教会の祈り

使徒1:12-14

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1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 アメリカは、信仰の自由を求めてやってきた人々によって建てられた国で、ヨーロッパでは信仰が形骸化していったのにくらべ、アメリカの教会は何度かリバイバルを経験し、よく伝道し、また活発に活動してきました。アメリカの教会は、世界のどの国よりも多くの宣教師を海外に派遣しています。私がはじめてアメリカのメガ・チャーチを体験した時、その規模の大きさに圧倒されました。そこには、実にみごとな組織があり、豊かな人材があり、そして資金もありました。アメリカの教会では、組織が活用され、人材が用いられ、資金が良く運用されています。しかし、アメリカの教会には、一つだけあまり活用されていないものがあります。それは祈りです。J.ゴードン・ヘンリーという人の祈りのセミナーのテキストブックに、ひとつの漫画があります。地下室にいくつものワインの樽があって、それぞれに「組織」、「人材」、「資金」というラベルが貼ってあります。そうした樽からは中身が取り出されるのですが、「祈り」というラベルが貼ってある樽は、ほとんど誰も手をつけないままになっているのです。一番上等のワインが無視されているというのです。

 韓国のビリー・グラハムと呼ばれる牧師がアメリカに来られた時、そのメッセージを伺いました。その先生は、韓国の教会が成長した秘訣は祈りにある、世界で一番良く祈るのは韓国のクリスチャンで一日一時間は祈る。次は日本のクリスチャンで三十分祈る。ところがアメリカのクリスチャンは一日五分しか祈らない。アメリカのクリスチャンがもっと祈るようになったら、世界は変わると話していました。確かに、アメリカの多くの教会では、水曜日や木曜日のミッドウィークの祈り会がどんどん姿を消しています。週の半ばに集まっても、それはコワイヤの練習のためで、祈りは申し訳け程度にささげられるだけになっています。J.ゴードン・ヘンリー先生も、「祈りは、ミーティングの開始の合図に過ぎなくなっている」と、祈りのセミナーで言っていました。

 私たちは、アメリカにある教会として、その良い点をもっともっと生かしていきたいと思いますが、同時に、アメリカの教会に足らなくなった祈りをもっと大切にしていきたいと思います。そのために韓国の教会を見習うのも良いことですが、何よりも、聖書に描かれている初代の教会に学び、それを模範としたいと思います。初代の教会は祈る教会でした。教会は祈りによって始まり、祈りによって困難を乗り越え、祈りによって発展していきました。今朝は、「使徒の働き」の中から、祈る教会の姿を学び、私たちもその姿に近づくものとなりたく思います。

 一、祈りによってはじまった教会

 まずはじめに、教会は祈りによって始まったということを見ておきましょう。

 先ほど読んでいただきました箇所は、主イエスが天に帰られた後の弟子たちの姿を描いたものです。主イエスが天に帰られたのは復活から四十日目でした。主は、もうしばらくすれば弟子たちに聖霊が与えられると約束されました。ペンテコステの日に、弟子たちは聖霊を受け、教会が始まるのですが、この時点では、その日までまだ十日ありました。主は、なぜ、弟子たちにすぐに聖霊を与えなかったのでしょうか。なぜ、十日もの期間を与えたのでしょうか。その十日の間、弟子たちが何をすることを期待されたのでしょうか。実際に、弟子たちはその期間、何をしていたのでしょうか。その十日間をどうやって過ごしたのでしょうか。答えは、使徒1:14にありましたね。「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」弟子たちは祈っていたのです。

 弟子たちは、三年の間、主イエスから訓練を受けました。彼らは、神のみことばを学んだのです。弟子たちは主イエスの十字架に躓き、いったん挫折しましたが、復活されたイエスによって、立ち直り、復活の主から直接にみことばを与えられ、キリストの救いを宣べ伝え、教会を導くようになるのです。もう何もかも整えられ、教会が誕生する準備が出来たように見えます。しかし、なお、一つのことが必要でした。それは、弟子たちに聖霊が与えられることです。聖霊なしには、教会はたんに人間の団体や運動にすぎないものになってしまうからです。聖霊なしには、教会は、「キリスト教会」という名前を持っていても、そこにキリストのおられない、たんなるソーシャルの場になってしまいます。聖霊によってこそ、はじめて、教会は神のもの、キリストのからだとなることができるのです。

