行きなさい

使徒9:10-19

9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。
9:11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
9:12 彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」
9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
9:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。

 今年は教会標語に「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(コリント人への手紙第一12:27)を選びました。教会とは何なのかということを、共に考え、主に喜ばれる教会を建てあげていくためです。教会とは何なのか、教会は何のためにあり、教会では、何をどのようにしていったら良いのか、それは、分かっているようで案外分かっていないことのひとつです。それで、今年の前半は、初代教会の姿を描いた「使徒の働き」を学んできましたが、皆さんは、そこから、教会とは何なのかということを捉えることができたでしょうか。英語で、"get the picture" というと「理解する」という意味になりますが、みなさんは、聖書からどのように教会のピクチャーを得ているでしょうか。同じ風景をカメラで撮っても、ピンぼけだったり、ぶれていたり、あるは、暗すぎたりたり、明るすぎたりして、写真の出来上がりは、それぞれに違ってしまうことがあります。しかし、私たちが聖書から得る教会のピクチャーについては、みんなが同じものを、はっきり、くっきり見ることができるようにと願っています。建物を建てる時には、設計図とともに「完成予想図」というものを描きますが、みんなが設計図を良く理解し、また同じ完成予想図を見て、その姿に向かって教会を建てあげていきたいと思います。

 今朝の聖書には、後に使徒パウロとなったサウロが、ダマスコに向かう途中キリストに出会い、ダマスコの教会のひとりの弟子、アナニヤからバプテスマ(洗礼)を受けたということが書かれています。キリストがサウロに現れたことは、説教で良くとりあげられますが、その後、アナニヤにも現れて、アナニヤをサウロのもとに遣わしたということは、あまり取り上げられることはありません。しかし、この部分もまた、とても大切な部分で、私たちは、この箇所からも教会のピクチャーを見ることができます。この箇所には教会が「礼拝者の群れ」「聖徒のまじわり」「伝道の基地」として描かれていますので、それを順に学んでみましょう。

 一、礼拝者の群れ

 第一に、教会は「礼拝者の群れ」です。今、私は「礼拝の場所」とは言わずに「礼拝者の群れ」と言いました。ふつう、人々が「教会」ということばを聞いて、まず連想するのは「建物」のことでしょう。しかも、教会というと、多くの人が、絵葉書に載っているような、高いタワーがあって、ステンドグラスがある建物というイメージを持っていますが、すべての教会がそのような立派な建物を持っているわけではありません。建物がなくて、公共の場所を借りたり、家庭で集まったり、ウェアハウスで礼拝したりという教会も多くあります。たとえそれが礼拝のために建てられた建物でなくても、人々が集まって礼拝をささげるところは、教会です。私が教会を「礼拝の場所」とは言わずに、「礼拝者の群れ」と言ったのは、そのためです。たとえ建物を持たなくても、真実に、また、熱心に神を礼拝する群れは、教会なのです。初代教会も、専用の建物を持たず、大きな家に集まって礼拝をささげ、神殿で祈りをささげていました。エペソの町では、クリスチャンは一般の講堂に集まりました。もし、立派な建物があったとしても、そこに神が求められる、「霊とまこと」によって礼拝をささげる人々が途絶えてしまったなら、そこには「教会堂」はあっても「教会」はないということになります。

 アナニヤは、14節で「あなたの御名を呼ぶ者たち」という言葉を使っていますが、これは、クリスチャンを指していますね。「クリスチャン」という呼び名は、もうすこし後になって、アンテオケではじめてつけられた名前で、それまでは、「この道の者」(2節)「弟子」(10節)「聖徒」(13節)、あるいは「仲間」(26節)と呼ばれてきました。「御名を呼ぶ者」というのも、そのようなクリスチャンに対する呼び名のひとつでした。そして、この言葉には「礼拝する者」という意味がありした。聖書をうんとさかのぼりますが、創世記4:26に「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。これは直訳すれば「御名を呼ぶことを始めた。」となり、セツの子孫が神を礼拝する人々となったことを示しています。クリスチャンがまず何よりも、礼拝をささげる者であったことが、この言葉からもわかります。

 ペンテコステの日、使徒ペテロは、旧約聖書から「主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」と言い、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」と勧めました。(使徒2:21)アナニヤがサウロにバプテスマをさずける時、アナニヤは「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでパプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(使徒22:16)と言いました。「その御名を呼んでバプテスマを受け」とあるように、クリスチャンは、キリストの名を呼び求めて救われ、キリストの名を呼んでバプテスマを受けたのです。私たちは、イエス・キリストを主と告白し、その御名によって祈り、神に近づきます。「御名を呼ぶ者」、つまり、キリストの名によって神を礼拝する者というのが、聖書に描かれたクリスチャンの姿です。

