あなたの家族も救われる

使徒16:28-34

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16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

 一、ピリピの町で

 きょうの箇所には、ピリピの町の牢獄の看守とその家族が救われたことが書かれています。この素晴らしい出来事を学ぶ前に、ここに至るまでのことを振り返っておきましょう。

 パウロの二回目の伝道旅行は、アンテオケから出発して、一回目に伝道したデルベやルステラの町々を再び訪ねました。ルステラは、パウロがそこで石打ちにされ、人々が死んだかと思ったほどの目に遭ったところです。人間的に考えれば、行きたくないところだったかもしれません。けれども、最初の伝道旅行の後、そこには教会ができており、パウロはそれらの教会を励ますためにそこを訪れました。パウロはこの町で青年テモテと出会い、彼を伝道旅行に加えました(1-3節)。

 パウロのガラテヤ地方での伝道は実を結びました。5節に「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った」とある通りです。それで、パウロは「アジア」と呼ばれる地域に伝道しようとしたのですが、この時は、聖霊によって禁じられ、道が開かれませんでした(6-7節)。それで、パウロの一行は西に進み、トロアスまでやってきました(8節)。トロアスはエーゲ海に面した町で、このエーゲ海はアジアとヨーロッパの境界、分岐点でした。トロアスの対岸はギリシャ半島で、その北部はマケドニヤでした。パウロはトロアスで、ひとりのマケドニヤ人が「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願している幻を見ました(9節)。アジアからエーゲ海を渡ってヨーロッパに行くというのは、パウロの最初の計画にはなかったことでした。しかし、神は、パウロを今までとは文化も習慣も異なる新しい地へと導かれたのです。アジアで道が開かれなかったのは、ヨーロッパに導かれるためだったのです。どこかのドアを閉ざされたからといって、それですべての道が塞がれたわけではありません。神は、神に信頼し、その導きを求める者に必ず進む道を開いてくださいます。

 実際、ピリピの町には、パウロを待っていた人々がいました。そのひとりがルデヤを始めとした神を敬う女性たちでした。パウロの一行は、ルデヤの家に滞在し、ピリピで伝道し、そこにヨーロッパで最初の教会が生まれました(11-15節)。この後、パウロとピリピの教会は固いきずなで結ばれます。そのことはピリピ人への手紙に詳しく書かれています。

 二、獄中の賛美

 あるとき、パウロとシラスがピリピで伝道していると、悪霊によって占いをしていた女奴隷がふたりの伝道を妨げました。それでパウロはこの人から悪霊を追い出しました。すると彼女は占いができなくなりました。このことは、「占い」が悪霊の働きであり、危険なものであることを教えてくれます。新聞や雑誌には、必ずといってよいほど、星占いなどの記事が載っています。「神を信じるなどというのは非科学的だ」といって信仰に反対する、いわゆる「進歩的」と言われるメディアが、そういうものを堂々と載せています。矛盾したことなのですが、誰もそれに気付いていません。私たちの人生を導いてくださるのは、私たちを愛してくださる神であって、運命ではありません。私たちの人生の導きは、この愛の神のみこころを知ることによって得られるのであって、占いによってではありません。占いは、人の将来を明らかにすることも、それを変えることもできません。かえって、人を恐れに縛りつけるだけなのです。

 占いをしていた女奴隷の主人は、彼女に占いをさせて金儲けをしていましたが、それができなくなったので、パウロとシラスを訴えました。二人は鞭で打たれ、牢に入れられ、鎖につながれました(16-24節)。鞭打たれた背中の傷がうずきました。しかし、その痛みは感謝と喜びに変わりました。主イエスが鞭打たれたその苦しみに与ることができたことを、二人は感謝し、喜んだのです。そして、その感謝と喜びは賛美となりました。

 なんと強い信仰でしょう。私は苦しいことやつらいことがあると、つい、つぶやいてしまいます。このような箇所を読むと、自分の信仰の足らなさを感じ、恥ずかしくなります。しかし、そんなときでも、賛美を歌いはじめると、再び信仰を取り戻すことができます。賛美は信仰から生まれるものなのですが、同時に、賛美は信仰を励ましてくれます。自分を励ますだけではありません。他の人に神の愛と恵みを伝えることもできるのです。パウロとシラスの歌声は牢獄に響きました。25節には「ほかの囚人たちも聞き入っていた」とあります。

 この後、地震が起こり、囚人たちを繋いでいた鎖が解けるのですが、鎖が解けたからといって、囚人たちは誰ひとり逃げませんでした。それは、囚人たちが賛美を通して、偉大な神に心を捉えられていたからだと思います。また、そのとき起こった地震も、たんなる自然現象ではなく、神がパウロとシラスを救うために起こしてくださったもので、賛美によって引き起こされたと言っても良いと思います。信仰の賛美は、私たちの心を慰め、他の人の心を励まし、また、神のお心に訴え、神の救いを引き寄せるのです。

 うれしいとき、楽しいときに鼻歌を歌うのは誰にでもできます。しかし、苦しみの時に祈り、賛美を歌うのは、信じる者にしかできません。私たちが神を信じるのは、神が私たちによくしてくださるからだけではありません。もし、それだけなら、「ご利益信仰」になります。神を、私たちの願望を成就させるための道具や手段にしてしまうのです。神は、いつ、どんなときでも、主なる神です。私たちの人生の目的は、ウェストミンスター小教理問答が言うように、「神の栄光を現し、神を喜ぶ」ことにあるのです。神のために生きる、それが、私たちの喜びとなります。苦しみの中でも、私たちを支える力となります。そこから賛美が生まれ、賛美が救いをもたらすのです。

