母なる教会

使徒2:40-47

オーディオファイルを再生できません
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

 母の日には、毎年、それにちなんだ箇所からお話をしてきましたが、今朝の聖書の箇所は、母の日とはほど遠いような箇所です。どこが「母の日」と関係があるのですかと、叱られそうですが、実は、ここには「母なる教会」の姿が描かれているのです。今年は、年間標語に「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(コリント第一12:27)という聖書のことばを選び、教会とは何か、それは何をするところで、どうあらねばならないかということを学んでいます。それで、今日の母の日に「母なる教会」ということを学びたいと思います。

 聖書では「教会」は女性で表わされています。「教会」を意味する「エクレシア」というギリシャ語は、女性形で、お互いに関係のある教会は「姉妹教会」と言い、「兄弟教会」とは言いませんね。また、聖書では、教会は「キリストの花嫁」として描かれています。花嫁がやがて母となるように、教会もまた、キリストと結ばれて、神の子どもたちを産み出します。そして、母親が生まれた子どもを養い育てるように、教会も、神の子どもたちを、神のことばによって養い育てるのです。そして、神の子たちへの愛をとうして教会は神の愛を人々に示していきくのです。今朝は、教会が「母なる教会」と呼ばれることの意味を考えてみましょう。

 一、神の子どもを産み出す教会

 第一に、教会が「母なる教会」と言われるのは、神の子を生み出すからです。今朝の聖書の箇所では、三千人もの人々が、悔い改め、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けたとあります。教会は、一日で三千人の信者を産み出したのです。教会は、このように、神の子たちを産み出すところなので、「母なる教会」と呼ばれるのです。教会にはさまざまな活動があります。教会には社会の中でのいろいろな役割りが期待されています。しかし、神が、教会に期待しておられることは、なによりも、キリストを信じる者たちを産み出すということです。農場は野菜や果物を生産し、自動車工場は自動車を生産します。教会は、クリスチャンを産み出すところなのです。

 もとサンタクララ教会のメンバーで、しばらくぶりに教会を訪ねてくださった人が、「教会の半分以上の人たちが私の知らない人になりましたね。」と言っていました。私たちの教会の置かれている環境上、人の入れ替わりが激しいからなのかもしれませんが、同時に、教会に新しいメンバーが加えられているからで、それは、うれしいことなのです。最近、日本では「少子化」といって、子どもの数が少なくなっており、アメリカでは、百人のうち二十数名が15歳以下のこどもなのに、日本では百人のうち十数名しか子どもがいないそうです。このままの状態で三百年経つと日本の人口はたった20人になってしまうとも言われています。教会もそこに霊的な子どもたちが産み出されなければ、どんどん小さくなって行き、やがて無くなってしまいます。教会が何年たっても同じ顔ぶれでいたら、ひさしぶりに訪ねてくる方が昔を思い出すには良いかもしれませんが、それは、神の望まれる教会の姿ではありません。今朝の聖書の箇所の最後を見ますと、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(47節)とあります。教会に、常に新しいクリスチャンが加えられてこそ、健全な姿で成長していくことができるのです。

 では、教会が新しいクリスチャンを産み出す力はどこから来るのでしょうか。それは、聖霊によってです。人は、どのようにして、神の子として生まれ変わることができるのでしょうか。主イエスが「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:5)と言われたように、それは、聖霊によってです。自分の努力でも、また、教会自体の力によってでもありません。教会そのものも、聖霊によって産み出されたものなのです。教会は、聖霊の器となって神の子を産み出すのです。教会を構成するひとりびとりが聖霊に満たされ、教会が本当の意味で聖霊の宮になる時、人々は、御霊に満たされた人を通して聖霊を知り、教会で聖霊の働きを受け、生まれ変わりを体験していくのです。初代の教会は、そのような教会でした。エルサレムに集まった百二十人の弟子たちが、十日間の祈りの後、ペンテコステの日に聖霊を受けました。百二十人のひとり残らずが聖霊に満たされたのです。その後も弟子たちは、しばしば聖霊の満たしを体験しています。教会は、聖霊の器になることによって、神の子どもたちを産み出すことができたのです。神の子どもたちの母なる教会となったのです。教会は、人々が加えられ、建物の修理も進み、礼拝堂のプロジェクターやスクリーンなど、備品も整えられてきました。伝道や教育、またフェローシップの活動も、組織的に行なわれるようになりました。それは、とても喜ばしいことで、これからも進めていかなければならないことなのですが、だからと言って、ひとりびとりが聖霊に満たされること、聖霊の力をいただくことを忘れてはならないと思います。聖霊の臨在と力なしには、活動が空回りに終わってしまうのです。聖霊に満たされ、聖霊に励まされ、聖霊によって前進し、多くの神の子どもたちを生み出していく、そんな教会が築き上げられるために、いっそう祈り、力をあわせていきましょう。

