教会の宣教

使徒2:37-39

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2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

 「伝言ゲーム」というのがあります。みなさんもこのゲームをしたことがあるかと思いますが、一組5〜6人のグループを作り、お互いの声が聞こえないように、ひとりひとりを離れて並ばせます。ゲームのリーダが各グループの先頭の人だけを呼んで、あるメッセージを口頭で伝えます。先頭の人はそれを良く覚えていて、次の人の耳元でささきます。次から次へと伝えていき、各グループの最後の人がどんなメッセージを聞いたか発表するのです。たいてい、とんでもないメッセージに変わってしまっています。たとえば、「秀子さんが美容院に行って、石井さんに、もうちょっとカットしてくださいと言った」がもともとのメッセージだとすると、「秀雄さんが病院に行って、医者に、盲腸を切ってくださいと言った」というふうになってしまいます。このゲームで賞品をもらうのは、メッセージが正確に伝わったグループよりも、メッセージがおもしろく変わったグループのほうです。ゲームでは、メッセージがとんでもないものに変わっても、ただ面白いだけで済みますが、これが命にかかわるようなことなら、伝言していくうえで決してミスティクはゆるされませんね。医療の世界でのミスティクの多くは、コミュニケーションのミスティクだと言われていますが、大切なことほど、正確に伝えられなければなりません。けれども、ものごとを正確に伝えることはなかなか難しいものです。私たちの教会にも緊急の場合の電話連絡網があります。ある連絡どで、「出来る人があればリフレッシュメントをお願いします。」というメッセージが「かならずリフレッシュメントを持ってきてください。持ってこない人は来てはいけません」などに変わってしまって、とまどった人もあったと聞いています。ではEメールなら、文字でメッセージが伝わりますから、間違いがないかといえばそうでもなく、文章を注意深く読むよりも、目についた語句だけを読んで判断してしまうことがあり、真意が十分に伝わらないこともあります。伝える側も、受け取る側も気をつけなければいけませんね。

 イエス・キリストが教会に与えてくださったメッセージは、世界の救いにかかわる重大事であり、私たちの永遠の命にかかわる真剣なものですから、教会はそれを正しく伝えていく責任があります。メッセージを伝える方法は、時代とともに変わっていくでしょうが、伝えられるメッセージの内容は決して変わってはならないのです。その変わってはならないメッセージとは何でしょうか。ルカ24:46-47を見ますと、キリストが天にお帰りになる前に弟子たちに残したことばがあります。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」教会が人々に伝えなければならないメッセージは、キリストの十字架と復活のメッセージ、悔い改めのメッセージ、そして、罪の赦しのメッセージだということが分かります。今朝の聖書の箇所は、ペンテコステにペテロが語ったことばの一部分ですが、これをルカ24:46-47と比べてみますと、ペテロが、キリストが言い残されたとおり、キリストの十字架と復活、悔い改め、そして罪の赦しのメッセージを忠実に語っているのがわかります。このように教会は、キリストが教えたオリジナルのメッセージを忠実に伝えてきました。神と神の約束は変わることはありません。ですから、私たちも、どんなに時代が変わっても、このメッセージをしっかりと理解し、正しく信じ、正確に伝えていかなくてはならないのです。

 一、十字架と復活のメッセージ

 最初に、十字架と復活のメッセージについてみておきましょう。十字架は聖書のメッセージの中心です。教会は常に十字架のメッセージを語り続けてきました。しかし十字架のメッセージは必ずしも人々に歓迎されませんでした。人々は「キリストが救い主なら、なぜ十字架の上で死ななければならなかったのだ。十字架の上で『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫んで死んでいった人を信じていったい何になるというのだ」と、キリストの十字架を無力なものとし、それを信じるのは愚かだと考えました。今も、多くの人がそのように考えています。それは、十字架の意味を知らないからです。ペテロは十字架の意味を、次のように解き明かしています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロ第一2:22-25)キリストは私たちの罪を背負い、私たちの身代わりに神の刑罰を受けてくださいました。キリストは弱々しく息絶えたのでなく、勇敢に苦しみを耐え忍び、救いを、罪のゆるしを、永遠の命を、私たちのために勝ち取ってくださったのです。キリストは十字架の死によって、人類の最後の敵である死を滅ぼされたのです。十字架には、神の力が示されているのです。

 使徒パウロはコリント第一1:22で「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します」と言っています。「しるし」というのは奇跡や超自然的な出来事、あるいは現実の生活の中に目に見える形であらわれるご利益のようなもののことです。「知恵」というのはすべてのものを人間の理性だけで説明し、人間が主人公の世界をつくりあげようとすることです。しるしと知恵、それは、紀元一世紀のユダヤ人やギリシャ人だけでなく、いつの時代のどこの国の人も追い求めているものです。使徒パウロは奇跡を行う力を持っていましたし、ギリシャの哲学者たちを向こうにまわして堂々と議論できる知恵を持っていました。けれども、パウロはキリストの十字架を語り続けました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力」(コリント第一1:18)だからです。人間の根本的な問題は、罪にあり、それを解決できるのはキリストの十字架以外にないからです。しるしや知恵は罪の問題を解決することができません。もちろん、神は今も、奇蹟をなさるお方であり、あらゆる知恵に満ちたお方です。しかし、しるしはやがて過ぎ去っていき、知恵もまたすたれていきます。教会は、人目を引くしるしでも、人々を喜ばせる知恵でもなく、十字架のことばを伝えます。ここにこそ、神の力、神の知恵が示されているからです。