 三、看守と家族の救い

 そして、その賛美は、自分を救うだけでなく、他の人も救います。地震で目を覚ました看守は「牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようと」しました(27節)。牢の看守にはローマ兵があたることが多く、ローマ兵は規律が厳しいことで有名でした。この看守も責任感の強い人で、囚人を逃してしまったと思い、剣を抜いて自害しようとしたのです。それを見たパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びましたした(28節)。看守はその声を聞いて、剣を手から離し、パウロとシラスのところに飛んでいきました。そして、ふたりに言いました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(30節)

 答は皆さんがよくご存知のように「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(31節)です。なんと明快な答でしょう。さまざまな宗教や哲学も救いについて語り、論じますが、結局のところ、答を持っていません。「あなたがそれが救いだと思えば、それが救いである。自分で救いだと思うものを選んで、救われたと思い込めばよい」ということしか語っていません。しかし、聖書は違います。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:9-10)、「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2:32、使徒2:21、ローマ10:13)と教えています。「イエスを信じる」、このただ一つのことが人を救うことを、はっきりと語っています。

 使徒16:31の御言葉が素晴らしいのは、「あなたは救われる」だけでなく、「あなたの家族も救われる」とあるからです。これは、家族のだれかひとりがイエスを信じれば、全員が自動的に救われるという意味ではありません。一人ひとりが救いの言葉を聞き、イエスを信じなければならないのです。しかし、家族の誰も信仰を持っていなければ、その家に福音が伝えられるのは難しいことです。しかし、誰かひとりが救われたなら、それによって、その家族に救いの言葉が伝えられて、「あなたもあなたの家族も救われます」という言葉が成就するのです。この看守の場合、32節に「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った」とあるように、救いのメッセージは、看守と看守の家族、また、その家に雇われていた召使いも含めて、その一家に語られました。そして、その全員が信じて、バプテスマを受けました。

 33節に「看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」とあります。この情景を思い描いてください。看守は、パウロとシラスの手当をするために、清潔な水をたくさん汲んできました。看守は、その水で、ふたりの背中の傷を洗ましたが、同じ水で、パウロとシラスは、看守とその一家一人ひとりの罪とその傷を洗い、彼らに霊的な癒やしを与えました。看守は愛の心でパウロとシラスに水を注ぎ、パウロとシラスは父と子と聖霊の御名によって、権威をもって、看守とその一家にバプテスマの水を注ぎました。そしてその水は罪の赦しと救いをもたらすものとなったのです。

 ピリピの町の看守は、自害しようとしたところを、パウロとシラスによって救われました。もし、看守が自害してしまったら、家族はたちまち露頭に迷ったでしょう。そうでなくても、囚人を逃してしまった責任を問われ、大変なことになったでしょう。家長である看守の救いが家族の救いになったというのは、誰もが分かると思います。しかし、聖書がいう「救い」はそうした社会的な救い以上のものです。34節に「それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」とあるように、それは、まことの神に立ち返ること、罪からの救いでした。この救いの喜びが、看守の家族に満ちあふれたのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という「救い」は、イエスを信じることによる、人の霊とたましいとからだの救いです。そして、この救いは、この時から、21世紀の今日まで、世界中で成就し、実現しています。「信じるなら救われる。あなただけでなく、あなたの家族も、周りの人々も!」というのは本当なのです。

 「あなたもあなたの家族も救われます。」皆さんも、この言葉が真実であることを体験してきたことでしょう。私もいろいろなケースを見てきました。ある人が、「私の家にはだれもクリスチャンがいません。私ひとりがクリスチャンになったら、家族がうまくいかなくなるのが心配です」と言って、信仰を持つのを躊躇していました。けれども、その人は、この御言葉を読んで、「ああ、そうか、家族みんながクリスチャンになれば何の問題もないのだ」と分かって、信仰を持ちました。また、長年夫の救いのために祈ってきた姉妹の祈りが答えられ、そのバプテスマができたときは、本当に感謝でした。日本でのことですが、家族がみんなクリスチャンになっていくので、父親がヤケを起こし、包丁を振り回して暴れまわったことがありました。しかし、この人も、家族で最後になりましたが、イエスを信じ、バプテスマを受けました。これは、家族のみんなが、「あなたもあなたの家族も救われます」との言葉を信じて、あきらめずに祈り続けた結果でした。主の御言葉は真実です。祈りに答えてくださる神も真実です。

 誰かが一人、イエスを信じて救われるなら、その救いは、その人一人に留まっていることはありません。その人の家族に、親族に、友人に、その町に、その国に、そして世界に広がって行きます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」との御言葉を信じて、まだ救われていない家族、親族、友人、また、周りの人々のために祈り続けていきましょう。

 (祈り)

 「あなたもあなたの家族も救われます。」主なる神さま、あなたの恵み深いこの言葉を感謝します。主イエスへの信仰が人を救い、家族を救い、世界を救います。この信仰に堅く立ち、人々の救いのため祈り続ける私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/6/2021