 二、神の子どもを育てる教会

 第二に、教会が「母なる教会」と呼ばれるのは、神の子どもたちを養い育てるからです。母親の仕事は、子どもを産むことで終わりません。子どもに栄養を与え、子どもに語りかけてことばを教え、さまざまな世話をし、また、正しい方向へと導くのが母親の仕事です。それで、初代教会も、ペンテコステの日に、バプテスマを受けた三千人の人々を養い育てました。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(42節)とあるとおりです。教会は、信者を産み落としたまま、放っておいたのではありません。神のことばを与え、交わりの中に置き、礼拝をささげ、祈りをささげていたのです。キリストを信じて生まれ変わった人も、霊的にはまだ赤ん坊、幼な子です。教会は、その人たちを、まず、神のことばで養う必要があります。ペテロ第一1:23に「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とある通り、人は神のことばによって新しく生まれます。そして、神のことばによって生まれた者は、神のことばによって養われるのです。ぺテロ第一2:1-2に「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。使徒パウロも、「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)と言っています。みことばには大きな力があります。人は神のことばによって、生まれ変わり、成長し、やがて神の国を受け継ぐことができるのです。しかし、これを逆に言えば、人は神のことばを聞かない限り、救われず、神のことばを心にたくわえるのでなければ、成長することもなく、神の国にいたることもないということになります。聖書にある通り、純粋なみことばの乳を慕い求める私たちでありたいものです。

 今朝の箇所で、ぺテロは「この曲がった時代から救われなさい。」(40節)と言っています。科学、技術はどんどん進歩していきますが、人の心はどんどん悪くなってきて、かっては、まれにしかなかった凶悪な犯罪や、残酷な出来事が、毎日のように起こるようになってきました。確かに現代は曲がった時代です。この曲がった時代をまっすぐに生きようとすると、どこかでぶつかってしまうので、心ある人たちも、ついつい世の中の流れに乗ってしまうということになるわけです。しかし、クリスチャンは、そんな世の中でも正しく生きようと努力します。そのような時代だからこそ、暗い時代の光となろうと励みます。このように、曲がった時代にまっすぐに生き、暗い世の中で光輝くための力は、どこから来るのでしょうか。それもまた、神のことばから来るのです。ピリピ2:15-16に「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」とあります。クリスチャンが神のことばを学ぶのは、自分のためだけではありません。それによってこの世を照らすため、曲がった時代にまっすぐなものを示すためです。

 そして、神のことばによって、信者を養うのが、「母なる教会」のつとめなのです。みなさんは、そこでみことばに養われる「母なる教会」を持っておられますか。パブテスマを受けた教会のことを「母教会」と言います。ここに集っておられる方の半数は、別の教会でバプテスマを受けた方でしょう。私もそうですが、「母教会」には特別な愛着があることでしょう。それは自然なことで、決して悪いことではありません。しかし、バプテスマ受けた教会だけが、あなたにとって「母なる教会、母教会」でしょうか。今、礼拝をささげ、交わりを保ち、奉仕をしている教会、そこでみことばによって信仰を養われている教会こそが、「母なる教会、母教会」ではないでしょうか。それぞれに事情があって、一概には言えないことかもしれませんが、私は、日本に帰られたメンバーには、それぞれの教会にしっかりとつながり、その教会員となって励んでいただきたい、日本から、来られた方も、この教会の会員となって、ここを第二の「母教会」にしていただきたいと願っています。そうすることによって「母なる教会」で、さらにみことばに養われ、自分の信仰を成長させることが出来、教会の成長をも見ることができるのです。

 三、人々に神の愛を示す

 第三に、教会は、神の愛を人々に示すことによって「母なる教会」となることができます。聖書は、神を「父なる神」と呼んでいます。不幸にして、父親から十分な愛情を受けることができなかった人は、神を「父」と呼ぶのに抵抗を感じるかもしれませんが、本来、「父」ということばには、偉大で、威厳に満ちた神、というだけでなく、神が大きな愛で人間を愛しておられることを教えています。神ほど、偉大なお方はなく、また同時に、きめ細かな愛に満ちたお方はありません。聖書は、神を「父なる神」と呼びながら、同時に、まるで母親のような愛で、私たちを愛してくださると教えています。イザヤ49:15に「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」ということばがあります。ガラテヤ4:19には「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」とあります。これは使徒パウロのことばです。パウロは男性なのに「産みの苦しみ」ということばを使っていますが、それによって彼の真実な教会への愛を言い表わしています。このことばは直接神のことばではありませんが、パウロの教会への愛は、神の愛から出たものであって、神もまた、私たちのために「産みの苦しみ」をするほどに、愛を注いでいてくださっているのです。神の愛には、母の愛に似たものがありますが、神は「母なる神」とは呼ばれません。神は、神の愛の、母親のような側面を、「母なる教会」に託し、それを人々に示すようにと願っておられるのです。

