風と火と言葉

使徒2:1-6

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2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

 ペンテコステの日、イエスが約束した通り、聖霊が弟子たちに降りました。聖霊ご自身は目に見えないお方ですが、ペンテコステの日には、目に見える「しるし」によって、ご自身を現しました。その「しるし」は三つ、「風」と「火」と「言葉」でした。なぜ、この三つが選ばれたのでしょうか。それぞれにはどんな意味があるのでしょうか。きょうは、そのことをご一緒に考えてみましょう。

 一、風

 最初の「しるし」は「風」です。2節に「激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った」とあります。人々は「ゴォー」という風の音を耳にしました。聖霊は「風」としてご自身を現しました。

 聖霊が「風」として描かれている箇所は聖書にいくつもあります。たとえば、創世記1:2です。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」とあります。「水の上を動く」というところは、英語では “the Spirit of God was hovering over the face of the waters” と訳されていて “hovering” という言葉が使われています。これは、ヘリコプターが地上に風を送って空中に停止している状態をいいます。古代の人は、この言葉から鳥がその翼をはばたかせ、風を送っている様子を想像したことでしょう。神の霊が送る風が世界を形造ったのですが、「霊」も「風」もヘブライ語では同じ言葉「ルアハ」が使われています。聖霊は世界を形造った「風」そのものでもあったのです。

 エゼキエル37章に枯れた骨の幻があります。エゼキエルが枯れた骨に預言すると、なんと骨が組み合わさり、人のからだが出来上がりました。しかし、そこにはまだ命がありません。それで神はエゼキエルに命じました。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」(エゼキエル37:9)すると、枯れた骨からできた人々は、生き返り、大集団となって立ち上がりました。ここでの「息」という言葉も「ルアハ」で、聖霊が人を生かすお方、命の与え主であることが分かります。

 聖霊は、人にからだの命だけでなく、霊の命を与えます。イエスが「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)と教えたように、人は罪の中に死んでいて、霊的な再誕生が必要です。しかし、人は自分の力でもう一度生まれ出ることができるのでしょうか。いいえ、できません。「生まれる」は英語では “is born” で、「受け身」の形で書き表します。ギリシャ語でも同じです。正確に言えば「生んでもらう」のです。誰に生んでもらうのでしょうか。こうした文脈で「受け身」が使われるとき、その「主格」は「神」です。神が、聖霊なる神が、罪に死んだ人を生かし、神の子どもとして新しく生んでくださるのです。聖霊が、罪のために神から与えられたものを失ってしまった私たちを新しく造りなおし、再び生かしてくださるのです。これを「新生」、「再生」、あるいは「ボーン・アゲイン」と言います。本物のキリスト者は、すべて、聖霊によって生んでいただいた「ボーン・アゲイン・クリスチャン」です。

 イエスはさらに言いました。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:8)イエスは聖霊を風にたとえました。風そのものは見えませんが、強い風が吹くと、風の音が聞こえ、木の枝が折れたり、いろいろなものが吹き飛ばされたりします。風そのものは見えなくても、風が吹いた後の結果は見ることができます。そのように、聖霊ご自身は見ることができなくても、聖霊の働きの結果は見ることができるのです。「ボーン・アゲイン・クリスチャン」は聖霊の力ある働きの目に見える結果です。

 昨年、ダラスで竜巻の被害がありました。私たちは強風に恐怖をいだきますが、聖霊が送ってくださる風は、竜巻や台風のように、破壊的なものではありません。ペンテコステの日、「激しい風が吹いてくるような響き」がありましたが、それは、多くの人に聞こえるためであって、実際の聖霊の風は、穏やかで、暖かく、人々を包み込むようなものでした。この日、イエスを信じてバプテスマを受けた人々が三千人起こされましたが、聖霊は、神の言葉とバプテスマによって、信じる者の中に命の息吹となって入り、人々を新しく生んでくださったのです。イエスが言われたように、人々は「水と御霊によって」新しく生まれたのです。ペンテコステのしるしのひとつ、「風」は、私たちを新しく生まれ変わらせてくださる聖霊の命を表しています。

 二、火

 ふたつ目のしるしは「火」です。3節に「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった」とあります。バプテスマのヨハネは、このことを「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」(ルカ3:16)と言って預言していました。ヨハネが言った通り、ペンテコステの日、弟子たちは「聖霊と火とのバプテスマ」を受けたのです。

 「火」というと、私たちは審判を連想します。バプテスマのヨハネも、さきほどの言葉に続いてこう言いました。「また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(ルカ3:17)「麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くす」というのは、収穫の時が来ると、麦と殻が区別され、麦は倉に納められ、殻は火に投げ込まれるということを言っています。これは、信仰の内実のある者は救いを、うわべだけのものしかない者は裁きを受けるということをたとえたものです。

 17節の「火」は「裁きの火」です。しかし、16節の「聖霊と火とのバプテスマ」という場合の「火」は違います。イエスは審判の時を世の終わりまで引き伸ばし、今の時代を恵みの時代とし、私たちに救いの手を差し伸ばし、悔い改めの機会を与えてくださっています。聖書には「焼き尽くす火」という表現があって、火の恐ろしさが描かれていますが、ペンテコステに現れた「火」は弟子たちをも、人々をも焼き尽くしはしませんでした。静かに、しかし、力強く燃え続けていました。それは人々の心を照らし、温める火でした。「聖霊と火のバプテスマ」という場合の「火」は、聖霊が「火」のように力強いお方であり、人々に信仰の力や霊的な能力を与えてくださることを意味しています。実際、弟子たちは、聖霊によって様々な国の言葉を流暢に語る能力を与えられました。エルサレムといえば、イエスを十字架につけたユダヤの指導者たちの本拠地ですが、弟子たちは、そのどまんなかで「あなたがたはイエスを十字架につけて殺したが、イエスは復活して、生きておられる」と証ししたのです。その勇気や知恵、力は聖霊からのもので、聖霊によらなければ、誰一人そんなことはできません。「火」は聖霊の力を表しています。

