洗礼の喜び

使徒8:34-40

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8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:37 〔そこでピリポは言った。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」すると彼は答えて言った。「私は、イエス・キリストが神の子であると信じます。」〕
8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
8:40 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

 ここには、ピリポがエチオピヤの役人に伝道し、彼に洗礼を授けたことが書かれています。39節に、洗礼を受けたエチオピヤの役人が「喜びながら(エチオピヤに)帰って行った。」とあります。このエチオピヤの役人のように、即座に洗礼の喜びを感じる人もあれば、何年もたってから、自分の受けた洗礼をふりかえって感謝する人もあるでしょう。洗礼の喜びの感じ方は人によって違うかもしれませんが、洗礼が喜びであることには変わりありません。みなさんは、洗礼の喜びをどのように感じていますか。このエチオピヤの役人は、それをどう感じたのでしょうか。この人が洗礼の喜びをどんなふうに感じたかは、ここには書かれていませんから、洗礼について教えている他の聖書の箇所を参照しながら、洗礼が私たちに与える喜びについて考えてみたいと思います。

 一、罪の赦しの喜び

 第一は、「罪の赦し」の喜びです。ペンテコステの日、ペテロは、イスラエルの人々に向かって「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と説教しました。これを聞いた人々は心を刺され、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と、その説教に応答しました。ペテロはそれに対して「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」と答えました(使徒2:36-38)。「罪を赦していただくために、…バプテスマを受けなさい。」(使徒2:38)とあるように、バプテスマ(洗礼)が罪の赦しを与えることが分かります。アナニヤもパウロに洗礼を授けるとき、「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(使徒22:16)と言って、洗礼が罪を赦し、罪の汚れを洗い落とすと言っています。

 水は、自然界にごく普通にあるものですが、とてもユニークな物質で、他のものを溶かし込む作用については、特別なものがあるそうです。水ほど、多くのものを溶かすことのできる物質は他に無いと言われます。水は、ものを溶かし込む、その作用によって、さまざまな汚れを取り除き、洗い流すことができるのです。昔、ひとびとが川で洗濯していたころには、洗剤を使いませんでした。水洗いだけで着物はきれいになりました。水そのものに、ものをきれいにする力があるのです。それで、水は、神が人間の罪を赦し、きよめるときに用いられました。エゼキエル書は「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」(エゼキエル36:25-26)と言っています。

 しかし、どうして、洗礼が罪を赦すことができ、洗礼の水が罪の汚れを洗い落とすことができるのでしょうか。その答えは、エチオピヤの役人が読んでいた聖書にあります。彼は、「預言者イザヤの書」(使徒8:30)を読んでおり、ピリポが来たときには、53章を読んでいました。彼は、そこに書かれている「神のしもべ」は誰なのだろうと考えていました。人々の罪のために痛めつけられ、苦しめられていく、この人は、預言者イザヤ自身なのか、それとも、だれかほかの人なのだろうか。もし、だれかほかの人なら、いったいだれのことを預言しているのだろうかと考えていたのです。ピリポは、イザヤはだれかほかの人のことを預言し、そのだれかほかの人とは、イエス・キリストであると、教えました。使徒8:35に「ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」とあるとおりです。イザヤは、イエス・キリストが人間の罪の身代わりとなって十字架で死なれることを預言していたのです。イエス・キリストは人々の罪の身代わりとなって十字架で死なれ、そして、三日目に死人の中から復活されました。罪の赦しは、イエス・キリストの十字架と復活から来るのです。これ以外に人間の罪を赦し、きよめる方法はないと、聖書は告げています。

 貧困、病気、失業、災害、家族の不和、人間関係のトラブル、いじめや差別など、さまざまなものが私たちを苦しめますが、実は、私たちを最も不幸にしているのは、罪なのです。それを認めようが、認めまいが、人間の不幸の根源が罪であることは事実です。罪の解決がないかぎり、問題は本当には解決しません。しかし、イエス・キリストの十字架と復活は、罪を赦し、罪をきよめ、私たちを罪から解放し、罪の問題を解決するのです。これが、「福音」(Good News)です。世の中には「福音」と呼ばれるものが多くあるかもしれませんが、私たちが信じることができる「福音」は、この他にありません。神は、私たちにこの福音を信じ、この福音を伝え、この福音に生きるようにと、招いておられるのです。