 みなさんは、父親に厳しく叱られた時、母親にとりなしてもらって、父親にあやまり、ゆるしてもらったという経験があると思います。現代の子育ての教科書は、「両親は同じ方針で子どもを育てなければならない。」と教えていますので、父親が厳しく叱ったら、母親も同じように叱らなければならないと勘違いしている人もいるかもしれません。しかし「母親のとりなし」というのは、父親の方針に背くものではありません。父親は、厳しく叱りながらも、同時に、子どもを赦し、受け入れたいとも願っているのです。そして、そのきっかけを、母親に作ってほしいと願っているのです。母親のとりなしは、父親の思いの一部で、父親と母親は、役割分担をしながら、子どもを導いているのです。私は、ある父親が「子どもを叱りながら、早く、家内が仲裁に入って欲しいと願っていました。」と書いた文章を読んだことがあります。父なる神も、それと同じように、教会に、人々のためにとりなしの祈りをささげ、悔い改める者に赦しを与え、気落ちしている人を励ますという、つとめを求めておられるのです。教会は、人々を受け入れ、暖めていくことによって、神の豊かな愛を人々に示していくのです。

 このような「母なる教会」をつくりあげていくには、男性の働きは、もちろんですが、女性の祈りや働きがなによりも必要です。神は女性に、教会を「母なる教会」にしていくための賜物を、男性以上に多く与えておられると思います。実際、どこの教会でも、若い人たちにまるで母親のように慕われている姉妹がいて、教会が、神の愛に満たされるために働いてくださっています。ある教会のMさんという方は、牧師の娘で、父親を長崎の原爆で亡くしました。原爆を落したアメリカを憎んでいたのですが、なんと、アメリカ人と結婚して、アメリカで生活するようになったのです。Mさんには、子どもがありませんでした。ですから、「母の日」にはすこしさみしい思いもしたと言っていましたが、若い姉妹の肩を抱いて、「でも、私には霊的な娘がいっぱいいるから、大丈夫です。」と明るく話してくれました。Mさん自身も、父親を捜して、爆心地を歩き回ったため、被曝し、そのために健康を損ねることもあるのですが、いつも、若い姉妹たちを笑顔で歓迎し、ほんとうに優しい気持ちで世話をしていました。Mさんを通して導かれた方々は、ご主人の転勤などで、各地に行きましたが、それぞれの場所で、ある人は執事となり、またある人は教会の良い奉仕者となり、またある人は家庭集会を開いてまわりの人々に伝道するようになっています。教会に母親のような暖かさや優しさを与えることができるのは、このような姉妹がたです。特別なことが出来なかったとしても、ひとりびとりを受け入れ、心にかけて祈り、愛の手をさしのばす、そのことによって教会は、神の子どもを産みだし、養い、育てていくという使命を果たすことができるのです。母なる教会をつくりあげていくために、兄弟がたの働きとともに、姉妹がたの心づかいや暖かさが必要です。いままでも、そのために励んでくださいましたが、霊的な子どもたちを産み、育て、教会を通して神の愛を示していくという、この素晴しい働きのために、もっと用いられようではありませんか。そこには産みの苦しみがあるかもしれません。しかし、人々が救われる時、信仰に成長する時、その苦しみは喜びに変わり、かならず報われるのです。母なる教会の霊の母となるその喜びにあずかりましょう。

 (祈り)

 神さま、母の愛に感謝するこの日の礼拝をありがとうございます。あなたは、母の優しさ、暖かさを通して、私たちにあなたの愛を教えてくださいました。そのように、私たちの教会を、人々がここであなたの愛を感じ取ることのできるところとしてください。「教会を母とするのでなければ、神を父とすることはできない。」と言われているように、神の子どもたちが、教会を大切にし、そのことによって、みことばに養われ、この曲がった時代の中でもあなたの栄光を表わすものとしてください。キリストのお名前で祈ります。

5/9/2004