まことの神

使徒17:22-27

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17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
17:23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 一、知られない神

 皆さんは「アテネ」と聞くと、何を連想しますか。「オリンピック発祥の地」でしょうか。れとともに、アテネは、プラトンやアリストテレスといった哲学者を生んだ哲学の都、学問の町として知られています。プラトンが建てた学園「アカデメイア」から「アカデミー」という英語ができました。そんなわけで、アテネの町の人たちは好奇心が旺盛で議論好きでした。使徒17:21に「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」とある通りです。現代の私たちも、本当に大切なことを忘れ、目新しいだけのものに心を奪われ、そのことに時間やお金を費やして人生を無駄に過ごしていないかという反省が必要かと思います。

 パウロがアテネに来たのは、この町で伝道するためではなく、迫害のためシラスとテモテと別れ別れになったので、そこでふたりを待つためでした。しかし、アテネの町が偶像に満ちているのを見て、パウロの心は痛みました。アテネにはわずかの間しか滞在しませんでしたが、まことを神を知らせたいという思いから、パウロは、町に出て伝道を始めました。

 パウロの話を聞いた人々は、彼を「アレオパゴス」に連れていきました。そこは公開の討論会場でした。パウロは、アレオパゴスに立って、こう語り出しました。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」(22-23節)パウロは、誰もが興味を持つようなことから話を始めました。

 アテネの町には、数多くの神々への祭壇が築かれていたのですが、その中に「知られない神」のための祭壇もありました。アテネの人たちは、自分たちが知っている限りの神々への祭壇を作って、それらを祀っていたのですが、「もしかしたら、自分たちの知らない神がいるかもしれない」と考えて、「知られない神に」という祭壇まで作ったのです。アテネの人の中にも、そうした祭壇があることを知らない人もいたでしょう。「知られない神に」という珍しい祭壇の話を聞いて、人々は興味をひかれ、パウロの話に耳を傾けました。パウロは、このことから始めて、「自分たちは何でも知っている」と自負していたギリシャ人に、「じつは、あなたがたにも知らないことがあるのです。あなたがたの知らない神を教えましょう」と言って、まことの神について語り出しました。

 現代の私たちは、古代の人々に比べれば、はるかに多くのことを知っています。ローマ時代の船といえば、奴隷たちが船底で櫓を漕いで進むものでした。それが、現代では月まで行くことができる船、宇宙船を作る技術を持つようになりました。ところが、私たちは「人は、なぜ、何のために生きるのか。どのように生きるべきか」を知らないでいます。「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」という、誰もが探求している問いへの答を持っていないのです。その答を知るには、人を造り、人を生かしておられる神を知らなければならないのですが、そのまことの神を知らないでいます。ここに人間の不幸の原因があるのです。皆さんは、神を知っているでしょうか。それとも、皆さんにとって、神は、依然として「知られない神」のままでしょうか。

 二、聖書の神

 そして、パウロは、神がどのようなお方であるかを語り出しました。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(24-25節)ここで言われていることは、聖書、とくに創世記にある通りのことです。創世記は「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」(創世記2:7)と教えています。人が「土地のちり」から作られたというのは本当です。人の身体を構成している元素のすべては土にあり、人は死ねば土に返ります。しかし、人は身体だけでできてはいません。人には魂があり霊があります。神が吹き込まれた「いのちの息」は、人の生物学的な命だけでなく、知性や感情や意志の場である魂、そして神と交わることのできる霊をも指しています。神は人にエデンの園を与え、そこにある豊かなもので人を養いました。パウロは、アレオパゴスではエピメニュデスやアラートスといったギリシャの著作からも引用して語りましたが、彼が語ったすべてのことは、聖書に基づいています。神は、ご自身を聖書の中に表しておられるのです。ですから、神を知るには何よりも聖書を読み、学ぶことが必要なのです。

 パウロは、続いて、こう言いました。「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」(26節)これは、神が人類と共にいてその歴史を導いておられることを言っています。神は、「創造の神」ですが、同時に、ご自分が創造されたもの、とりわけ、人を導かれる「摂理の神」でもあるのです。「摂理」は英語で “Providence” と言います。“Pro”(前もって)と“video”(見る)という言葉から来ています。神が、人々の必要を前もって見て、備えてくださるということです。聖書のさまざまなストーリーは、神が、「摂理の神」であることを教えています。それは創世記にあるヨセフの物語に見ることができます。ヤコブの子ヨセフは兄弟たちによってエジプトに奴隷として売られ、牢獄にまで落とされるのですが、そこから、エジプトの王に次ぐ位まで上りました。それで、その地方を襲った七年間の大飢饉の時、ヤコブの一族をエジプトに迎え、彼らを養いました。聖書は、ヨセフについて「主が彼とともにおられた」(創世記39:3、23)と言っていますが、神は見事にヨセフを導き、ご自分の民を守り、歴史を方向づけておられます。

