この聖句からはじめて

使徒8:35-39

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8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:37 [本節欠如]
8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

 みなさん、エチオピアと言えば、どんなことを思い起こしますか。私は、1960年のローマ・オリンピックのマラソンで優勝したアベベ・ビキラ選手のことを思い起こします。ローマ・オリンピックの時、アベベはまったくの無名で、アベベがコンスタチィヌス凱旋門に裸足で入ってきた時、アベベを知らない各国の報道関係者は「あれは誰だ」と言って慌てたと言われています。翌年、1961年、大阪で「毎日マラソン」が開かれ、アベベも日本に招かれました。私の町の国道をアベベが走るというので、私もその沿道に並びました。私の目の前を、ものすごい早さで、アベベが走り抜けました。彼の姿を見たのはほんの一瞬で、まるで風が通りすぎていったようでした。その時の印象がとても強かったので、私は、エチオピアといえば、エチオピアが生んだマラソンの英雄アベベ・ビキラを思い起こすのです。

 エチオピアは、イタリアに植民地にされたり、旱魃や内乱のため世界で最も貧しい国のひとつに数えられるようになってしまいましたが、かっては、知識人の多い、豊かで平和な国でした。エチオピアはイスラエルと同じくらい古く、聖書では「クシュ」と呼ばれて、イスラエルとエチオピアとの交流は古くからありました。イスラエルのシンボルは六つの頂点をもつ星ですが、エチオピアのシンボルは五つの頂点をもつ星で、両国は国旗にも共通点があります。

 エチオピアは、古くからのキリスト教国で、伝説によれば、『マルコの福音書』を書いたマルコが伝道したとされていますが、聖書は、ピリポがエチオピアの女王カンダケに仕える役人に伝道したのが最初だった言っています。後に使徒たちや伝道者たちがエチオピアに赴いたかもしれませんが、そうした人々が自由に伝道できる基礎を作ったのがこの役人だったのかもしれません。主イエスは、天にお帰りになる前、弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と言われましたが、その言葉のとおり、キリストの福音はエルサレムからはじまって、ユダヤとサマリヤばかりでなく、アフリカ大陸のエチオピアにまで届けられたのです。キリストのことばはほんとうに真実です。

 今朝は、エチオピアの役人がキリストを信じたことを描いているこの箇所から、人はどのようなステップをへて信仰にいたるのかを学ぶことにしましょう。

 一、神のことばを聴く

 第一のステップは神のことばを聴くことによってです。聖書は「信仰は聞くことから始まる。」(ローマ10:17)と教えています。人間のことばは、たとえ誰かの助けになり、励ましになったとしても、それは一時的であり、やがては消えていきます。しかし、神のことばは、永遠に残り、それを受け入れる人を造り替える力があります。キリスト教や聖書についての書物は、一般書店にも数多く並べられており、多くの人はそういうものを読んで、キリスト教とはどんなものか、聖書が何を教えているかを知ろうとします。しかし、そうしたもので得られる知識は、必ずしも正確なものではありませんし、何よりも、キリスト教についての知識や聖書についての知識が人を救うわけではありません。人は、聖書のことば、神のことばそのものに触れ、その力によって信仰に導かれるのです。エチオピアの役人もエチオピアに帰る馬車の中で聖書を読んでいました。彼は、直接神のことばに触れて、信仰が与えられたのです。

 多くの人は、聖書は難しいから、いきなり聖書を読むよりも、聖書を読む前に、もっと手軽な書物を読むよう薦めます。それも良いかもしれませんが、いつまでも、そのようなものにとどまらないで、聖書そのものを読んで欲しいと私は願っています。聖書を直接読むことによって、イエス・キリストへの信仰が芽生え、その信仰が育まれるからです。私は高校生のころ、自分で聖書を買い求めて読み始めました。もっと聖書を勉強したいと思い、通信講座を取り、また、教会でも良く聖書を教えていただきました。ペテロの手紙第一1:23と2:2に「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。…ですから、…生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあることが、本当に真実なことだと、心から思っています。それで、私は、とにかく聖書そのものを読み、学ぶことを人々に薦めているのです。信仰書や聖書の解説書も役に立ちます。しかし、それは聖書そのものではありませし、聖書と同じ力を持ったものでもありません。聖書だけが、人を救う神のことばです。

 もちろん、聖書には読んだだけですぐ分かるというわけにはいかない部分もたくさんあります。エチオピアの役人も、ピリポから「読んでいることが、わかりますか。」と訊かれて、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」(使徒8:30〜31)と答えています。信仰を求めて聖書を読んでいる人には「導く人」が必要です。教会は神のことばを学ぶ場所です。聖書を読んで分からないところをそのままにしないで、教会で聖書を学びましょう。分かったつもりにならないで、謙虚になって尋ね、理解を助けてもらいましょう。聖書から始めなければ、信仰に至る道、命に至る道を歩くことができないからです。

  