 ピリポは、エチオピヤの役人に、この福音を語りました。罪を悔い改め、キリストを信じて、洗礼を受けるなら、罪の赦しを受けることができると、伝えたのです。エチオピヤの役人はこの福音を信じ、自分から洗礼を願い出ました。36節に「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」とある通りです。37節は理由があって、本文にはありませんが、そこには、ピリポが「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」と答え、エチオピヤの役人が「私は、イエス・キリストが神の子であると信じます。」と信仰の告白をしたことが書かれています。洗礼の水に使われている水は、特別な水ではありません。ふつうの水道水です。しかし、この水に入る者がイエス・キリストが私の罪の身代わりとなって死なれ、私を罪から救うために復活されたと信じるとき、洗礼の水は、神のことばと父と子と御霊のお名前によって、私たちのたましいの中にまで働き、罪を赦し、罪の汚れを取り除くものとなるのです。洗礼は、私たちに罪の赦しの喜びを与えてくれます。

 二、生まれ変わりの喜び

 第二は、生まれ変わりの喜びです。テトス3:5に「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」とあります。洗礼はキリストを信じる者に「新生」、つまり、生まれ変わりを与えます。洗礼によって神の子どもが誕生するのです。洗礼の水は、産湯のようなものです。

 イエスは「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)と言われました。「肉」というのは、人間の生まれつきの性質のことをさします。それは、罪によって損なわれていますので、そのままでは神の国に入ることはできません。どんなに努力をして良い行いを積み重ねたとしても、「肉」が持っている罪の性質は変わりません。神が私たちに求めておられるのは、すこしばかり「良い人間」になることではなく、「新しい人間」になることなのです。しかし、どうやって私たちは新しい人間になれるのでしょうか。よく、「生まれ変わったつもりで頑張ります。」と言いますが、誰も実際に自分を生まれ変わらせることはできません。日本のある女優の息子がドラッグの常習犯で、何度も逮捕されては、裁判で有罪になり、刑務所に行っているのに、また、同じことをしました。以前息子が捕まったとき、母親は「息子に生まれ変わったつもりでやりなおして欲しい。」と言っていましたが、今度は、「息子を産みなおしてやりたい。」と話していました。「息子に生まれ変わったつもりでやりなおして欲しい。」という母親の願い、「息子を産みなおしてやりたい。」という母親の悲痛な叫びは、よく理解できます。しかし、自分の力で生まれ変わることができる人はいませんし、どんな母親も、息子、娘を産みなおしてあげることはできないのです。しかし、人にはできないことも、神にはできます。神はイエス・キリストを信じる者を、神の子として新しく生んでくださるのです。聖書に「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13)とある通りです。洗礼の水は、この生まれ変わりを表わしているのです。

 このことは、エチオピヤの役人にとって、どんなに大きな喜びだったことでしょうか。エチオピヤの役人は、「礼拝のためにエルサレムに上り、いま帰る途中」(使徒8:27-28)でした。彼は、礼拝のために遠くエチオピヤから、何日も旅してきました。私たちの多くが、車で30分以内に教会に来ることができるのと、大きな違いです。なんという熱心でしょうか。けれども、彼は、エルサレムに来ても、神殿に入ることが赦されませんでした。祭壇のある神殿の庭に入ることができたのは、ユダヤの男性だけでした。女性は「婦人の庭」というところまでしか入ることを許されず、エチオピヤの役人のようにユダヤ人でない人たちは、神殿からもっと離れた「異邦人の庭」にしか入ることを許されませんでした。ユダヤ人よりも熱心に神を慕っていても、「異邦人」であるために、神に近づくことができない、神の民になることができない、そんな歯がゆさを彼は感じていたに違いありません。しかし、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けたとき、エチオピヤの役人は、ユダヤ人でなくても、神の子どもとなり、神の民となることができたのです。イエス・キリストにあっては、住む国の違い、肌の色の違い、言葉の違い、文化や風習の違いは、生まれ変わって神の子となるために何の妨げにもならないのです。罪の汚れを取り除く洗礼の水は、人を神の民として生まれ変わらせる born again の水でもあるのです。洗礼は私たちに生まれ変わって神の子とされる喜びを与えてくれます。

