ひとりびとりの上に

使徒2:1-4

オーディオファイルを再生できません
2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

 一、聖霊と神の言葉

 ペンテコステは、ユダヤでは「シャブオット」と呼ばれ、「過越」、「仮庵」の祭りとともに盛んに祝われる祭りです。これは、過越から七週後、つまり、「五十日目」に行われますので、ギリシャ語では数字の「五十」を表わす言葉を使って「ペンテコステ」と名付けられました。この祭りが行われるころは、小麦の収穫が始まるときで、この祭りでは小麦の初穂を神殿に捧げ、収穫を神に感謝します。使徒行伝2章にあるペンテコステの日にも、各地からの巡礼者で、エルサレムはたいそう賑やかだったことでしょう。

 そんなエルサレムに、一箇所に集まり、心を合わせて祈りに専念している百二十人の人たちがいました。百二十人というのは、ある程度の数ですが、祭りのときには、そのくらいの巡礼の一行がエルサレムのここ、かしこに滞在していましたので、とくに目立ったわけではないと思います。ところが、ペンテコステの日の朝の九時、この人々はエルサレム中の人々の注目の的となりました。この人々とは、イエス・キリストの弟子たちで、彼らに聖霊が降り、この日、三千人の人々が福音を聞き、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けました。ペンテコステで小麦の初穂がささげられるように、この日救われた三千人は、まさに、神の国の収穫の初穂として、神にささげられたのです。

 使徒行伝は、聖霊が「風」と「炎」を伴って弟子たちに降ったと伝えています。それは、バプテスマのヨハネがすでにそれを予告していた通りです。「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)聖書の言葉では「風」も「霊」も同じ言葉を使いますので、「風」は聖霊とその働きを表わし、聖霊が人を生かすお方であることを示しています。神が人を創造されたとき、神は「命の息をその鼻に吹きいれられ」、「そこで人は生きた者とな」りました(創世記2:7)。そのように、聖霊は「キリストのからだ」である教会に命の息吹を吹きこまれ、教会を生かしておられるのです。聖霊によって生かされていない教会は、命のない形ばかりのものになってしまいます。

 次に「炎」はきよめを表わします。金や銀は火にかけられ、精錬され、より純粋なものにされます。イエス・キリストの血によって贖われた教会は、金や銀よりも尊いものなので、聖霊は、教会を聖なるものとするために、その炎で精錬してくださるのです。母親は、子どもを生んでその役割を終えるのではなく、生まれた子どもが一人前になるまで、苦労して育てます。同じように聖霊も、教会を生み出すだけでなく、教会を養い、教え、導き、力づけ、教会を聖なるものとしてくださるのです。わたしたちは、聖霊の息吹と炎を、教会の中に、いつも持っていたいと思います。

 使徒行伝は、さらに、聖霊が「舌」の形をして弟子たちの上にとどまったと言っています。「舌」というギリシャ語は、英語でもそうですが、「言語」を表わします。3-4節に「また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」とあるとおり、聖霊が「舌」の形で現れたのは、弟子たちが、様々な言葉で語り出したことと関係があります。弟子たちのところには、それぞれ別の言葉を話す、少なくても15以上の地域の人たちがやってきました。外国で自分の国の言葉を耳にすると、やはり、そちらのほうに心が向かいます。聖霊は、さまざまな国から来ていたすべての人々に神の言葉を聞かせるため、弟子たちに、様々な国の言葉を流暢に語る賜物を与えたのです。これは、神の言葉が、やがて世界中のどの国の人にも宣べ伝えられるようになることを示す「しるし」でした。

 アメリカでは英語以外に十万人以上の人が話している言語が25もあります。2015年の統計によると多い順で次のとおりです。スペイン語、中国語、フランス語、タガログ語、ベトナム語、ヒンドゥー語(インド北部の言語)、アラビア語、韓国語、ドイツ語、ロシア語、ポルトガル語、イタリア語、ポーランド語、日本語、ペルシャ語、グジャラート語(インド・グジャラート州の公用語)、タイ語とラオス語、ギリシャ語、セルビア・クロアチア語、アルメニア語、モン語(中国・ベトナム・ラオス・タイの山岳地帯に住むモン族の言葉)、クメール語(カンボジアのクメール人の言語)、ヘブライ語、ナバホ語(アメリカ先住民の言語)、スカンジナビア語です。アメリカの諸教会は、英語以外のこうした言葉での伝道に力を注いでいます。聖霊はペンテコステの日ばかりでなく、今も、さまざまな国の言葉で人々に神の言葉を語りかけていてくださるのです。それは、人々が自分の言葉で神の言葉を聞いて救われるためです。聖霊は、どこの国の、どんな言葉を話す人にも、神の言葉を聞くことを願っておられるのです。

 聖霊が働らかれるとき、いつも、ペンテコステの時のような、「風」や「炎」、また「舌」という「しるし」が伴うわけではありません。習ったこともない言葉を、突然、流暢に話せるようになるわけでもありません。そうであったら、どんなにいいだろうと思いますが、実際のところ、わたしたちの礼拝でのメッセージの通訳は、聖霊の助けをいただきながらですが、何人もの人たちが時間をかけて準備し、苦労しながらやっています。また、わたしたちは、興奮したり、感動したりすると、それを聖霊の働きだと言うことがありますが、そのすべてが、聖霊の働きとは限りません。聖霊は、わたしたちに神の言葉を聞かせるため人間的な興奮を鎮め、静けさに導く場合も多いのです。悔い改めに導くために、聖なる悲しみを与えることさえあるのです。大切なことは、「しるしや不思議」ではなく、神の言葉に導かれることです。

