恐れないで

使徒18:9-11

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18:9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
18:10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。
18:11 そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

 一、恐れの原因

 コリントで伝道を始めたパウロに、キリストは「恐れるな」と語りかけました。聖書には「恐れるな」という言葉が何百回と出てきます。そのことは、私たちがどんなに多くの恐れを持ちながら生きているかを示しています。

 まず、私たちは、自然の災害を恐れます。テキサスは2月に寒波に見舞われ、今また熱波に見舞われています。寒波の時には電気が止まり、暖房が使えなくなって凍える思いをした人が多くいました。この暑さで電気が止まって、冷房が使えなくなったら大変なことになり、命にかかわります。ハリケーンやトーネイド、地震や山火事などでも、命が危険にさらされます。そうしたものを恐れるのは当然のことで、恐れの心によって自分の命を守ることができます。自然の災害に対しては早く避難して身を守ることが大切で、警報を無視して行動することは勇気あることではありません。私たちは、また、病気や事故や怪我を恐れます。そうしたものに対する恐れもまた、自分の身を守り、命を守るのに役立ちます。しかし、恐れがあまりに強くなると、心から平安が消えていきます。

 実際、新型コロナウィルスの感染が拡大して、生活に大きな変化が起こり、人々が「巣ごもり」状態に入ってから、心の病になる人が増えています。姿の見えない、ぼんやりとした恐れが、私たちの心を蝕んでいるのです。たいていの恐れは対象がはっきりしており、対象を特定できれば、それを解消する方法を見つけることができるのですが、対象のはっきりしない恐れは、それを解決するのが難しいのです。恐れという感情は、本来、私たちの命やからだを守るためにあるのですが、恐れの感情がコントロールできなくなって自分のからだを傷つけたり、命を絶ってしまうことがありえるのです。

 それに、社会があまりにも複雑になっていることも、恐れの原因の一つでしょう。SNSなどがなかった20年前には当たり前に人を信じてよかったのが、今では、何事でも疑ってかからなければならなくなり、個人情報が盗まれ、悪用されはしないかという心配や恐れが先に立つ時代になりました。

 また、私たちは、まだ起こっていないことを前もって心配し、恐れに囚われます。たとえば、会社で、これこれのところに行って、こういうプレゼンテーションをしなさいと言われた場合、「きちんと準備をしたから大丈夫」と自信をもって臨む人もあれば、「うまくいかなかったらどうしょう」とびくびくしながらの人もいます。それは普段の生活でも同じです。「うまくいかなったらどうしょう」と、絶えず恐れ、何事をするにも不安になる人も多いと思います。そして、その恐れや不安は、その人の能力とあまり関係がないようです。能力があって、何をしても上手にできる人なら、物事を恐れなくできるかといえば、かならずしもそうではありません。私の知っているある人は、何をするにも不安そうにしていました。他の人が「素晴らしかったですよ」とほめても素直に喜ばないのです。どうしてだろうと不思議に思っていましたが、その人と話してみて分かったことは、「自分は能力のある人間だ。もっとよく出来なければいけない。こんなレベルで褒められてもしょうがない」という、強い誇りがあって、周りから最高の評価を受けようとしていたのです。「自分は駄目だ」という思い込みも、「私ほど立派な人間はいない」という思い上がりも、結局は人を恐れに縛りつけることになるのです。

 二、恐れの解決

 では、どうしたら、無用な恐れから解放されるのでしょうか。心理学者たちは、「恐れは自分が他の人にどう評価されるかをあまりにも気にすることから起こるのだから、自分にこだわらないようにすればよい」と言います。しかし、人は、「人の間」で生きています。他の人と関係なく、ひとりで生きてはいけません。「あなたはいなくていい人だ」と言われ、自分も「私は誰からも必要とされていない」と思いこんだら、もう生きてはいけなくなります。人は、「私は必要とされている」ということが分かるとき、人生の意義を見出し、自分の力を発揮して生きることができるからです。

 そして、自分がかけがえのない存在であるということが分かるためには、私たち一人ひとりが神によって特別な者として造られていることを知る必要があるのです。私が信仰を持つようになったとき、最初に触れた聖書の言葉のひとつは、「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(詩篇139:13)でした。私は、「自分はなんのために生まれてきたのだろう」という漠然とした疑問を心の奥深くに持っていました。少年時代に母親を亡くしたことによって私は自分が生まれたルーツをもぎとられたように感じました。しかし、この聖書の言葉に出会って、私は母から生まれただけではない、神によって造られた者で、自分のルーツが神にあることを知りました。人は生物学的に生まれてくるだけではない、神によって造られ、生かされているということを知りました。人は分類学では「動物界、脊索動物門、脊椎動物亜門、哺乳綱、真獣下綱、サル目、直鼻猿亜目、ヒト上科、ヒト科、ヒト亜科、ヒト族、ヒト亜族、ヒト属」に属するもので、「ホモ・サピエンス」種だと言われます。まるで落語の「寿限無」のようですが、人間は「ホモ・サピエンス」以上の者です。神によって神のかたちに造られた存在なのです。

 ギリシャ語で「人」は「アンツローポス」と言い、これには「上を見上げる者」という意味があります。動物は地面を見ながら歩きますが、人間は直立して上を見上げて歩きます。神に造られた人間は、神を見上げ、神の祝福を受けて生きる存在なのです。私たちの安全も、私たちの価値も、すべて神にあります。神に生かされ、守られていることを知るとき、私たちは恐れから解放されます。神に愛されていることを知るとき、私たちは人の評価に一喜一憂する不安定な生活から、また、うぬぼれや高慢、自己卑下や自己憐憫から解放されるのです。

