天が開けて

使徒7:54-60

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7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 英語の名前の多くは、聖書から取られています。皆さんのまわりにも Peter, Paul, Mark, James などといったお名前の方がたくさんいますね。どれも、人々に愛されている名前ですが、私は、Stephen ステパノという名前には特別な思いを持っています。というのは、ステパノは、教会の歴史で最初の殉教者になった人だからです。今朝は、聖書のステパノについて、彼がどんな人だったか、どのように殉教していったかを学び、私たちの信仰のあり方について考えてみたいと思います。

 一、聖霊に満たされた人

 ステパノの名前が最初に出てくるのは、使徒の働き6章です。初代教会は、身寄りのないやもめの世話をしていたのですが、ギリシャ語を話すやもめが、ヘブル語を話すやもめよりも食べ物の配給が少ないという苦情が起こりました。初代教会も、私たちの教会と同じようにバイリンガルの教会だったのですね。言葉や文化が違いますと、普段は起こらないような誤解や摩擦が生じます。初代教会で、ヘブル語を話す人たちが、わざとギリシャ語を話す人たちにいじわるをしたわけではないでしょうが、食べ物の配給で、ギリシャ語を話す人たちがなおざりにされたのです。「食べ物の恨みはおそろしい。」と言いますが、このことから、使徒たちに苦情が訴えられたのです。それで、使徒たちは、この問題を解決するために、七人の人たちを選ぶように命じましたが、その条件は「聖霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」(6:3)というものでした。やもめへの配給のお世話をする人たちに、「聖霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」という高い基準が設けられているのを、皆さんは、不思議に思いませんでしたか。なぜ、使徒はこのように高い基準を求めたのでしょうか。それは、やもめへの配給の問題が、単に食べ物の問題だけではなく、その背後に教会の一致という霊的な問題があったからです。教会の奉仕は、それが好きだからする、上手にできるからするというものではありませんね。どの奉仕も、キリストのからだとしての教会を建てあげていくためにあるので、その目的を忘れてしまうと、奉仕や活動が、神のためのものでなく、自己実現や自己満足のためのもので終わってしまいます。キリストの霊的なからだを建てあげる奉仕は、霊的な力なしにできるものではありませんから、聖霊の働きなしには奉仕は単なる人間のわざで終わってしまいます。それがどんなにうまくいき、人に誉められても、キリストのからだが建てあげられていくことにつながらないのです。「聖霊に満たされた人」とは、後でお話ししますが「聖霊の働きに頼る人」と言い替えても良いのですが、使徒たちが、食べ物の配給のことにおいても、聖霊の働きに頼る人々を選んだのには、そのような理由があったのです。初代教会は、聖霊の働きに頼る人々によって、その問題を克服していきました。私たちも、同じ姿勢で問題や課題に取り組む時、その解決を見ることができるのです。教会の前進、成長の鍵は、いつの時代にも、「聖霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」にあります。そういう人が、私たちの教会に、七人といわず、もっと多く与えられるように祈っています。

 さて、このようにして選ばれたのが、ステパノ、ピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、ニコラオの七人でした。ステパノはこの七人のいちばん最初に名前があり、「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ」(6:5)と呼ばれています。「聖霊に満たされる」というのは、分かるようで分かりにくいことですね。「聖霊の満たし」とは、突然、雷に打たれたようになって、まったく別人のようになってしまうことだと考える人があるかもしれませんが、聖書では、聖霊の満たしは、そのようなものではなく、日々の生活の中で体験すべきものとして教えています。とくにエペソ人の手紙では、「御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)との教えは、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」という命令となり、それは、「妻たちよ。夫たちよ。」「子どもたちよ。父たちよ。」「奴隷たちよ。主人たちよ。」と、日常生活の様々な分野での教えに発展しています。聖霊に満たされるというのは、夫婦の間で、親子の間で、そして、職場の上司との関係の中で、さらには、あらゆる人間関係や日常の営みの中で生かされるべきものなのです。この世には完璧な夫婦はありません。互いに愛し合い、敬い合い、労わりあってはいても、夫婦の間に生じたり、ぶつかりあったり、傷つけあったりすることがあります。しかし、そんな時も、そこに聖霊の満たしを求めるなら、夫婦の関係は修復され、いやされ、より良いものになっていくのです。親子の関係もなかなか難しいものですが、だからこそ、そこに聖霊の働きが必要です。職場での上司や部下、まだ同僚との関係も、聖霊の力がなくては、いつも不満やストレスがたまったままで終わってしまうでしょう。

