与える幸い

使徒20:32-35

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20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
20:33 私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
20:34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。
20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。

 一、母が与えるもの

 先週、「神は喜んで与える人を愛してくださいます」(コリント第二9:7)とのみことばを学びました。私たちにいちばん身近な「与える人」の模範は、おそらく母親でしょう。母の愛はじつに与える愛だからです。

 母親は子どもに何を与えるのでしょうか。第一に「いのち」を与えます。もちろん、「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える」(ヨブ21:4)、「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(詩篇139:13)と聖書が教えているように、いのちもからだも最終的には神がお与えになったものです。しかし、神は、私たちに母親を通して、それらのものを与えてくださいました。「子どもを産む」というのは英語で "give birth" と言いますが、私たちに birth、誕生、人生の始まりを与えてくれたのは母親です。「母親にならない人はあっても、母親から生まれなかった人は誰もいない」と言われるように、私たちは母親からこのいのちを、人生を与えられました。それで聖書は「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。…あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ」(箴言23:22-25)と教えるのです。

 母親は第二に子どもに食べ物を与えて養います。日本がまだ貧しい時代、母親たちは自分の食べるものを減らしてでも子どもに食べ物を与えてきました。今も、食べ物の乏しい国が世界中にたくさんありますが、その国の母親も、まず子どもに食べ物を与えることを忘れません。私たちは、このような母の愛、子どもに惜します与える愛に養われてきたのです。

 第三に、母親は子どもに、安全、安心を与えます。母親は決してこどもを置き去りにしません。こどもがハイハイしたり、歩き出したりすると、階段から落ちないように柵をつけたり、危ないものを子どもの手の届かないところに片付けたりします。それだけでなく、こどもが不安なときは抱きしめて子どもの心を落ち着かせます。私たちは、誰も、そのような、母親の守りの中で、育ってきました。

 第四に、母親は子どもに、「しつけ」を与えます。「しつけ」は、人としてどう生きるかという基本的な教育です。これがなければ、人は他の動物と変わらないもの、いや、他の動物よりも、もっと始末のわるい、危険なものになってしまいます。母親は私たちにいのちを与えただけでなく、そのいのちをどう生きるかの指針も与えてくれました。父親も子どもをしつけます。しかし、子どもが小さいころのしつけはおもに母親がします。ですから、聖書は「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない」(箴言1:8)と言って、父親ばかりでなく、母親にも子どもをしつける権威を与えています。私たちは、しつけを受けていたときには、「厳しい」、「窮屈」、「うるさい」などとそれを嫌いました。しかし、社会に出て、親が自分をきちんとしつけてくれたことがどんなに役に立っているかを、身にしみて知らされたのではないでしょうか。大人になって、母親のしつけを感謝できるようになったことだろうと思います。

 二、与える人の幸い

 このように、子どものために自分自身を「喜んで与える」、そんな母親の愛によって、私たちは、今あるのです。このことを心から感謝したいと思います。また、母親たちには、自分に与えられた使命をもっと喜び、感謝していただきたいと思います。と言うのは、時々、「母親って、損なのよね。子どものためにしたいこともできないで…。子どもがいなかったら、もっと自由なのに」などというのを耳にするからです。いつも子どもにまとわりつかれて、身も心も疲れ果て、つい、そういう言葉が出てしまうのでしょう。けれども、決して母親であることは「損」なことではありません。与えることは「乏しくなる」ことではありません。母親であることには大きな益があり、母親のように喜んで与える人はさらに豊かになる、聖書はそう約束しています。

 今朝の聖句、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)はイエスご自身のことばです。福音書にはこの通りのことばは書かれていませんが、このことばは、口伝えによって伝えられ、初代教会の人々は、これがイエスご自身のことばであることを知っていました。ここで「幸いである」という原語は、「マカリオス」で、山上の説教でイエスが「心の貧しい者は幸い」、「悲しむ者は幸い」などと言われたのと同じことばです。これには「神の祝福を受けている」という意味があります。山上の説教では八つの「幸い」あるいは「祝福」が語らていますが、「受けるよりも与えるほうが幸いである」ということばは、九つ目の「幸い」また「祝福」と言って良いかもしれません。主イエスご自身が「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたのですから、自分の身を削ってでも子どもに与えてきた母親や、他の人に喜んで与えてきた人たちが幸いであり、神の祝福を受けないわけがないのです。

 では、与える人はどのように幸いであり、神からどんな祝福を受けるのでしょうか。

 第一に、与える人は神に愛されます。「神は喜んで与える人を愛してくださる」とある通りです。

 神は私たち人間を神のかたちに作り、私たちに栄光を与えてくださったお方、人類のためにこんなにすばらしい地球をお与えくださったお方です。地球には空気があり、水があり、草木があり、魚や動物がいます。地中にも豊かな宝が隠されています。宇宙には数えきれないほどの星がありますが、地球のような命の星、貴重なものがぎっしり詰まった宝の星は、どこにも見つかっていません。さらに神は人間に、この命の星、宝の星から恩恵を受ける知恵、知識を人間にお与えくださいました。人間が神に逆らい、罪びととなった後も、神は私たちにあわれみをかけ、恵みを与え、ついにご自分の御子さえもお与えくださいました。御子なる神は、罪びとのためにご自分を与えて、与えて、与え尽くされ、十字架の上でその命までもささげられました。神こそが、ひたすらに与えるお方、ほんとうの与え主です。