 三、言葉

 第三のしるしは「言葉」です。聖霊は「炎の舌」となって現れました。「炎の舌」というのは、炎の先がいくつもに別れ、メラメラと動く様子が、人が喋る時に動かす「舌」のように見えるところから生まれた表現です。ヤコブ3:5に「同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします」とあるように、「舌」は「火」にたとえられています。最近、SSN への非難中傷の書き込みを苦にして自殺した人のことが報道されていました。たいへん痛ましい事件です。こういうのを「指先の殺人」というのだそうです。指先を使ってタイプした言葉が人を殺すのですから、恐ろしいことです。ヤコブは、「舌」、つまり、言葉の持つ破壊的な力について、二千年も前から警告を与えています。

 しかし、ペンテコステの時の「炎の舌」は違います。聖霊が与える言葉は、人を痛めつける言葉ではなく、人を生かす言葉です。弟子たちは「神の大きなみわざ」(使徒2:11)を語りましたが、それは神への賛美の言葉でした。人は聖霊に満たされるとき、その口から、おのずと、神への賛美の言葉が生まれ出るのです(エペソ5:18-19)。

 しかも、それは、さまざまな国の言葉で語られました。使徒2:9-11には、パルテヤ、メジヤ、エラム、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポント、アジヤ、フルギヤ、パンフリヤ、エジプト、クレネとリビヤ、ローマ、クレテ、アラビヤなど、すくなくとも15の地域があげられています。当時の中東世界をほとんどカバーしています。こののち、ペテロが説教したのですが、ペテロの説教も、さまざまな言葉に即座に通訳され、人々は自分の言葉でそれを聞き、理解したことでしょう。

 このことは、福音が「全世界に」(マルコ16:15)、「あらゆる国の人々に宣べ伝えられ」(ルカ24:47)、「あらゆる国の人々」がイエス・キリストの弟子となる(マタイ28:19)ことの予告でした。イエスの言葉どおり、福音は、わずか一世代、40年のうちにローマ帝国のあらゆる地域に宣べ伝えられました。

 創世記11章に「バベルの塔」のことが書かれています。古代には、人々はひとところにかたまって住んでいて、ひとつの言葉しかありませんでした。世界が共通語で結ばれているのは一致団結に役立つことですが、人々は、一致団結して何をしたかというと、神に逆らったのです。それで神は人々の言葉を乱し、人々を各地に散らしました。そして、各地に散らされることによってさらに言語が細かく分かれていきました(創世記11:9)。このため、人々は通訳がなければ、互いの言葉がわからなくなってしまいました。また、人々は互いの言葉が通じなくなっただけでなく、神からの語りかけを聞きくことができなくなりました。神の言葉を失ったのです。それ以来、人類は神とのまじわりを失い、互いのコミュニケーションがうまくいかなくなったのです。これは「バベルの呪い」と言われます。

 しかし、ペンテコステの日、聖霊はこの「呪い」を取り除いてくださいました。聖霊は、使徒たちを通して人を救う神の言葉を聞かせてくださいました。神の言葉がさまざまな国や地域の言葉で語られることによって、聖霊は、さまざまな国の人々をひとつの神の民、神の家族として結びあわせてくださったのです。私は日本にいたときも、様々な国々からのクリスチャンに出会いました。互いに不自由な英語で話すのですが、時には、日本人と日本語で話しているよりももっと意気投合できたことがありました。アメリカにきて英語がよく話せなくても、日本で親しんできた賛美を歌い、聖書のメッセージを聞くとき、言葉の壁がなくなっていくのを体験してきました。それは聖霊の恵みでした。

 ペンテコステの第一のしるしは「風」で、命の与え主である聖霊を、第二のしるしは「火」で、力の与え主である聖霊を、第三のしるしは「言葉」で、神とのまじわりを与えてくださる聖霊を表していました。命も、力も、そして神と互いとのまじわりも、私たちになくてならないもの、私たちが求めてやまないものです。ペンテコステの三つのしるしは、そうしたものすべてが、聖霊から来ることを教えています。ペンテコステの日、ペテロはその説教のしめくくりでこう言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)ペテロは、信じる者は、聖霊がくださるさまざまな賜物を受けるだけでなく、そうした賜物の与え主である聖霊ご自身を、神からのギフトとして受けると言っているのです。どんな賜物よりも、賜物の与え主のほうが優れていることは、言うまでもないことです。神は私たちに常に、最高、最善のものをお与えくださるお方です。神は聖霊ご自身を私たちに与えることによって、聖霊が与える命を、力を、まじわりの恵みを注ぎ続けてくださるのです。ペテロの説教を聞いて信じ、バプテスマを受けた三千人は聖霊を受け、新しい命に生かされ、霊的な力に満たされ、神とのまじわりを喜びました。私たちもこの人々に続きたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま。聖霊がくださる命、力、また、まじわりを心から感謝します。まだイエス・キリストへの信仰とバプテスマに至っていない方々をそこに導いてください。すでに聖霊を受けた者たちを、聖霊がくださるあなたとのさらに深いまじわりに導き、あなたの言葉を、聖霊によって証しする者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/31/2020