 ペンテコステの日に聖霊がなさったことは、人々を神の言葉に導くことでした。人々は「しるし」を見て集まってきましたが、最終的には、キリストの十字架と復活の福音を聞きました。そして、イエス・キリストの十字架と復活が自分のためであったと分かり、悔い改め、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けました。聖霊はわたしたちを神の言葉に導き、悔い改めと信仰へと招いてくだいます。人々が御言葉を聞き、それによって悔い改めと信仰に導かれていく、これが聖霊の働きの、今も変わらない「しるし」です。

 聖霊がわたしたちに語りかけようとしておられるのは、わたしたちを救い、生かす「神の言葉」です。礼拝でそれを聞く時、日本語であれ、英語であれ、「自分が知っている言葉を聞くことができて良かった」ということで満足するのでなく、そこで語っておられる神ご自身の、自分への語りかけをしっかりと聞きとり、それに答えることが大切なのです。「わたしを神の言葉へと導いてください。それを分からせてください」と祈りながら、礼拝に臨み、聖書に向かいたいと思います。聖霊によって神の言葉に導かれたいと思います。

 二、聖霊と個人

 さて、次に、注目したいのは、3節の中にある「ひとりびとりの上に」という言葉です。そこには、「また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」とあります。

 ペンテコステの出来事を聖書から見ていくとき、聖霊が、信じる者たちの集まり、つまり、教会の中で働かれたことが分かります。主イエスが天に昇られてから、それまであちらこちらにいた弟子たちはひとつところに集まり、「心を合わせて」祈りに専念しました。聖霊が降ったのは、心を合わせて祈っていた、この集団に対してでした。使徒2:1にあるように、「みんなの者が一緒に集まっている」、そのさなかに聖霊が降り、「一同」が聖霊に満たされたのです。

 使徒2:42には、ペンテコステの日にイエス・キリストを信じた者たちは「使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた」とあります。教会は世界の各地に広がっていき、ユダヤ人だけで始まった教会は、ユダヤ人と異邦人がまざった教会へ、また、異邦人だけの教会へと変化していったのですが、教会は、常に、「使徒の教え」と「パン裂き(晩餐式)」を守り、ともに「祈り」合う群れ、「信徒のまじわり」であり続けてきました。

 コロサイ3:16に「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい」とあるように、使徒たちは、「互いに」という言葉を使って、「信仰のまじわり」を表現しています。「愛をもって互につかえなさい」(ガラテヤ5:13)、「だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい」(ヤコブ5:16)といった言葉が、使徒たちの手紙の中に50箇所以上もしるされています。

 しかし、信仰のまじわりは、わたしたちが、集団の中に入って、そこに身を隠すためにあるのではありません。信仰は、互いに励まし合うことのできるものですが、それでも、ひとりびとりが神との確かな関係を持っていなければならないのです。ビリー・グラハムは「自転車を自動車と同じガレージに入れておいたからといって、自動車になるわけではない」と言いました。長年教会にいるから、親がクリスチャンであるとか、キリスト教的な環境の中にいるからといって、いつか時が来ればクリスチャンになるわけでもない、ひとりびとりがイエス・キリストを受け入れ、また、自分自身をイエス・キリストに任せるという決断が必要だと、ビリー・グラハムは言っています。

 ペンテコステの日にエルサレムに集まっていた百二十人は、「みんながそこにいるから、わたしも…」といった気持ちで集まっていたのではありません。他の人にくっついていれば、自分も聖霊を受けられると考えたわけでもありません。弟子たちひとりひとりは、ペンテコステを前に、主に従いきることができなかったことや主が復活されることを信じなかったことなどを悔い改めたことでしょう。ひとりびとりが約束の聖霊を待ち望みました。そして、その「ひとりびとり」の上に聖霊が降ったのです。

 ペンテコステの日にイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けた三千人も同じです。三千人がいちどにバプテスマを受けたというのは、「集団改宗」のように思われがちですが、そうではありません。ペテロは人々に向かって「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)と言って、「ひとりびとり」に信仰の決断を促しました。そして、三千人の「ひとりびとり」が自分自身でイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けたのです。

 ペテロは「…バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒2:38後半)と言いました。この日、バプテスマを受けたひとびりびとりもまた、聖霊を受けました。そして、聖霊によって、キリストに結びあわされ、キリストのからだである教会に加えられたのです。信仰の決断は、ひとりびとりがしなければならないことですが、イエス・キリストに結ばれた者は、同時に信仰のまじわりに加えられ、その中で信仰を養われ、導かれていくのです。

 ペンテコステという特別な日に、わたしたちが、こうして教会に集っているのは、決して偶然ではありません。聖霊は、ひとりびとりを信仰に導こうとして、わたしたちを集めてくださったのです。聖霊は、信じた者を御言葉の真理の深みへと導こうとしておられます。聖霊はわたしたちを神の言葉へと導き、神の言葉はわたしたちを聖霊によってキリストに従うことを教えます。この聖霊の招きにお応えしましょう。それが、聖霊に満たされるための第一歩となるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、ペンテコステの日に、弟子たちは御言葉を語り、人々は御言葉を聞いて信じ、受け入れました。あなたと御子イエスが遣われされた聖霊は今も、教会に、また、この世に働いておられます。こんにちも、人々が御言葉によってあなたに立ち返ることができますように。そのため、わたしたちが聖霊に信頼し、聖霊とともに働くことができますよう、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/4/2017