 「聖霊の満たし」というと、ステパノのように特別に選ばれた人だけが体験するもののように考えてしまいがちですが、聖霊の満たしは、すべてのクリスチャンに必要なものですから、それを求めるすべてのクリスチャンに与えられるはずです。とりわけ、自分に欠けがあることを知っている人にこそ、必要なものであり、自分の欠けを認めて、神に満たしを願う人に、それは与えられるのです。私は、長い間、聖霊の満たしを求めて、聖書を学んできました。どうしたら聖霊の満たしを得ることができるか、それを知りたいと願ってきましたが、その答えの一つを、ステパノについて言われている、「信仰と聖霊に満ちた人」という言葉に見つけました。「信仰と聖霊に満ちた人」という言葉は、聖霊に満たされることは、信仰に満たされることであるということを言っています。つまり、信仰に満たされるなら、聖霊に満たされる、信仰を働かせる時、聖霊の働きを受けるということです。ぼんやりと待っていれば突然聖霊に満たされるというのではありません。自分の欠けたところを素直に認め、その欠けが満たされるよう願い求め、聖霊がそれを満たしてあまりあるお方であることを信じる時、聖霊の満たしがやって来るのです。自分の欠けを、ほんとうの意味で知るためには、あるいは厳しい試練を通らなければならないかもしれませんし、それを素直に認めるにいたるまでは、心の中での闘いを経験しなければならないかもしれません。たしかに、多くの場合、試練や霊的格闘の後に聖霊の満たしを経験しますが、試練や霊的格闘そのものが満たしを与えるのではありません。聖霊の満たしを与えるものは最終的には信仰です。もし、あなたが、今、何かのことで、自分の弱さを感じているなら、行き詰まりを覚えているなら、自分の弱さに甘えたり、行き詰まりにあきらめたりしないで、そのことのために信仰を働かせ、そこに聖霊の働きを呼び求めてみませんか。どんな小さなことであれ、そのことで一度聖霊の満たしを体験できたら、もっと大きなことが起こっても、そのことに対して聖霊の助けを求め、聖霊の満たしをいただいて、それを乗り越えていくことができるようになるのです。ステパノは聖霊の満たしによって、敵対するユダヤの人々を前に、キリストを証しし、そして殉教を遂げました。神は、ステパノが教会の最初の殉教者になるという大きな使命を与え、それを成し遂げることができるために聖霊の満たしを与えましたが、この聖霊の満たしは、ステパノに突然与えられたものではありませんでした。ステパノは、日常の生活の中でも、聖霊の満たしを体験していました。だからこそ、彼は、他の人々から「聖霊に満たされた人」として認められていたのです。私たちはステパノのように迫害や殉教に直面することはないかもしれません。しかし、それぞれに、さまざまな困難や自分自身の課題に直面しています。ステパノの殉教から比べたなら、私たちの直面しているものは小さいかもしれません。しかし、問題や課題は、大きかろうが、小さかろうが、本当の解決のためには、聖霊のお働きが必要なのです。聖霊が満たせないほどの大きな問題はなく、聖霊の満たしがいらないほど小さな課題もありません。生きている限り、私たちには、さまざな問題、課題がやっています。目の前の問題、課題にただあえいで立ち止まっているのでなく、それを乗り越えて前進していくためには、どうしても聖霊の力が必要です。ひとつひとつの課題を通して、聖霊の力に頼ることを学びたいと思います。聖霊に頼ることが、聖霊に満たされることです。この信仰によって、勝利の人生が私たちのものになるのです。

