導く人

使徒8:29-40

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8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
8:30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
8:32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:37 [本節欠如]
8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
8:40 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

 私たち家族が、はじめてアメリカ来て、まだ数日しかたっていない時でした。二日前に車を買って、運転をはじめたばかりで、家のまわりの地理すらあやふやでした。それで日曜日、教会からの帰り、自分の家の近くまで来ていたのに、道が分からなくなってしまいました。家の近くまで来ているのに、迷ってしまったのです。朝、教会に出かける時にはちゃんと行けたわけですから、その逆の道を通ればよかったですが、どこかで、大通りから入る道を見逃してしまったのですね。地図を見ても、どこがどうなっているのかさっぱりわかりませんでした。それで、ガソリンスタンドに寄って、ガソリンを入れている人に、道を聞くことにしました。まさか、「私の家はどこでしょう。」などと聞くことはできませんから、地図を見せて「ここに行くにはどうしたらよいのでしょう。」と聞きました。その人は、私がまったく方向感覚がないのを悟ったのか、「私についておいで。」と行って、わざわざ、私の家の前まで車で先導してくれました。テキサスでのことなのですが、「テキサス」には「フレンドリー」という意味があるそうで、親切な人が多く、私はその人の親切のおかげで、家にたどりついたというわけです。たとえ、地図があっても、やはり、導く人がなければ、目的地にたどりつけない、そんなこともあるのですね。

 イスラエル旅行をした時、自由時間を利用して数人の人たちといっしょに、ツアー・スケジュールにはないエルサレムの旧市街を見てまわりました。エルサレムの地下水道や発掘中の遺跡などを見ることができましたが、その時も、イスラエルの聖地研究所で勉強していた人がガイドをしてくれたので、そういった場所にも行くことができたのです。はじめてのところに行くには、導く人が必要です。それは、聖書の学びや信仰の世界でも同じです。聖書は決して難解な書物ではありませんが、一読してすべてがわかるというものでもありません。ツアー・ガイドが名所、旧跡を効率的に回ることができるように予定を組み、それぞれの場所で、その土地の歴史や意義を説明してくれるように、聖書の世界も、適切なツアー・ガイドなしには、今自分がどこいるのかわからなくなって、迷ってしまいます。信仰の世界という、目に見えない世界においては、なおのことで、正しい導き手なしには、イエス・キリストに到達することはできません。

 今朝の聖書には、エチオピヤの役人がピリポによって信仰に導かれたことが書かれています。今朝は、エチオピヤの役人がどのようにして、信仰に導かれたかを学び、導く人の大切さについて考えてみましょう。

 一、熱心な求め

 エチオピヤの役人についてですが、彼は「エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた」(27節)と言われています。今で言うなら、政府の閣僚級の人物でした。古代のエチオピヤは、皇帝によって治められていましたが、皇帝は神聖な者と考えられ、俗事には関わらず、直接政治にたずさわりませんでした。かっての日本の天皇と似ていますね。日本では天皇のかわりに総理大臣が政治をつかさどりましたが、エチオピヤでは、皇帝のかわりに、皇帝の母親が女王となって政治をつかさどったのです。「女王カンダケ」とありますが、「カンダケ」というのは、エチオピヤの女王の呼び名で、固有名詞ではありません。エジプトの王を「ファラオ」と言うのと同じです。その女王に仕える高官が、はるばるエチオピヤからイスラエルまで来ていました。イスラエルとの政治上の話し合いのためでしょうか。それとも、女王のいいつけで、何かを買い求めるためでしょうか。そのどちらでもなく、神を礼拝するためだったのです。27節の最後に「彼は礼拝のためにエルサレムに上り」とあるように、この人は、神を求め、礼拝する人でした。しかも、この時たまたま礼拝に来たというのでなく、年ごとに、あるいは、ユダヤの祭のあるごとに、礼拝を守っていたようです。旧約時代から、エチオピヤとイスラエルは親しい関係にあり、エチオピヤにはまことの神に心を寄せる人々が多くいたがことが知られていますが、このエチオピヤの役人もそのひとりでした。彼は、熱心な礼拝者でしたが、しかし、ユダヤ人ではないために、エルサレムの神殿に行っても、異邦人の庭にまでしか入ることを許されず、神殿に入って祭壇にささげものをすることを許されなかったのです。しかも、彼は「宦官」と呼ばれる人で、旧約の律法によれば、こういう人は神に仕えることが許されなかったのです。けれども彼はあきらめませんでした。律法の壁があったとしても、彼は、神の恵みを信じて、いつか神に受け入れられることを願い求めていたのです。