 三、聖霊を受ける喜び

 第三は聖霊を受ける喜びです。エゼキエル書に「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。」とありましたが、そのあとで、神は「わたしは…わたしの霊をあなたがたのうちに授ける。」(エゼキエル36:25-27)と言っておられます。洗礼は、信じる者に、罪の赦しと生まれ変わりだけでなく、聖霊を与えるのです。テトスへの手紙3:5に「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」とありましたが、続く6節に「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」とあります。ペテロは、ペンテコステの日に、「それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)と説教しました。ペンテコステに使徒に聖霊が与えられたように、洗礼によって聖霊が与えられると教えたのです。アナニヤも、パウロに洗礼を授けるとき、「兄弟サウロ。…主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」と言っています。洗礼と聖霊は深く結びついています。神は、洗礼を通して、私たちに聖霊を与えてくださるのです。

 洗礼が私たちに聖霊による生まれ変わりをもたらすのなら、洗礼が私たちに聖霊を与えないわけはありません。神の子どもは、神のいのちによって生きるのですが、神のいのちをもたらすのは、聖霊です。聖霊によって生まれた神の子どもは聖霊なしに生きることはできないからです。

 神が与えてくださる賜物はさまざまあります。健康も、食べ物も、家族も、友人も、日常生活のさまざまな喜びもみな神からの賜物です。クリスチャンはそうしたもの以上に、神のことばである聖書、祈り、賛美、また、教会と教会をとおして神に仕えるためのさまざまな賜物を感謝しています。しかし、私たちにとって最高の賜物は、聖霊です。なぜなら、聖霊は、賜物の与え主だからです。

かつてはわれ良きものを 求めて主を忘れたり
賜物より癒しより 与え主ぞ さらに良き
(新聖歌346)
という賛美があるように、どんなにすばらしい賜物も、与え主にまさることはありません。神は信じて洗礼を受ける者に聖霊を注ぎ、聖霊をその心に宿らせ、神の子どもとし歩ませてくださるのです。

 エチオピヤの役人は、洗礼を受けたあと、ひとりでエチオピヤに帰っていかなければなりませんでした。イエス・キリストを信じるようになった他のエチオピヤ人もいたことでしょうが、そうした人に出会うまでは、この役人はエチオピヤで、たったひとりで、キリストへの信仰を守らなければなりませんでした。伝承によると、ユダの代りに十二使徒のひとりとなったマッテヤがエチオピヤに行き、エチオピヤの教会を導いたとされていますが、牧者が与えられるまで、彼には、ピリポのような「導く人」がありませんでした。しかし、神は、彼をひとりぼっちにはしておかれませんでした。聖霊が彼とともにいてくださいました。彼は、ピリポを見ることがなくても、ユダヤの国から遠く離れて行っても、不安も心配もありませんでした。聖霊が共にいてくださる、その喜びで満たされていたからです。

 今朝、洗礼を受けた兄弟姉妹は、罪の赦しの喜び、生まれ変わりの喜び、聖霊を受ける喜びを与えられました。まだ洗礼を受けていない方は、ぜひ洗礼を真剣に考えてみてください。洗礼によって与えられる喜びを体験していただきたいのです。すでに洗礼を受けた者たちは、この喜びがさらに増し加わるように祈りつつ、信仰の道を歩んでいこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、失われた者が救われるとき、天に大きな喜びがあります。あなたが洗礼によって与えてくださる喜びは、そうした天の喜びの反映です。先に洗礼にあずかった者たちが、洗礼の喜びをあかししていくことができますように。そうして、多くの人たちが洗礼に導かれ、さらに天の喜びが大きなものとなりますように。主イエスのお名前で祈ります。

9/14/2008