 ペテロはクリスチャンにこう言っています。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」(ペテロ第一2:5)「霊の家」とは、教会のことです。教会が神殿にたとえられていて、教会は、イエス・キリストを通して神を礼拝するところ、教会に属するクリスチャンのひとりびとりは、神を礼拝する祭司だというのです。教会は第一に「礼拝者の群れ」です。礼拝を第一にし、礼拝を守る人々、礼拝で真実に神のことばに耳を傾け、神に出会い、神に自分自身をささげていく、そういた人々の群れです。教会は「霊の家」であって、この世の方法によって建てられていくものではありません。それは、より真実な礼拝を守ろうとする人々が生ける石となって、はじめて建てあげられていくものなのです。

 二、聖徒のまじわり

 第二に、教会は、「聖徒のまじわり」です。アナニヤは、エルサレムのクリスチャンから、サウロという男のことについてあらかじめ聞いていて、この迫害者がダマスコに向かっているということを知らされていたのでしょう。「サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。」(11節)と命じられた時、アナニヤは「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」(13-14節)と答えています。アナニヤにしてみれば、「そんな危険人物に接触するわけにはいかない、彼が目が見えなくなっているのは、幸いなことで、彼がもう一度見えるようになったら、どんな悪いことをするか分かったものではない。」と思ったのも当然のことでしょう。しかし、主イエスは、アナニヤに「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(15-16節)と言い、アナニヤをサウロのもとに遣わしました。サウロは三日間、目が見えず、何も食べず、ただ座って祈るばかりでした。そんなサウロの目を開き、彼を立ち上がらせるために、主イエスはアナニヤを遣わしたのです。サウロの目を閉じたのは、主イエスご自身なのですが、彼の目を開くためにはアナニヤが遣わされたのです。なぜ、主はご自分でサウロの目を開かなかったのでしょう。それは、アナニヤを通して、サウロを教会のまじわりに導き入れるためでした。アナニヤはダマスコの教会を代表する人物で、サウロはアナニヤからバプテスマを受けることによって、ダマスコの教会のまじわりの中に導き入れられたのです。

 この世界には、他のどのクリスチャンとも関係を持たない、たったひとりのクリスチャンというのは存在しないと思います。刑務所の独房の中で、信仰を持った人でも、誰かがそこに行って、キリストのことを語ったから、その人はクリスチャンになったのであって、その人に伝道した人を通して、その人は、多くのクリスチャンに祈られ、そのまじわりの中にいるのです。病院の個室から一歩も出られない人で、ラジオで語られるメッセージを聞いて信仰を持った人であっても、そのラジオ番組をサポートしている数多くのクリスチャンとの、目に見えない、キリストにあってのまじわりの中に入れられているのです。キリストを信じた者は神の子どもです。そして、神の子どもには、必ず、兄弟姉妹がいるのです。教会は、神の子どもたちの家族であり、神の家族のまじわりです。アナニヤは、サウロに会った時、「兄弟サウロ」と呼びかけています。「迫害者サウロ」「クリスチャンの敵サウロ」は、生まれ変わって神の子となっていました。ひとりの父なる神から生まれた者はみな、兄弟であり、姉妹です。それで、アナニヤはサウロを、神の家族のまじわりに迎え入れるという意味で「兄弟」と呼びかけたのです。生まれ変わったばかりのサウロには、実にアナニヤのような兄弟が必要でした。サウロはキリストを見た後、目が見えなくなりましたが、再び目を開いた時、そこにアナニヤを見ました。キリストを見たものは、次に神の家族の兄弟や姉妹を見る必要があるのです。主イエスに出会った者は、次に同じ信仰を持つ兄弟姉妹に出会う必要があるのです。

 「使徒信条」は、「我は、聖なる公同の教会、聖徒のまじわり…を信ず。」と言っています。使徒信条が言う「聖なる公同の教会」と「聖徒のまじわり」とは、別々のものではありません。使徒信条は「聖なる公同の教会」を「聖徒のまじわり」と言い換えているのです。教会を定義すれば、キリストを信じる者たちの兄弟姉妹のまじわりであると言うわけです。私は、はじめに「教会とは何か」と言いましたが、ある人は「教会とは何か」と言ってはいけない、教会は、聖徒のまじわりなのだから、「教会とは誰か」と問うべきだと言いましたが、私も、そう思います。教会とは誰なのか、それはキリストを信じる兄弟姉妹たちのことなのです。そうであるなら、クリスチャンのひとりびとりは、教会を、何か自分以外のものと考えることはできません。自分自身が教会であり、教会の一部なのです。このことをわきまえて、他の兄弟姉妹たちとともに礼拝をささげ、ともにみことばを学び、ともに奉仕に励みたいと思います。教会の中でも人間関係につまづいたり、人の間に入っていくことがおっくうに感じたりすることもあるでしょう。しかし、だからと言って兄弟姉妹の交わりから離れてしまったなら、信仰は養われないままで終わってしまいます。家族の中でも兄弟げんかはあるでしょう。けれども、そこには赦しや和解があります。私たちは他の兄弟姉妹とのかかわりの中で、赦しや和解を具体的に学ぶのです。兄弟姉妹とのかかわりを避けては、多くの大切なことを見逃してしまい、身に着けることができないで終わるでしょう。エペソ人への手紙は「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされて、結び合わされて、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)と教えています。教会を建て上げていくとは、このまじわりを育てていくこと、このまじわりの中で成長していくことに他ならないのです。