 初代教会の人々は、聖霊と、信仰と、知恵とに満たされて、大胆で、力と喜びにあふれていました。初代の教会にも、組織があり、指導者がいて、教会に規則もありましたが、今日のアメリカの教会のようには整ってはいませんでした。その当時は、教会堂はなく、エルサレムでは神殿に集まって礼拝をし、他の都市では講堂を借りたり、個人の邸宅に集まったりしました。今日のように、立派な教会堂を持たなかったのですが、人々はどんどんと教会に加わってきました。十二弟子の多くはガリラヤの漁師たちだった人々で、アメリカの大きな教会では博士号を持った人々が大勢いて、そうした人々からレッスンを受けることができるのとは全く違っていました。しかし、初代の使徒たち、教師たちはもっと権威をもって神のことばを語り、人々もそれを深く学びました。聖書から初代教会のことを学ぶと、現代の教会は、さまざまな面で恵まれていますが、そこには、なお、ひとつ欠けたものがあることを、感じてしまいます。組織による結びつきはあっても、キリストにある交わりが薄くなっているかもしれません。お金はあっても、パウロが「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:12-13)と言うことができた体験を失っているかもしれません。単に知識を積み重ねていくだけの学びではなく、神の知恵によってこの世を生きていく、そんな力が私たちには必要なように思います。こうした、私たちに足らないものは、どうやって補われるのでしゅうか。それは、聖霊の力によってです。そして、その聖霊の力を自分のものにするのが祈りなのです。私たちに足らないものは、祈りによって手にいれなければならないのです。

 聖霊を与えるというのは、神のなさることで、それは神の主権的に属することです。しかし、同時に、神は、それを人間の側の祈り、願い、求めと結びつけてくださっています。ルカ11:13で、主イエスが「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言っておられるように、神は「求める者」「祈る者」に聖霊をくださるのです。祈りによって、私たちは、聖霊の力を受け、その力によってはじめて、キリストの証人になるという使命を果たすことができるのです。アメリカには「こうしたら信仰が成長する」「こうしたら伝道ができる」「こうしたら教会が活発になる」などといったセミナーがたくさんあります。そしてそうしたものを教会に取り入れて、訓練会をしたり、修養会をしたりするのですが、たいていの場合、思うようには成果があがりません。なぜでしょう。それは、方法だけを真似ているからです。私たちは人それぞれに個性があり、かかえている課題が違います。また、どの教会もそれぞれに歴史も、構成も違います。他の人が作ったもの、他の教会で成功したものは、その人や、その教会にはよくても、すべての人に当てはまるわけではありません。しかし、その人や、その教会が、成長を求めたその「求める心」は、すべての人に当てはまります。ですから、私は、そうしたセミナーに出る時には、そのセミナーを主催しておられる方々が、どのように自分を成長させたいと願い、教会を成長をさせたいと祈ったのか、そのためにどんな工夫をしたのかという部分を、しっかりと学ぶようにしています。彼らの祈りや、熱心、努力から学び、同じ、祈りと熱心と努力をして、自分自身の課題、自分の教会の課題に取り組むようにしています。彼らが成功したのは、熱心に祈り求めたからです。それをしないで、出てきた結果だけを真似ても、何事も起こりません。神は私たちを聖霊で満たすと約束しておられます。初代の教会が、その約束の実現を祈りによって得たように、私たちも、祈りによって神の約束が実現するのを見せていただきましょう。神の約束を知ったなら、それを理解できるように祈りましょう。それを理解したなら、信じることができるように祈りましょう。そして、それを信じることができたなら、体験することができるために祈りましょう。神は、求める者に約束を果たしてくださるのです。

 二、祈りを優先した教会

 第二に、教会は祈りを優先したということを見ましょう。

 教会は、聖霊によって、祈りによって誕生しましたが、そればかりではなく、初代の教会は、祈る教会でした。使徒2:42には、「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあり、教会がおもにしていたことが四つ書かれています。第一に教え、第二に交わり、第三にパン裂き、つまり、礼拝や聖餐、そして第四に祈りです。教会ができること、しなければならないことは数多くあります。しかし、いつの時代のどの教会も、祈りが最重要事項の中に入っていなければならないのです。祈りは、決して時代遅れのものではなく、現代のように混乱した時代に、最も必要とされているものなのです。