 信仰の導きを求める人には、一にも、二にも、こうした願いが必要です。いちど礼拝に出てメッセージが分からなかったから、もうよそうとか、教会に来て人々の中に溶けこめなかったからやめてしまおうと考えないで、分かるまでくらいついていく、信仰をつかみとるまであきらめないという気持ちが大切です。聖書が「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル人への手紙10:36)と言っているように、本当に良いものは、簡単には手に入りません。それらを手に入れるためには、忍耐が必要です。信仰もまた、ひらめきによって突然与えられるというよりは、忍耐深く神を求め続けることによって与えられるのです。私は、2002年1月の教会報に「あきらめないで」という記事を書きましたが、そこから少し読んでみたいと思います。「ウルワースは最初、四つ店を開きましたが、三つは失敗して閉店しなければなりませんでした。しかし、彼は、あきらめないで、後に、全米にチェーン店を持つまでになりました。ペリー提督は七回、北極を目指しましたが、すべて失敗しました。しかし、あきらめないで八回目に北極点に到達しました。エディソンは電球のフィラメントを見つけるのに、なんと1600もの材料を試しました。オスカー賞で有名なオスカー・ハマスタインが『オクラホマ』で成功するまで、六回のショウはすべて失敗でした。しかし、『オクラホマ』はその後、2,248回ものショウを重ねることになったのです。ベーブ・ルースは714本のホームランを打ちましたが、その倍以上の空振りをしています。『キリストにはかえられません』の賛美歌で有名なジョージ・バーナード・ショウは子どものころ、まったくスペルができませんでした。ベンジャミン・フランクリンは算数が苦手で、アインシュタインは『勉強についていけない子』と思われて学校から追い出されたことがありました。ユリシーズ・グラントは、軍務についている時に酒を飲み、酔っ払ったため、軍を辞めさせられました。それでビジネスをしましたが、失敗し、農業も試してみましたが、それも失敗しました。彼は、働き盛りの四十代に、薪ひろいをし、それを道端で売っていたのです。しかし彼はあきらめませんでした。そして、彼は、その『忍耐』によって、アメリカ大統領にまでなったのです。」たくさんの例を挙げましたが、人生に成功した人はすべて、何度失敗してもくじけず、あきらめず、目指すものを求め続けた人々でした。信仰や神の導きも、同じように、くじけず、あきらめず、それが得られるまで忍耐深く求め続けることが大切なのです。神は求める者、求め続ける者にお与えになると約束しておられます。

 二、謙虚な思い

 エチオピヤの役人から学ぶ第二のことは、彼が謙遜に神に求めたということです。エチオピヤの役人は、エチオピヤへの帰り道、馬車にゆられながらイザヤ書を読んでいました。そこに見知らぬ人が駆け寄ってきて、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と彼に尋ねたのです。皆さんだったら、見ず知らずの人から、突然こんな質問をされたらどう思いますか。「なんて失礼な。」と思ってしまうかもしれませんね。しかし、エチオピヤの役人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」(31節)と言って、ピリポに、馬車に乗って一緒に座るよう頼んでいます。エチオピヤの役人は、地位も身分もある人物でした。その当時とても高価な聖書の写しを買うことができるほどの財産も持っていました。彼の乗っていた馬車は、そうした彼の権勢を象徴する豪華なものだったでしょう。しかし、彼は、自分の地位や身分、財産などを誇ることなく、ピリポを自分の馬車に迎え入れています。信仰を求める人、神の導きを求める人には、このような謙遜、謙虚さが必要です。