 三、伝道の基地

 最後に、教会は「伝道の基地」だということを覚えておきましょう。主イエスは、アナニヤに「立って、行きなさい。」(11節)と命じました。アナニヤがサウロのところに行くのを躊躇した時も、主は、再び、アナニヤに「行きなさい。」(15節)と命じました。「行きなさい。」とのことばは、聖書の中に繰り返されています。神はモーセに、「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト3:10)と命じました。神はヨシュアにも「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」(ヨシュア1:2)と命じ、預言者イザヤには「行って、この民に言え。」(イザヤ6:9)と言われました。主イエスも、天に帰られる前に、弟子たちに「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)と命じました。ペテロがユダヤの指導者たちに留置所に入れられた時、主は、御使いを遣わしてペテロを救い出しましたが、その時も、御使いによって「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と命じています。聖霊は、ピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と、彼をエチオピアの役人のところに遣わしました。このように主は、「行きなさい、行って、語りなさい。」と、主を信じた者、主の群れに命じておられます。

 教会は、「礼拝者の群れ」として礼拝を守ります。神とまじわる礼拝の時は、クリスチャンにとって何よりも心満ち足りるひとときです。また、教会は「聖徒のまじわり」であって、兄弟姉妹とともに泣いたり、笑ったり、またともに汗を流して過ごすのは、時を忘れるほど楽しいことです。けれども、教会は、そこに留まっていてはならないのです。教会の外には、まだ神の愛を知らない人が大勢います。私たちの家族や友人の中にも、神のことばを待っている人々がいます。教会は、そうした人々のところに出て行って神のことばを語るのです。「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」(ローマ10:14)と聖書にあるように、私たちが、そうした人々に神のことばを伝えるまでは、人は信仰に導かれることはないのです。私の母教会では、家庭の主婦たちが、牧師の礼拝のメッセージを丹念にノートにとり、そのノートをもとに家庭集会を開いて、神のことばを伝えました。そして、そこから次々と救われる人々が起こって、教会が成長していきました。彼女たちは、自分たちがみことばを受け取り、学ぶだけで終わらず、それを他の人々に与え、教えようとしたのです。「行って、語る」といっても、すべての人が宣教師になって遠い国に行かなくてはならないということではありません。あなたの身近なところに、神のことばを待っている人がいるのです。遠い国から来られた宣教師によって信仰に導かれたという人もいますが、多くの場合は、家族や友人から神のことばを聞き、信仰に導かれています。神のことばを伝えるといっても、そんなに難しいことをしなくても良いのです。いっしょに聖書を読み、祈るだけでいいのです。だれもが、神のメッセージを伝えることができるのです。神は「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と、人を求めておらます。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)と答える用意ができているでしょうか。教会の出口には EXIT サインがついていますね。礼拝が終わると、みなさんは、そこから出ていくのですが、ある人は、この EXIT サインは、ほんとうは ENTERANCE TO THE MISSION FIELD(伝道の場への入り口)だと言いましたが、まさにそうですね。ここから、私たちはそれぞれの家庭に、職場に、地域に帰っていくのですが、単にそこに戻っていくというのでなく、神の愛をわかちあうために、神のことばを伝えるために、そこに遣わされていくのです。そのような意味で礼拝を守り、この礼拝から、遣わされていく私たちでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、教会を迫害するサウロが、教会を建て上げる使徒パウロとなるため、教会のまじわりが必要だったことを学びました。パウロにそれが必要であったなら、私たちにはなおのことです。私たちに礼拝を守り、教会の交わりを大切する思いをなお与えてください。そして、まだ、教会に加わっていない方々に、また、一時的に教会から離れている方々のために私たちを用いてください。私たちをも、あなたから遣わされたアナニヤのように用いてください。そのために、「行きなさい。」との命令に従う者としてください。今日の礼拝から、あなたに遣わされて、家庭に、職場に、地域に出て行くのだという確信をはっきりと持たせてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/11/2004