 二、キリストを信じる

 信仰への第二のステップは、キリストを神の子として知り、信じることです。エチオピアの役人が読んでいたのは、イザヤ書53章でした。その7節から9節に

 「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」
とあります。ピリポは「この聖句から始めて、イエスのことを(エチオピアの役人に)宣べ伝え」ました(使徒8:35)。エチオピアの役人は、イエス・キリストのことを聞き、そしてキリストへの信仰を持ちました。どんなに聖書を学んでいても、また、それを教えたとしても、聖書をたんなる文学として学び、また、「生活の知恵」として教えるだけでは、誰も信仰にいたることはなく、救われることもありません。聖書は「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)と言っています。エチオピアの役人が読んでいたイザヤ53章には、イエス・キリストのことが明確に書かれていますが、たとえ、イザヤ53章のような箇所でなくても、聖書の主人公はイエス・キリストなのですから、どの箇所を読む場合でも、ここにはイエス・キリストについてどんなことが教えられているのかということを考えながら、聖書を読むのが良いのです。また、聖書から語る時も、いつでもキリストのことを語るようにしなければならないと思います。聖書からどんなに興味深いことが語られても、キリストが語られてなければ、人は救われないからです。

 そして、キリストについて私たちがまず知らなければならないこと、また伝えなければならないことは、キリストの十字架です。イザヤ53章は、まさにキリストの十字架の預言でした。ここには、裸にされ、鞭打たれ、人々の嘲りの中を十字架を背負って、「されこうべ」という名の恐ろしい丘に引かれていくキリストの姿があります。キリストは神の御子ですから、その力によって自分を苦しめる者たちをたちまちにして蹴散らすことができたのです。しかし、毛を刈られている雌羊のように、ただ黙ってそれを耐えられました。なぜですか。私たちの罪を背負いその身代わりとなるためです。神の御子キリストの、この身代わりの死によって私たちは、私たちが当然受けなければならない刑罰から救われ、罪赦され、神の子とされ、永遠の命をいただくのです。皆さんは、キリストが神の御子であり、私の罪のために十字架に死なれ、私を救うために死人の中からよみがえってくださったことを知り、信じていますか。この礼拝に集っているみなさんは、神のことばを聴くという第一のステップをすでに踏んでいるわけですから、イエス・キリストを知り、信じるという第二のステップにぜひ進んで欲しいのです。教会には、さまざまなプログラムがありますが、そのすべては、みなさんが、救い主イエス・キリストを知っていただくため以外のどんなものでもありません。教会は喜んで皆さんのお手伝いをしたいと願っています。

 三、バプテスマを受ける

 第三の段階は、イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けることです。ピリポは、主イエスが天にお帰りになる前、信じる者に「父、子、聖霊の名によってバプテスマを授けなさい。」と命じられたことを、エチオピアの役人に話したのでしょう。それを聞いたエチオピアの役人は、自分から「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」(使徒8:36)とバプテスマを願い出ました。これに対するピリポの答えは、使徒8:37にあります。「使徒8:37をご覧ください。」と言っても、みなさんの聖書には37節がありますか? 36節の次が38節になっていて、37節が抜けていますね。今、はじめて気がつきましたか? どうしてこの節がないかというと、37節のことばが記録されていない聖書の写しがいくつかあり、オリジナルの聖書にはこの節が無かったかもしれないという学問的な判断で省かれたからです。しかし、新改訳聖書では、欄外に、小さな字でこの節が記されていますので、そこを読んでみましょう。

 そこでピリポは言った。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」すると彼は答えて言った。「私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。」
ピリポも、エチオピアの役人も水の中に入り、ピリポはエチオピアの役人にバプテスマを授けました。みなさんが先ほどのバプテスマで見たとおりです。今朝、バプテスマを受けた兄弟、姉妹もまた同じように、イエス・キリストへの信仰を言い表して、バプテスマを受けました。兄弟、姉妹は、洗礼槽の背後に飾られた十字架の下でバプテスマを受けましたが、これは、兄弟、姉妹が、イエス・キリストは、私の罪のために十字架で死んでくださったということを言い表すためでした。また、この十字架の下でのバプテスマは、「古い私はキリストの十字架とともに死にました。今は、新しい私が、キリストの復活によって生きています。」ということを言い表わすものでもありました。聖書が言うように、「もしあなたが、イエス・キリストが神の御子であると、心底から信じるなら」バプテスマを受けて、キリストとキリストのからだである教会につながるものとなっていただきたいのです。バプテスマを受けるためにことこまかなリクワイヤメントはありません。37節にあったように、「心底から信じるならば、よいのです。」聖書が教えるように信仰のステップを踏み、キリストに近づきましょう。第一のステップ、神のことばを聴くこと、第二のステップ、キリストを信じること、そして、第三のステップ、バプテスマを受けることです。すでに、心にキリストを迎え入れ、第二のステップにいる皆さんには、ぜひ、バプテスマを受けるという第三のステップへと進んでいただきたいのです。そのために、心から祈っています。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたのことばを聴き、イエス・キリストを信じた兄弟姉妹が、今朝バプテスマを受けました。ふたりが、信仰のステップを一歩一歩踏みしめて、ここに至ったことを感謝いたします。今朝、ともに礼拝を捧げている方、また、このメッセージを、インターネットで、あるいは、テープで聞いている方の中に、第二のステップ、第三のステップを踏み出すのに躊躇している方がありますなら、どうぞ、おひとりびとりの手をとって導いてくださいますよう、心からお願いいたします。あなたを求める人々が信仰のステップを正しく歩んで、救いにいたることができるため、先に救われた私たちを、「導く人」として整え、遣わし、用いてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/15/2006