 エチオピヤの役人は、聖書について全くの初心者ではありませんでした。彼はイザヤ書の53章まで読み進んでいました。そして、「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」という箇所で、「彼」と言われているのは、いったい誰なのだろうという質問を持っていました。エチオピヤの役人は、「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」とピリポに質問していますが、この質問は的を得た質問でした。イザヤ書53章に描かれている「苦難のしもべ」が誰なのかというのは、当時の聖書学者たちの間でも議論されていたことであり、聖書全体の鍵となる質問だったからです。聖書を読みはじめたばかりの時は、「何か分からないところはありませんか。質問はありませんか。」と聞かれても、どこが分からないかが分からず、何を質問していいかも分からないものです。エチオピヤの役人がこうした的確な質問ができたのは、彼がある程度聖書を知っていたからと思われます。しかし、エチオピヤの役人は、「私は、少しは聖書が分かる。」などと慢心せず、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」とピリポに助けを求めています。そして、彼は、ピリポから、イザヤ書53章がイエス・キリストのことを語っているのだということを学びました。イザヤ書53章に描かれていたのは、イエス・キリストの十字架の姿でした。イエス・キリストは私たちの罪のために、打たれ、ののしられ、傷つけられ、そして、命さえもささげてくださったのです。キリストの十字架こそ、聖書の中心的なメッセージです。聖書の預言の多くは、キリストの苦難と、それによる罪からの救いに焦点があてられています。それで「ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝え」(35節)ることができたのです。イザヤ書をさらに読み進んで行くと、56章にこう書かれています。「主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される。』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ。』と。まことに主はこう仰せられる。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ56:3-7)おそらくピリポは、エチオピヤの役人が手にしていたイザヤ書のページの先のほうをも開いて、このことばに触れたことだろうと思います。イエス・キリストを信じる信仰によって、どこの国の人であれ、どんな立場あっても、すべて神に近づき、神のものとされるのです。エチオピヤの役人は、謙虚に助けを求めることによって、聖書の中でいちばん大切な救いのメッセージを自分のものにすることができ、彼にとって最も必要な神のことばを得ることができたのです。聖書は人生の地図、信仰のガイドブックです。しかし、地図があっても、自分がその地図のどこにいるのか、また、どの道を通っていったら良いのかを、教えてくれる人が必要です。聖書が信仰のガイドブックであったとしても、どんな場合にどこからインストラクションを引き出したら良いのかは、先に聖書を学び、聖書に導かれてきた人たちから学ぶ必要があります。神の前にも、また人の前にも謙虚になって、聖書を学び、真理を求めましょう。その時、私たちは、確かなものをつかむことができるのです。

 三、信仰の決断

 エチオピヤの役人は、神に対し熱心な求めを持っていました。真理に対して謙虚な思いを持っていました。そして第三に、彼は、明確な信仰の決断をした人でした。彼は、ピリポからイエス・キリストのことを聞いた時、すぐにイエス・キリストを信じ、受け入れました。そして、ピリポにバプテスマ、洗礼を願い出ています。エチオピヤの役人は、ピリポとの対話の中で、ピリポが、彼のために神が特別に遣わしてくださった人であることを悟ったのでしょう。もう一度ピリポに会うことができる保証はどこにもありません。彼にとって、信仰を持つ機会はまさにこの時だったのです。聖書に「今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリント第二6:2)とあり、「きょう、もし御声を聞くならば、荒野で試みの日に、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)ともあります。最初に、信仰は忍耐深く求めなければならないとお話ししましたが、それは、いつまでも決断を先延ばしにするということではありません。神が与えてくださった機会を逃さず、決断することは、信仰にとってとても大切なことなのです。「信じたい」という気持ちの中にはすでに信仰が芽生えています。「信じたい」を「信じます」にするのが、決断です。