 キリストの十字架に続いてペテロが語ったのは、キリストの復活です。イースターにお話ししましたように、聖書と、空っぽの墓、復活のキリストとの出会い、そして、弟子たちの変化が復活を証明しています。私たちは、使徒たちや初代のクリスチャンたちのように、復活のキリストに直接出会うわけではありません。キリストの復活は数多くの証拠によって確かなものですが、なお「見ないで信じる」のです。しかし、見ないで信じるというのは空虚なものを信じるとか、捕らえどころのないものにより頼むとかいうことではありません。信じる者には聖霊がその心に住み、力となり、キリストは生きておられる、私と共におられる、私のうちにおられるという体験に導かれるのです。ペテロは、七週間前には、「自分はイエスの弟子ではない。イエスなんて人は知らない。」と三度も主を否定し、後悔にさいなまれていました。しかし、ここで、大胆にキリストの復活をあかししています。信じる者すべて、ペテロが体験したような、勇気や希望、平安を手にすることができるのです。ペテロは、すべてのクリスチャンに共通した体験をこう書いています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(ペテロ第一1:8-9)十字架と復活のメッセージは私たちにたましいと救いと、よろこびを与えるのです。

 二、悔い改めのメッセージ

 第二は、悔い改めのメッセージです。イエスは私たちのために十字架で死なれた。そして、私たちを救うために三日目に復活された、イエスは私たちの救い主、私たちの主であるとペテロが語ると、「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37節)とたずねました。その時、ペテロはためらうことなく答えました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」(38節)

 聖書のメッセージは、"DO" つまり、あれをしなさい、これをしなさいというメッセージではありません。それは "DONE" のメッセージ、つまり、私たちの救いのために必要なことはすべて、イエス・キリストが十字架の上でなしとげてくださったというメッセージです。良い行い、宗教的な修練、あるいはくわしい聖書の知識がなくても、人は救われるのです。私たちの側でしなければならないことはただ一つ、それは「悔い改め」と「信仰」です。今、私は「ただ一つ」と言いながら、「悔い改め」と「信仰」と、ふたつのことを申し上げましが、それは、悔い改めと信仰は、硬貨の裏表のように一体なので「一つ」と言ったのです。悔い改めのない信仰は本物ではありませんし、信仰のない悔い改め単なる後悔にすぎません。ペテロは、使徒1:38で「悔い改め」という言葉しか使っていませんが、この「悔い改め」という言葉は信仰もふくめた意味で使われています。

 しかし、悔い改めとは何でしょうか。それは自分の過去の失敗を嘆き悲しむことでしょうか。罪を悲しむことは大切なことでしょうが、どんなに自分の過去を嘆き悲しんでも、自分が神の前に罪人であることをしっかり認めるのでなければ、やがて感情が冷めれば「もとの木阿弥」になってしまいます。悔い改めはギリシャ語で「メタノイア」と言い、それには「考え方を変えること」という意味があります。聖書の教える悔い改めは感情的なものだけでなく、理性的なものでもあるのです。また、悔い改めには「方向転換」をするという意味もあります。太陽を背にするなら、自分の目の前に見えるのは自分の影でしかありません。多くの人は神に背を向けて自分の暗い部分だけを見つめる生活をしてきました。しかし、そこから回れ右をして、神に向かうなら私たちの生活は神の光に照らされたものになるのです。この意味では、悔い改めは、意志的なもので、行動を伴うものだということもわかります。ルカ15章に出てくる放蕩息子は、遠い町に行き、そこで父親の財産を全部使い果たし、食べるものさえなくなりました。窮地に立たされた時、彼は自分が惨めな者であることを認めました。そして、父親にわびようと決心したばかりでなく、そこから立ち上がって家に帰っていきました。私たちも、放蕩息子がしたように、自分の惨めさを悲しむだけでなく、本当の問題が自分の罪にあることを認め、キリストを信じ、神のもとに帰っていく第一歩を踏み出そうではありませんか。