 神は言われます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:1-2)私たちを愛し、恵みと力とに満ちたお方が、私たちにそう語りかけておられるのです。このお方を知り、このお方に信頼するとき、私たちは恐れに代えて平安を受けることができます。

 イエスはこう言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)私たちにとって恐れるべきお方は神だけです。ほんとうの意味で神を恐れるとき、私たちは、一切の不必要な恐れから解放されます。歴史に名を残した信仰者たちは皆、何者をも恐れず、信仰のために戦いました。16世紀にメアリー一世が英国女王になり、英国の宗教改革を覆し、プロテスタントを迫害しました。王室の牧師であったジヨン・ノックスは彼女によって追放され、スイスやドイツに行きましたが、スコットランドに帰り、スコットランドの宗教改革に身を捧げました。歴史家たちは、ノックスについて「彼は神以外の何者も恐れなかった」と評価しています。

 三、パウロの恐れ

 パウロは、コリントに来たとき、恐れの中にありました。コリント第一2:3に「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました」と書かれています。パウロはなぜ、何を「恐れおののいて」いたのでしょうか。

 いくつかのことが考えられますが、ひとつは、ユダヤ人の迫害や伝道の妨害だったと思われます。パウロはどの町でも、何らかのトラブルがあって、短い期間にそこを去らなければなりませんでした。第二回目の伝道旅行では、ピリピの町で投獄され、そこを去りました。テサロニケでは、町のユダヤ人たちがならず者を集めて騒ぎを起こし、パウロがいたヤソンの家を襲いました。そこにパウロがいなかったため、ヤソンの一家がかわりに投獄されました。パウロはそこからベレヤに行くのですが、テサロニケのユダヤ人たちがパウロの後を追いかけてそこでも騒ぎを起こしました。パウロ自身はユダヤ人から石で打たれても、ローマ兵のむちを受けてもそれに耐えることができました。しかし、パウロのために、他のクリスチャンが苦しめられるのを見るのは、本当につらいことでした。パウロが語ると多くの人々が信仰を持ちました。しかし、パウロは信仰を持った人たちに、さらに信仰の真理を教えて、彼らを強める、そのための時間がないままに、次のところに行かなければなりませんでした。コリントに来たとき、果たして、この町で落ち着いて伝道できるのだろうかという恐れを持っていたのです。

 そんな彼にキリストは言われました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。」キリストは、このコリントの町では、ユダヤ人からの迫害や妨害、またその他の騒動からパウロを守ると約束してくださったのです。実際、コリントのユダヤ人も頑固でキリストを信じようとはしませんでしたが、会堂司が一家をあげてキリストを信じバプテスマを受けるなど、信仰を持つユダヤ人もいました。一年半の後、パウロがユダヤ人によって地方総督に訴えられるという事件が起こるまでの長い間、パウロはコリントの町に腰を据えて神のことばを教えることができたのです。

 第二に、パウロは、コリントに来たとき、孤独の恐れがありました。パウロは今まで、ずっと、シラスやテモテ、また、他の人々と一緒に伝道してきました。祈りあい、助け合い、励ましあって、チーム・ワークの中で働いてきたのです。ところが、アテネで落ち合うはずのシラスとテモテと会うことができず、パウロはたったひとりでコリントにやって来ました。コリントはギリシャ有数の商業都市で、人口の多い大都会でした。「孤独は山になく街にある」と言うように、パウロは、この大きな街に来て、より一層孤独を感じたのかもしれません。もちろん、パウロは神が共にいてくださることを信じ、また体験していました。しかし、パウロには同じ信仰と使命を持つ人々が必要でした。パウロは信仰の英雄でしたが、他の人との交わりや他の人の祈りや助けを必要としないような「孤高の人」ではありませんでした。彼ほど他の人とのつながりを大切にし、「私のために祈ってください」と言って、他の人に頼った人はありません。キリストを信じる信仰は、この世からかけ離れたものではなく、この世に生きる人々の中で働くものです。信仰がコミュニティの中に広がっていくためには、信仰者のコミュニティがどうしても必要なのです。

 キリストはパウロに「恐れないで、語り続けなさい。…この町には、わたしの民がたくさんいるから」と励ましてくださいました。「この町には、わたしの民がたくさんいる。」この言葉の通り、パウロは、コリントの町に入ると、すぐにアクラとプリスキラ夫妻に会いました。二人はローマにいたのですが、最近、そこからコリントにやってきたばかりでした。神が彼らをパウロに出会わせるため、またパウロが二人に出会うために両者をコリントに導かれたのでした。そのうち、シラスとテモテもやってきて、コリントで次々と人々が信仰に入り、信仰のコミュニティ、教会ができあがっていきました。神は、信じる者が共に神に近づき、神の恵みを得るために、教会というコミュニティを備えてくださったのです。この教会というコミュニティが私たちを取り囲むコミュニティに福音を伝えていくのです。

 日本人クリスチャンはあまり多くありません。クリスチャンであっても、そのことを言い表さない人もいます。それで、この町のどこに、キリストを信じる人々がいるのだろう? 果たして、どれだけの人が神の言葉に耳を傾けるのだろう? と思ってしまうこともあります。しかし、キリストは、「恐れるな」と語りかけ、励ましてくださいます。その励ましによって、神の言葉を語り続けていきたいと思います。神の言葉をもって、神の民を呼び集めたいと思います。

 (祈り)

 イエス・キリストの父なる神さま。私たちは、さまざまなことに落胆したり、混乱したり、むやみに恐れたりしやすい者です。そんな時、もう一度、あなたが私たちを愛し、守り、力づけてくださることを、御言葉によって確認し、その約束を信じて立ち上がり、前進できるよう、私たちを力づけてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/20/2021