 二、天を見上げた人

 ステパノは、また、天を見上げた人でした。ステパノは、彼を殺してやろうと集まってきた人々に取り囲まれた時、彼は、「天を見つめ」たと、使徒7:55にあります。他の人には見えませんでしたが、その時、ステパノにはイエス・キリストが神の右に立っておられるのが見えました。聖書は、イエス・キリストが神の右の座に「座られた」と言っているのですが、ステパノは、イエスがそこに「立っておられる」を見ています。イエスはなぜ立っておられたのでしょうか。私は、イエスがこれから主のもとに行こうとするステパノを迎え入れようとして、立っておられたのだと思いますが、ステパノは、彼の命を狙う人々に取り囲まれた中で、天を見上げ、天におられるイエスを仰ぎ、そこにある助け仰ぎ見たのです。私たちは小さな試練にもすぐうろたえたりする弱い者です。天を仰げば、そこに救い主がおられるのに、それを忘れて目に見える回りのものだけを見てしまうのです。

 かなり古い話ですが、前畑秀子さんといえば、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」の放送でよく知られている、女子二百メートル平泳ぎでオリンピック新記録を作って優勝した人です。ベルリン・オリンピックの時でしたね。実は、この前畑さんは、子どもの頃病気ばかりしていて、痛々しいほどやせて小さかったそうです。五歳になっても、三歳が四歳ぐらいに見えたそうです。それで秀子さんのお母さんは、何とか丈夫な子どもに育てたいと思い、毎日秀子さんを町外れの川まで連れていっては、そこで泳がせたと言うのです。丈夫な、人並みの体格をもったこどもに成長して欲しい、そういう母親の願いが、あの前畑選手を生み出しました。困難を乗り越えてきた人々はみな、今、目に見えるところだけであきらめたり、失望したりせず、まだ目に見ていないことも、やがて実現すると信じて努力してきました。神を知らない人でもそうするとしたら、神を知り、イエス・キリストを天に持っている私たちは、なおのこと、天を見上げ、イエス・キリストを見つめようではありませんか。イエス・キリストは、私たちを助けようと、そこで待ち構えていてくださるのです。ヘブル人への手紙は「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:14-16)と言い、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)と教えています。ステパノのように、天を見上げ、そこにおられる主イエスに目を留めること、それが私たちの歩みを確かなものにするのです。

 三、イエスにならった人

 ステパノは、また、主イエスにならった人でした。イエスを見つめる信仰の生活をしているうちに、ステパノはイエスに似たものと変えられていったのです。先週、夫婦はいつも一緒にいるので、いつしかお互いに同じような物の見方、考え方をするようになり、そのうち姿かたちまで似てくるというお話をしました。「似たもの夫婦」というわけですね。コリント人への手紙第二3:18に「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあるように、私たちも、主イエスに目を向けることによって、また私たちのうちに聖霊が働いてくださることによってイエスに似たものとなり、イエスにならうことができるのです。ステパノは、主イエスの姿に近づき、その顔かたちまでが、主イエスに似たものになった人でした。ステパノがユダヤの議会に呼び出され、尋問された時、彼の顔が「御使いの顔のように見えた。」と使徒6:15と書かれています。天使は常に神の御顔を仰いでいますので、その姿かたちにこうごうしさがあります。ステパノもまた、信仰によって主イエスの御顔を仰ぎながら生きていたので、彼の顔が御使いのように、神の栄光、キリストの栄光を反映するものになったのです。

