時が良くても悪くても

テモテ第二4:1-8

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4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
4:5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 この春、私は、皆さんから送り出されて、卒業した神学校の卒業式に参加しました。そのプログラムに「第四十四回卒業式」とありました。それを見てはじめて気がついたのですが、私は第十四期目の卒業生ですから、卒業し、牧師になってちょうど三十年が経っていたのです。三十年というのはふりかえってみればあっという間ですが、やはり、長い期間です。ここまで続けてこられたのは、神の恵み、あわれみであることをこころ感謝しています。私は、テモテ第二4:5は、私が、牧師になるようにとの神の導きを確信した箇所ですので、三十年という節目に、もう一度この箇所に立ち返って学びたいと思い、ここをとりあげました。私はふだんの説教も、まず自分自身に対して語っているつもりなのですが、今朝は、特にそうしなければならないと思っています。

 一、みことばを語る

 テモテへの第二の手紙は、使徒パウロが、殉教を前にして、そのころエペソの教会で働いていた弟子テモテに与えた手紙です。パウロは、世を去って、神と主イエス・キリストの前に立つ時が来たことを悟っていました。それで、1節で「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」と、それこそ大変「おごそか」なことばを使って、テモテに命じています。

 では、パウロが「おごそかに命じます」と言った、テモテへの命令は何だったでしょうか。それは2節にあります。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」もっと短く言えば、「みことばを宣べ伝えなさい。」です。パウロは、彼が世を去った後、人々が健全な教えから離れていくことを、あらかじめ知っていました。3節と4節に「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」とあるとおりです。パウロの存命中、教会がはじまって間もない時代にも、ガラテヤの教会のように、「割礼を受けなければ救われない」と言う教会があり、コリントの教会のように「復活を信じない」という教会もありました。早くも、聖書の真理がゆがめられ、それが別のもので置き換えられたりしていたのです。これらの教会では、神のことばではなく、ユダヤ教の教えが、聖書ではなく、ギリシャの哲学が語られていたわけです。

 テモテがいたエペソの教会は、神のことばに忠実な教会でしたが、それでも、「違った教え」「果てしのない空想話と系図」(テモテ第一1:3-4)「惑わす霊と悪霊の教え」(テモテ第一4:1)などがその町にはびこっていました。パウロは、そうしたものを「俗悪なむだ話」(テモテ第二2:16)と呼んでいます。それで、パウロはテモテに「果てしのない空想話」や「俗悪なむだ話」ではなく、「神のことば」、つまり、聖書を宣べ伝えるよう命じているのです。私たちを救い、生かすものは、ユダヤの律法でも、ギリシャの論理でも、どんな宗教の教えでもなく、ただ神のことばだけだからです。

 パウロは、彼の死後、教会が神のことばから離れていくことを予告しましたが、同時に、世の終わりには、もっと困難な時がやってくるとも教えています。3:1-5にこう書かれています。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」私はここを読みながら、「ここに書かれているのはみな、今まさに起こっていることばかりではないか」と思ったのですが、皆さんはどう思いましたか。かっては、他の人を思いやることができる人が大勢いたのですが、今はそういう人々がまれで、多くの人が自分のことしか考えない「自分を愛する者」になってしまいました。また、ご主人に保険金をかけて暴力団に殺人を依頼したり、従業員に保険をかけて殺すという、恐ろしい事件がたくさん起こっています。お金のためなら、何でもする「金を愛する者」が増えています。何よりも、現代人は、人間の力で何でもできると信じ、「大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者」となっています。人は神から離れると必ず、他の人との間にも深い溝を作ります。それで人々は「両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者、情け知らずの者、和解しない者、そしる者」になるのです。次の「節制のない者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者」というのは、自分をコントロールできないために、ちょっとしたことですぐに「切れて」しまい、暴走してしまう現代の若者たちにそのままあてはまることばかも知れません。しかし、この中で一番恐いのは、このリストの最後にある「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」です。みせかけだけで中身のないクリスチャン、教会という看板はあっても、そこで神のことばが神のことばとして語られ、聞かれていない教会が増えているのです。今、どんどん世の終わりが近づいているような気がします。

 このような時だからこそ、神の働き人は、「みことば」を宣べ伝えることに専念しなければならないのです。福音を単なる人生の教訓に変えてしまったり、神のことばを好き勝手に解釈したり、教会をたんなる人間的なおつきあいの場にしてはならないのです。「みことばを宣べ伝えなさい。」この命令をいつも心に留めて奉仕していきたいと思っています。

 二、自分をささげる

 パウロは、テモテに「みことばを宣べ伝えなさい」と命じてから、次に、「しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(4:5)と、教えの内容と共に、神のことばを教える自分自身をしっかりと管理しなさいと命じています。

 神のことばを教える仕事の難しさは、単に知識や技術だけではできないということにあります。どんな仕事でも、人格的なものが問われないものはありませんが、比較的それが必要でない仕事もあります。ホームラン王ベーブ・ルースは、しばしば二日酔いで試合に遅れてきて打席に立ったそうですが、それでもホームランを打てば、彼の態度は問題にならなくなるのです。しかし、まさか説教者が二日酔いで講壇に立つことはできません。神のことばを語り、それを教える仕事は、人格的な資質や信仰的な力なしにはできないのです。私が皆さんにコンピュータを教えるのなら、あまり祈りを必要としませんが、神のことばを語る時には、多くの祈りを必要とします。