 私たちが、誰かと親しくなるのは、たいてい、どこかで自分と共通点のある人だと思います。そのように、神もご自分と共通点のある人を愛されます。神は「喜んで与えるお方」ですから、「喜んで与える人」を好み、愛し、祝福してくださるのです。母親や、母親のような愛で与える人は、自分が神に愛されていることが分かってくるのです。

 第二に、与える人は神に用いられます。

 地上で神の愛にいちばん近い愛は「母の愛」だと言われます。それは無償の愛であり、犠牲の愛だからです。母親は子どもを産みますが、最初に触れたように、最終的に子どもにいのちを与え、母の胎内で組み立ててくださったのは神です。母親は子どもを養いますが、詩篇22:9に「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方」とあるように、私たちを育んでくださったのも神です。母親は子どもを守りますが、本当の意味で私たちを守ってくださるお方は神です。神は「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」(イザヤ49:15)と言われます。不幸にして、母親から捨てられたり、母親の愛を十分に感じられないまま育った人もあるでしょう。たとえ、そうであっても、神の愛を知るなら、私たちは、母の愛にまさる愛を受けることができます。神を信じる人たちはそのことを良く知っていました。それで、「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる」(詩篇27:10)、また、「私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています」(詩篇71:6)と言うことができたのです。また、こどものころ、母の教えに十分に従えなかったとしても、神を信じる者は神の子どもとして、神のことばによって訓練を受け、自分を正され、成長することができます。

 このように、私たちを生かし、育てるのは、神の愛です。しかし、神はその愛を母親を用いて私たちに与えてくださいます。母親は神の愛を届けるという役割を果たすために、選ばれ、用いられているのです。それはなんという特権であり、幸いであり、祝福でしょう。子どものない人でも、母親のような愛で人を生かし、養い、守り、育てることによって、神の愛を人々に分け与える器として神に用いられるのです。

 第三に、与える人は神に覚えられます。ヘブル6:10にこんな素晴らしいみことばがあります。「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」私は、このことばを読むたびに、使徒9章に出てくるドルカスのことを思います。彼女は、まわりの人々のために着物を作っては、それをあげていました。ドルカスが亡くなったとき、人々は、彼女に作ってもらった着物を持ってきて、互いに見せあい、彼女の死を悼みました。ドルカスが「与える人」でなかったら、人々からこんなには覚えられなかったでしょう。そして、彼女の愛の行いは、人にだけでなく、神に覚えられていました。ドルカスは使徒ペテロの祈りによって生き返ったのですが、この奇蹟は、神が、与える人を覚えていてださるということを物語っています。

 第四に、与える人は神から報いを受けます。

 マタイ25:31-46は、私が読むたび、聞くたびに感動を覚える箇所です。イエスは最後の審判のとき、正しい人たちに「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです」と言われます。ところが、正しい人たちは答えます。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」この人たちは、自分たちのした良い行いを人に誇ったり、自己満足するために、それを記憶したり、記録したりしていません。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」(マタイ6:5)とのことばの通りにしていました。隠れたわざは人に知られることがなく、誰にも覚えられません。それをした本人も忘れてしまうことがあるでしょう。しかし、主は、それを覚えていてくださいます。そして、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」と言って報いてくださるのです。

 子どもに愛を注いだからといって、必ずしも、子どもが母親を尊敬してくれるとは限りません。逆に反抗してとんでもない道に足を踏み入れてしまうことがあるかもしれません。人に良くしてあげたからと言って、かならずしも感謝されるわけではありません。感謝のかわりに要求や非難だけがやってくることがあるかもしれません。けれども主は、私たちが主への愛のゆえにしたことを覚えていてくださいます。今は、子どもが反抗していても、アウグスティヌスの母モニカが「涙の子は滅びない」ということばに励まされて祈り続けたように、私たちも神に望みをかけるなら、神は必ずその祈りに答えてくださいます。神のために大きなことをした人だけが神の国を受け継ぐことができるのではありません。人からの報いも、人々から認められることも求めず、たとえ小さなことであっても、それを「最も小さな人たち」にした人々にこそ、神の国という大きな報いが与えられるのです。

 神に愛されていること、神に用いられていること、神に覚えられていること、そして、神に報われることを信じて、いよいよ「与える幸い」に生きていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちをこの世に生まれさせ、生かし、養い、守り、教え、育てるために母親たちを尊く用いてくださっています。どうぞ、ひとりびとりの母親に、また、子どもたちを教え導く立場にある人たちに、そして人々の必要を心にかけて与えることに励んでいる人々に、あなたからの、この尊い使命を喜んで果たす思いを与えてください。様々な困難に疲れ果てるとき、彼らを慰め、力づけてください。失望し、落胆するとき、あなたからいただく報いを示し、あなたからの希望をもって励ましてください。私たちと同じように母より生まれ、母への感謝を忘れなかった、主イエスのお名前で祈ります。

5/13/2012