 この間、テレビの録画があって、私は、録画前、安田さんに、メイクアップをしてもらったのですが、テレビに写った自分の顔を見て、ステパノのように輝いた顔でなかったのが残念でした。「弟子となしたまえ」(新聖歌404)という聖歌があり、その第四節に「主をばならいたし、わが主よ。心の底より、主をばならいたし、わが主よ。」とあります。主イエスのようになりたい、主イエスの姿に近づきたいというのは、すべてのクリスチャンの最も大きな願いだと思いますが、私も、私の表情の中に主イエスを見ていただきたいと思っています。こんな話があります。ジョージが、ある人から就職の世話を頼まれました。そこで、ジョージは、親友のABCカンパニーの社長トムに頼んで、その人と面接をしてもらうように頼みました。ところが、その人が面接で落とされてしまったと聞いて、ジョージはトムに「どうしてなんだ。」と聞きました。すると、トムは「彼は表情が悪い。」と答えたのです。「それが理由なのか。おまえは、見た目だけで人を判断するのか。」と言うと、「その人の内面は表情に表れる。人は表情に責任を持つべきだ。」との答えが返ってきたというのです。トムの言葉には一理あると、ジョージも納得したというのです。人の顔のつくりは、親から受け継いだもので、その人の責任ではありません。しかし表情はその人が生みだすもので、その人に責任があります。表情の背後には、その人の内側にあるものが反映します。クリスチャンの表情に、愛や、喜び、平安やきよさが見られるでしょうか。時々、自分の表情を点検して見る必要がありますね。私たちもステパノのような表情を持ちたいものです。

 ところで、ステパノは、その姿かたちばかりでなく、その行いにおいても、イエスのようになった人でした。ステパノは、石で打たれながら、自分に石を投げつけて来る人々のために祈りました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(7:60)これは主イエスが、十字架の上で「父よ。彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているかわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られた祈りと同じですね。主イエスは息を引き取られる時、「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言われましたが、ステパノも「主イエスよ。私の霊をお受けください。」(7:59)と祈っています。使徒ペテロは、主イエスの十字架について、「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(ペテロ第一2:20-21)と書いていますが、ステパノは文字通り、キリストの「足跡」に従った人でした。

 私たちは、一足飛びに、ステパノのように輝く顔を持つことはできないかもしれません。ステパノのように主イエスの足跡に忠実に踏み従うことができないかもしれません。しかし、「主をばならいたし、わが主よ。」という祈りによって、主のお姿に近づくことができます。聖書にイエスのお姿を見、祈り求めることによって、主のお姿に近づきましょう。たとえ、主の道を踏み外すようなことがあったとしても、悔い改めて立ち返るなら、私たちは、再び主に従いなおすことができるのです。聖霊がそのことを助けてくださいます。聖霊の助けをいただくなら、私たちも、主イエスのお姿に近づくことができます。ステパノはギリシャ語では「ステパノス」と言い、それは「冠」を意味します。殉教を遂げたステパノを主イエスは天で迎え、彼の頭に、「栄光の冠」「勝利の冠」「いのちの冠」を授けてくださったことでしょうが、ステパノのように忠実に、真実に歩む者、信仰によって歩む者には、誰にでも、主は、ステパノス、冠をくださるのです。ステパノのように聖霊に頼りながら、信仰によって歩み、朽ちない冠をいただく私たちでありたく思います。

 (祈り)

 私たちの主よ、今朝、私たちは、ステパノの崇高な殉教の姿を学びました。迫害のない、豊かで平穏な時代に生きている私たちは、ステパノにくらべ、なんと霊的に貧しく、乏しく、欠けだらけでしょうか。主よ、だからこそ、私たちは、その欠けを満たしてあまりある聖霊の満たしを求めます。自分に力がないからこそ、天を見上げ、主イエスに求めます。私たちを、主イエスの心を持ち、主イエスのように生き、主イエスの姿を映し出す者としてください。そうして、やがての日に、主イエスの手から冠を受け取ることができる者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/13/2004