 先週の水曜日と土曜日米村アイリーン姉が、サンデースクールの教師たちのワークショップを開いてくれました。彼女はその時、教師、特にサンデースクールの教師は、模範をとおして子どもに教えるのだということを話してくれましたが、その通りですね。パウロは「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。」(テモテ第一4:16)と教えています。「教えること」よりも「自分自身」のほうが先に来ていますが、自分自身を管理することの大切さを表わしています。みことばを教える奉仕においては、真理を語っているから問題はない、正しいことを言っているから大丈夫というわけにはいかないのです。自分自身が真理に生きているか、正しく歩んでいるか、絶えず気をつけ、心して自分を養い育てていきたいと思っています。

 最近読んだ本の中に、「牧師にとって、説教は一番たいせつな仕事であるが、良い説教をするためには、牧師としての仕事ができなくなる。すべての牧師はそのディレンマを持っている。」とありました。どういうことかと言いますと、牧師が良い説教をするためには、読書をしたり、様々なところに出かけていって、多くの人と語り合う必要があるのですが、それに時間を割けば、教会でのさまざまな仕事や訪問などに時間を割くことができない、教会でのオフィスワークや訪問に時間を割けば、説教の準備に時間をかけることができないということなのです。これは体験したことのない人にはわからないかもしれませんが、私をはじめとして多くの牧師たちが絶えず感じていることです。そのようなプレッシャーの中で、自分を鍛えていかなくてはなりません。私は今、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、務め励みなさい。」(テモテ第二2:15)とのチャレンジを受けています。どうぞ、お祈りください。

 三、継続する

 私がこの箇所から受けたチャレンジは、第一に「みことばを宣べ伝える」こと、第二に「自分を神にささげる」ことでしたが、第三は、そのことを生涯追い求め、継続するということです。私は若い頃、先輩の先生がたに、「伝道の秘訣は何ですか」と尋ねたことがありました。その中の答えのひとつが「やめないことです」というものでした。最初、それを聞いた時、「ふざけた答えだ」と思ったのですが、こうして、三十年間、牧師を続けてきた今では、「やめないこと」「継続すること」が、案外、秘訣なのかもしれないと思うようになりました。伝道するのに、牧師として働くのに、いつもが「良い時」とばかりは限りません。「悪い時」もやってきます。私が、シリコンバレーに来た時は、ちょうどシリコンバレーのバブルがはじけた時で、「悪い時」だったかもしれません。しかし、人の目には悪い時であっても、神の目には良い時もあります。ずっと「悪い時」が続くわけではありません。聖書が言うとおり、「時が良くても、悪くても」、続けること、継続することが大切なのですね。

 最近、教団の引退牧師となった先生が「私は教団で三十五年、引退まで奉仕を続けることができたが、振り返ってみると、途中で牧師を辞めていった人が、私たちの教団で、私の知るだけでも十人はいる。皆が最後まで、続けて欲しかった。」と、しみじみと話すのを聞いて、私は、継続することの大切さを改めで思いました。どんな良い働きをしても、その結末が悪ければ、それは評価されず、どんなに素晴らしいスタートを切っても、ゴールにいたらなかったら、それはあかしとはならないのです。チャールズ・シュワーブと言えば、アメリカ最大の投資金融会社を起こした人ですが、彼の起こした会社は倒産し、皮肉なことですが、彼は死ぬまでの五年間、借金で生活しなければなりませんでした。ジョージ・イーストマンは、小さなカメラショップから世界のコダックに発展させた人です。彼は望みどおりのものを手にいれましたが、ピストルで自分の頭を打ち抜いて自殺しています。これらの人々は、社会的には成功したかもしれませんが、その人生を最後まで走りぬき、人生の成功者として、栄光のゴールに届くことができませんでした。世間に認められるような大きな事をしなくても、たとえそれが小さなことであっても、忠実に最後まで成し遂げることを、神は喜んでくださいます。その時、私たちは「よくやった。良い忠実なしもべた。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの者を任せよう。主人の喜びをとも喜んでくれ。」(マタイ25:21,23)とのことばをいただくことができるのです。

 使徒パウロは殉教を前にしてこう言っています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(4:7-8)パウロは、こう言うことによって、テモテに、「あなたも走るべき道のりを走り抜きなさい。信仰を守り通しなさい。義の栄冠を得なさい。」と教えているのです。ヘブル人への手紙に「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(ヘブル13:7)とありますが、もし、私の生活の結末が惨めなものであったなら、どうして、神のことばをあかしすることができるでしょうか。最後まで、この奉仕を続けることができるよう、そして、そのことが神の栄光に、また、私の奉仕を支えてくさっている皆さんの祝福になるようにと、心から願っています。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは小さい者を罪と空しい生き方から救い出してくださったばかりか、あなたのおことばを伝える者、それを教える者としてくださいました。そして、不思議な方法で、アメリカにいる日本人のために働くよう、導いてくださいました。今朝、私は、会衆と共にあなたの前に立ち、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」とのおことばを聞いています。このおことばにこたえようとしているおひとりびとりと共に私をも、栄光のゴールに至るまで、良いわざにはげみ続けるものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/12/2003