 では、悔い改めは、イエス・キリストを信じた時だけのもので、その後はいらないものなのでしょうか。そうではありません。宗教改革者ルターは、「私たちの主イエスが『悔い改めよ』と言われた時、主は、私たちの生涯のすべてが悔い改めであることを望まれたのである。」と言っています。クリスチャンの生活は、最初の悔い改めから始まって、その後もその悔い改めが深まっていくものなのです。クリスチャンになって、悪いことをしなくなったからもう悔い改めがいらなくなるというのではありません。旧約聖書のヨブは、正しい人でした。友人たちは、ヨブが大変な苦難にあった時、「それはおまえの犯した罪のせいだ。」と責めたのですが、ヨブは、そういう意味での罪を犯してはいませんでしたから、決して友人たちに降参せず、自分の信念を貫き通しました。ところが、ヨブは、神の声と神のことばを聞いた時、「私は…ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ42:6)と言って悔い改めています。ヨブは一体何を悔い改めたのでしょうか。友人たちの言うように、ヨブに隠れた大きな罪があったのでしょうか。そうではありません。ヨブは潔白でした。ブは、友人たちよりも正しく、またすぐれてはいました。しかし、ヨブは、あまりにも自分を主張しすぎました。神の主権の前にひれ伏す思いが欠けていました。ヨブが悔い改めたのは、自分には間違いはないという高慢の罪でした。悔い改めの基本はそこにあります。主イエスも、マタイ18:3,4で、小さいこどもを弟子たちの真中に立たせて「…あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。…この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」と教えました。悔い改めることと、へりくだることが同じ意味で使われています。信仰に成長すればするほど、神の偉大さを知り、神の偉大さを知れば知るほど、私たちはもっとへりくだっていくはずです。きよい神に近づけば近づくほど、自分の汚れがよく分かり、さらに悔い改めへと導かれるはずです。たとえ神の恵みの中に大きな罪から守られていたとしても、神の前にへりくだるという意味での悔い改めを重ねていく必要があります。悔い改めは神の恵みのひとつです。「日々、悔い改める恵みを与えてください。」と祈りましょう。

 三、罪の赦しのメッセージ

 第三は罪の赦しのメッセージです。悔い改める者には赦しが約束されています。キリストの赦しは、私たちの過去の過ちを帳消しするだけでなく、私たちを神の前に正しい者とし、神の子とするものなのです。聖書は、罪を借金にたとえていますが、キリストによって罪を赦された者は、借金を免除されただけでなく、使い切れないほどの財産を与えられているのです。キリストはその死によって私たちの罪の負債をすべて払ってくださったばかりでなく、私たちのために神の義と祝福という遺産を残してくださったのです。ペテロが「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(38節)と言ったように、この赦しは、罪を悔い改め、キリストを信じた時に与えられ、バプテスマによって確かなものとなり、聖霊によって日ごとに体験することができるのです。

 ペテロはさらに言葉をつないで「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(39節)と言っています。このことばの意味を理解するには、少しさかのぼって、人々がイエスを十字架につけろと叫んだ時のことを思い出してみる必要があります。総督ピラトは、人々の執拗な要求に対して、手を洗い、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と言いました。すると民衆はみな「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と言い切ったのです(マタイ27:24-25)。ところが、ペンテコステの日にペテロは「この約束は、あなたがたと、その子どもたち…に与えられている。」と言って、神の御子を十字架につけた罪さえも赦される、キリストの救いと祝福の約束は、「子孫までものろわれても良い」と言ったその子孫にも及ぶと言っているのです。罪の赦しは、のろいをさえ、祝福に変えるものです。それは、マイナスをゼロに変えるだけではなく、マイナスをプラスに変える力を持っています。多くの人は、こどもの頃に受けた心の傷が今もいやされずに悩んでいます。若い時の失敗から立ち直れないでいる人もいます。「いつまでもそんなことにこだわっていてはいけない。」と分かっていながら、そうしたものを断ち切る力を見つけられないでいます。マイナスを少しでもゼロに近いところに持っていこうとするのですが、その努力は徒労に終わってしまうのです。しかし、キリストを信じる者にはマイナスをゼロにするだけでなく、マイナスをプラスにする恵みを与えられます。罪の赦しの中にそのすべての恵みがあります。罪の赦しを自分のものとする時、人は過去から解放され、現在を喜び、将来に希望を持つことができるようになるのです。これは、どんな財産にも、また栄誉にも比べることのできない恵みです。

 39節にある「すべての遠くにいる人々」とは、まことの神から遠く離れていた、私たちのことをさします。私たちは、霊的には、異邦人であって、まことの神も、イエス・キリストも知りませんでした。しかし、そんな私たちにも、福音が届けられ、神を知り、イエス・キリストへの信仰を与えられました。すべての人はキリストの十字架と復活、神への悔い改めとキリストへの信仰によって、罪の赦しを、聖霊をいただくのです。この神の約束をまだ、受け取っておられない方はありませんか。今、悔い改めと信仰をもって受け取りましょう。すでに、この約束をいただいている者たちは、その約束から来る祝福をもっと豊かに味わうことができるように祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神様、今朝も十字架と復活のメッセージ、悔い改めと罪の赦しのメッセージを聞くことができ感謝いたします。あなたを求めて礼拝に集っておられるおひとりびとりが、このメッセージによって救われ、導かれ、つくりかえられていくことができますように。また、このメッセージによって救われた者たちが、このメッセージをさらに確信し、これを体験し、人々に伝えていくことができますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。



5/2/2004