 このように、神が人を特別なものとして創造し、常に人を心にかけておられるのに、人が神への礼拝を捨てて、金や銀、また石などを刻んでそれにひれ伏すのは、神に対して正しくないばかりか、人間を卑しめることにもなるのです。パウロは、ローマ人への手紙の中で、偶像礼拝について、こう書きました。「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」(ローマ1:22-25)同じことを、アテネの人々にはこう言いました。「そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」パウロは、神を知らないことと、そこから生まれる偶像崇拝を、決して小さなこととは見ていません。それは、人が第一に悔い改めなければならないことなのです。神を知ろうとせず、神を信じようとしないでいることは、大きな過ちです。そこからさまざまな不道徳や犯罪が生まれます。それは、最大の不幸です。しかし、神を知るなら、私たちは自分がどこから来て、どこへ行くのか、自分が何者であり、何のために、どのように生きるべきかを、はっきりと知ることができるのです。

 三、イエス・キリストの神

 パウロは続いてこう言いました。「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(31節)イエス・キリストについて語ろうとしました。ところが、人々はパウロが復活に触れると、あざ笑い、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言って、パウロの話を中断してしまいました(32-33節)。

 しかし、パウロに「つき従って信仰にはいった人たち」が幾人かいました。そのうちの一人は、なんと、アレオパゴスでの討論を聞いてそれを判定する「裁判官」でした。彼は、イエス・キリストについてパウロから詳しく聞き、イエス・キリストを信じる者となりました。「神が人となる」、「神の御子が十字架で死ぬ」、「死者が復活する」といったことは、ギリシャの哲学とは全く相容れないものでした。それなのにアレオパゴスの審判官がイエス・キリストを信じたのは驚くべきことでした。この人が、まことの神を知り、イエス・キリストを信じることができたのは、自分の知識を発展させたからではなく、人間の知識の限界を認め、神に対して悔い改めたからでした。神を知る最良の方法は、神の前にへりくだることです。「理解する」は “understand” と言います。神の下に身を置いてはじめて、私たちは神を知ることができるのです。

 アテネの人々は、パウロの話を知的エンターテーメントとして聞こうとしましたが、パウロはイエス・キリストを語ろうとしました。イエス・キリストによらないでは、まことの神を知ることができないからです。イエス・キリストを信じることがなければ、その人にとっての神は、生きたお方ではなく、理論上の神でしかありません。哲学の上での「神」は世界の存在や秩序を説明するために使われる「第一原因」でしかないのです。そのような神は、偶像と同じように、何の救いももたらしません。生きておられる、まことの神、イエス・キリストの神だけが、私たちに確かなものを与え、生かし、導いてくださるのです。

 パスカルは、こんな言葉を遺しました。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。
哲学者および識者の神ならず。
確実、確実、感情、歓喜、平和。
イエス・キリストの神。
<わが神、すなわち汝らの神>
汝の神はわが神とならん。
パスカルは神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼びました。聖書にある通り、アブラハム、イサク、ヤコブと共にいて、彼らにご自身を現し、その人生を導いてくださった生ける神を、彼は信じたのです。「生ける神」とは、人と共に生きてくださる神、人を生かす神です。パスカルは天才的な数学者であり哲学者でしたが、「神は哲学者や識者の神ではない」と言いました。人が神を知り、神を確信できるのは、知識の積み重ねや、天才的なひらめきによるのではない、イエス・キリストを信じる信仰によってだと言っています。神はイエス・キリストの神です。人となってくださった神、イエス・キリストだけが、人に神を知らせ、神と人とを結びつけてくださるのです。

 神は、決して「知られない神」ではありません。聖書によって、イエス・キリストによって、ご自分を表しておられます。アテネの人々は「哲学の神」しか知りませんでした。しかし、その中からもまことの神を知り、信じる人が生まれました。私たちも、自分の知識に頼らず、信仰によって神を求め、神に頼り、従う者でありたいと思います。

 (祈り)

 イエス・キリストの父なる神さま。人をご自分に近い者として造り、人と共にいてくださることを感謝します。聖書のうちに、また、イエス・キリストへの信仰によって、まことの神であるあなたを見出し、また、あなたを証しすることができますよう、私たちを助け、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/13/2021