるのです。

 二、イエスが神であること

 サウロが分かった第二のことは、「イエスが神である」ことでした。サウロが教会を迫害したのは、イエスを信じる者たちがイエスを神として信じ、礼拝していることに我慢ができなかったからでした。ユダヤ教の教師のことを「ラビ」と呼びますが、イエスは「ラビ」のひとりに過ぎない。神を教える者を神として礼拝することは、おひとりの神への冒瀆であり、恐ろしい偶像礼拝であると、サウロは考えたのです。このような異端は、滅ぼしてしまわなければ、ユダヤ教そのものが壊れてしまう。サウロはそんな危機感に駆られて行動したのでしょう。

 しかし、ダマスコへの道で、イエス・キリストに出会った時、サウロが信じていた前提のすべてがくずれ去りました。使徒9:3に「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした」とあります。この「天からの光」というのは、神の栄光の表れのことです。モーセはシナイ山で神の栄光を見、イザヤもそれを見ています(出エジプト33:18-2、イザヤ6:1-4)。サウロは聖書の専門家でしたから、自分を取り囲んだ光が神の栄光であることをすぐに理解したことでしょう。ところが、その光の中から聞こえた声は「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というものでした。サウロが「主よ。あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答が返ってきました(使徒9:4-5)。

 聖書によれば、神の栄光は、神ご自身でした。神が「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言われたのです。それはイエスが神であることを意味しています。サウロは、イエスを神とすることは、おひとりの神の栄光を傷つけることだと信じ、教会を迫害していたのに、その神が、「わたしはイエス。教会は、わたしのからだ。教会を迫害することは、わたしを迫害することである」と言われたのです。これはサウロのそれまでの信念を突き崩すものでした。その後三日の間、サウロは目が見えないまま、食べることも飲むこともできませんでした。おそらく、眠ることもできなかったでしょう。神の栄光に撃たれたばかりでなく、その神の栄光がイエスであったという大きな衝撃を整理するのは大変なことでした。サウロはその意味を考え続け、また、それが分かるようにと祈り続けました。そして、到達した結論は、「イエスは神である。父のひとり子なる神である」ということだったのです。

 サウロ、のちのパウロは、「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」(コリント第二4:6)、「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました」(エペソ5:8)とその手紙に書いています。イエスを信じた者はみな、神の光によってその心を照らされ、イエスが神であり、キリストであることを知りました。パウロのこれらの言葉は、サウロと呼ばれていた時の体験からのものでした。

 三、自分の使命

 サウロが分かった第三のことは「自分の使命」でした。それまでのサウロは教会を迫害し、ユダヤ教の伝統を守ることが「自分の使命」であると感じていました。しかし、無抵抗な人々を、男も女もかまわず捕まえて牢獄にぶち込むことに、どんな満足や喜びがあるというのでしょうか。サウロは、無意識のうちに、自分のしていることが、自分の使命ではないことを感じていただろうと思います。しかし、彼には、自分がこれからどうすべきなのかが全く分かりませんでした。

 そのサウロを導いたのは、ダマスコの教会の、おそらく、牧師の働きをしていたアナニヤという人でした。アナニヤは、サウロが自分たちを捕まえるために来たことを知っていましたので、サウロのところに行くのをためらいましたが、イエスはアナニヤにこう言われました。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(15節)イエスはサウロの人生に計画を持っておられ、ご自分の使命を果たさせるために、サウロに現われてくださったことが、この言葉から分かります。

 アナニヤが手を置いて祈ると、サウロの目からうろこが落ち、サウロは再び見えるようになりました。そして、サウロはその場でバプテスマを受け、罪びとから神の子へと変えられたばかりでなく、イエスと教会を迫害する者から、イエスを宣べ伝え、教会を建てあげる者へと変えられました。サウロはバプテスマによって、救いとともに彼の新しい使命を受け取ったのです。

 すべての人がサウロと同じ体験をして救われるわけではありませんが、霊的には、神が分かり、イエス・キリストが分かり、その結果、自分の生き方が変えられるという体験はサウロと共通していることでしょう。私たちは「自分のことは自分が一番よく知っている」と言います。しかし、人は、神を知るまでは、ほんとうの意味では自分のことが分かっていないのです。自分が何のために生きるのかという確かな使命を持っていないのです。「使命」は「命を使う」と書きますが、何のために自分の命を使うのかは、イエス・キリストを知ってはじめて分かるものなのです。

 神から人生の意味と目的を教えられ、それに向かって生きる使命を与えられたのが、私たちのバプテスマの時でした。悔い改めて神とイエス・キリストを信じバプテスマを受けた者は、新しく生れ、神の子どもとなったばかりでなく、その時に神の栄光のために生きるという使命を授かり、その使命を果たすための力と導きである聖霊をも受けたのです。

 目が開かれたサウロは、今度は人々の「目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」るために遣わされました(使徒26:16-18)。私たち皆がサウロのように宣教者になるわけではありません。しかし、ペテロ第一2:9に「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」とあるように、やみから光に移された私たちには、その恵みを証しする使命が与えられています。

 イエス・キリストは私たちの心を照らし、私たちの心の闇を追い払ってくださいました。そして、闇であった私たちを光とし、この暗い時代を照らす光としてくださいました。私が日本で聞いていたキリスト教のラジオ番組では、「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう」という言葉が、いつも番組の最初に流れていました。イエス・キリストこそまことの光、私たちが届ける光はイエス・キリストです。希望を失い、平安を失くしている人々にまことの光であるイエス・キリストを見せる者となりたいと思います。それぞれに与えられた場所で、与えられた賜物を生かして、人々に光を届ける「使命」を果たす者となりたいと思います。

 (祈り)

 主イエスさま、あなたは、サウロの目からうろこを取り除き、あなたの栄光と彼の使命をお知らせになりました。同じように、私たちの心にある偏見、疑い、恐れ、思い煩いなどのうろこを取り除き、あなたの栄光を見る信仰の目をお与えください。私たちひとりびとりを、まことの光であるあなたを証しする小さな光としてください。御名により祈ります。

2/14/2021