 初代教会では指導者たちが率先して祈りを優先させました。使徒ペテロは、教会の運営上の問題が起こった時、それを七人の奉仕者たちに任せて「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒6:4)と言っています。使徒たちは、祈ることとみことばを教えることに専念しました。今日のアメリカの教会では、牧師が祈りとみことばの奉仕に専念するよりも、教会の運営を上手にこなすことが期待されているような気がします。牧師を養成する神学校でも、聖書や神学、教会の歴史などの学びよりも、教会運営の勉強のほうが盛んになっているようです。もちろん、教会運営の勉強がいらないわけではありませんが、祈りとみことばの奉仕がおろそかになっていれば、いくら牧師が M.B.A. 並みの知識を持っていても、教会はその力を失ってしまうでしょう。私たちの教会は、活発に伝道し、活動している教会ですが、その伝道を支えるだけのみことばの学び、その活動を実りあるものにするだけの祈りが積み重ねられているだろうかと、反省する必要もあると思います。伝道が進めば、聖書を教えることのできる人がもっと必要になり、聖書を教えることのできる人が多くいれば伝道はもっと進むのです。おひとりびとりが、教会で聖書を学ぶだけでなく、学んだことを他の人に教えることができるようになっていただきたいと、こころから願っています。さまざまな活動が実を結ぶためには、もっと祈りが必要です。もうすぐ、教会の新年度が始まりますが、教会が「祈りとみことば」に、よりいっそう専念できるように励みたいと思います。

 三、共に祈った教会

 第三に、教会は共に集まって祈ったということを見ましょう。

 14節に「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」とありましたね。ここで「心を合わせ」と訳されている言葉は、ギリシャ語で homothmadon と言い、使徒の働きには10回出てきます。私は、この言葉に興味を持って調べてみたのですが、この言葉が、たんに「心を一つにする」というだけでなく、実際にみんなが一つに集まり、また、ひとつになって行動するという意味であることがわかりました。たとえば、使徒7:57では「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。」とあります。これは、ステパノの殉教を描いた箇所ですが、ここで「いっせいに」と訳されているのが、先ほど言いました homothmadon です。この言葉は、大勢の人が集団で行動することを意味しています。使徒18:12にはパウロがコリントで伝道していた時のことが書かれていて、「ユダヤ人たちはこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて行った」とあります。ここで「こぞって」と言うのも、大勢の人々がいっしょになってパウロをつかまえたことを表わしています。使徒19:29には、「そして、町中が大騒ぎになり、人々はパウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場になだれ込んだ」とあります。これはエペソの町での出来事を書いているのですが、「一団となって」と訳されている言葉も homothmadon が使われています。これらのことから分かりますように、「心を合わせ、祈りに専念した」というのは、人々が実際に、一緒に集まって祈ったことを表わしているのです。

 さきほと、ステパノに反対する人々が「いっせい」に彼に立ち向かい、エペソの町ではクリスチャンに対抗する人たちが「一団となって」行動したと書かれている箇所を見ました。徐々にですが、アメリカの国でも、信仰に反対するする人々が増えています。その人たちは、他の信仰には寛容なのに、クリスチャンの信仰だけには、どういうわけか激しく反対するのです。たとえば、サッカーやバスケットボールの試合の時、クリスチャンのチームが輪を作り、手をつないで祈ったりするだけで、訴えられるということが起こっています。それで、今年の第53回全米祈りの日のテーマは Let Freedom Ring - The freedom to gather, the freedom to wordhip, the freedom to pray. となっています。神に敵対する人たちは、団結して行動しているのです。神を信じるものが、文字通りひとつに集まり、また心を合わせなくてどうするのでしょうか。使徒12章に、ヘロデ・アグリッパがヨハネの兄弟ヤコブを殺し、ペテロを捕まえて牢に閉じ込めた時、大勢の人々がマルコの母マリヤの家に一緒に集まって祈りました。聖書は、このことを「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(使徒12:5)と言っています。個々人の祈りだけではなく、教会の祈りがささげられのです。そして、こうした教会の祈りは、神に届き、ペテロはその牢獄から救い出されたのです。教会の祈りには力があります。聖書に教えられているとおり、また、初代教会がしたように、共に集まりましょう。共に祈りましょう。ひとりで祈ることも素晴らしいことですが、共に祈ることはもっと素晴らしいことです。水曜日の祈り会では、「共に祈る喜び」を味わっています。祈り会に新しく参加する方が少しづつ増えていますが、私はもっともっと皆さんに、共に祈るよろこびを味わっていただきたいと願っています。クリスチャンが集まる時は、つとめて祈る時を持つようにしましょう。「共に祈る」、それは、クリスチャンの交わりだけに許されている特権です。この特権を生かして、祈り合いましょう。教会は祈りで始まりました。祈りによって成長し、祈りによって困難を乗り越え、祈りによって前進していくのです。私たちの教会を祈る教会としていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝、共に集まり、心を合わせて祈ることの大切さを教えてくださりありがとうございました。主は「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と約束してくださいました。共に集まり、主の名によって祈る時、そこに主も共におられ、私たちも、人々も、主を見上げることができます。私たちの教会を、そのような教会にしてください。教会の祈りに耳を傾けてくださる、主イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/18/2004