 エチオピヤの役人は、イエス・キリストへの信仰を言い表わし、バプテスマを受けることによって、この決断をしたのです。皆さんの聖書では36節の後37節がなくて、いきなり38節になっていますね。聖書の有力な写本の中には37節がないものがあるので、この節が欠けているのですが、37節は「そこでピリポは言った。『もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。』すると彼は答えて言った。『私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。』」となっています。このことばが、ルカが書いたものでなかったとしても、これはエチオピヤの役人のバプテスマの時のことを正しく伝えていると思います。エチオピヤの役人は、イエス・キリストを信じる信仰の告白に基づいてバプテスマを受けています。聖書はバプテスマが信仰の告白に基づいていなければならないことをはっきりと教えているのです。心で「信じたい」と思うだけでなく、それを「信じます」と口で言い表わすことを神は望んでおられます。バプテスマは私たちは心で信じ、口で告白したことが生活に表われていくための第一歩です。私たちが心で信じ、口で告白したことを、神はバプテスマによってさらに確かなものとしてくださるのです。9月からふたたびバプテスマ準備会が始まります。神を求め、信仰を求めておられる方々が、求めるものを自分のものにする、そういう時が訪れるよう、こころから祈っています。エチオピヤの役人がバプテスマを受けた後、聖霊はピリポを別の場所に移動させました。ピリポには別の使命があり、ずっとエチオピヤの役人について行くことはできませんでした。エチオピヤの役人は、ピリポとほんのわずかしか共にいませんでした。彼はふたたび、ひとりで旅を続けましたが、その心は喜びに満たされていました。この「喜び」は、信仰の決断によって与えられる喜び、聖霊による喜びです。バプテスマを受けたほとんどすべての人が「洗礼を受けるまではとても不安でした。でも、洗礼を受けた後、想像もしていなかった喜びを感じました。」と、口をそろえて言います。エチオピヤの役人は、ピリポに代わって、永遠の同伴者である聖霊を受け、その喜びに満たされて旅を続けることができたのです。

 エチオピヤの役人がその後どうなったかは、聖書に何も書いていません。しかし、エチオピヤには多くのクリスチャンがいて、そこに教会ができ、1974年にエチオピヤ革命が起こり、ハイレ・セラシェ皇帝が追放されるまでエチオピヤの歴代皇帝はクリスチャンでした。この役人が、エチオピヤの教会の礎のひとりとなったのかもしれません。エチオピヤの役人は、ピリポによって信仰に導かれた人でした。しかし、その後は、他の人をキリストに導く人になっていったのです。今日は「父の日」ですが、現代、多くの子どもたち、若者たちが、道を失い迷っています。そして、彼らを正しく導く人が少ないのです。「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」との声が聞こえるようです。父親、人生の先輩は、彼らを「導く人」とならなければなりません。そのためにも、まず、私たち自身が、熱心に、また、謙虚に、そして、決断をもって、神を求め、真理を求め、信仰を求め、成長を求め、きよさを求めるものでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちのまわりに多くの「導く人」たちを置いてくださり、真理へと、信仰へと導いてくださったことを感謝いたします。天の御国を目指して信仰の旅を続ける私たちに、良き導き手を与え、私たちを導き続けてください。それと共に、私たち自身をも、他の人にとっての良い導き手とし、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」との声に答えることができるようにしてください。とりわけ、父親たちに、子どもたちを導き、家庭を導くための知恵と力を与えてください。導く者にも、導かれるも者にも、熱心と、謙遜と、そして、信仰の決断を与え、ともどもに聖霊の導きに従わせてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/20/2004