聖書による訓練

テモテ第二3:14-17

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3:14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 一、聖書の霊感

 テモテ第二3:16は、私が、高校生のとき、教会に行って間もなく覚えた聖句です。私の母教会はダラスから来た宣教師によって建てられた教会で、聖書が神の言葉であることを堅く信じていました。礼拝堂をはじめ、高校生が使っていた小ホールにも、額に入った聖書の言葉がいくつも飾られていました。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」この言葉を読むたびに、そのころのことを懐かしく思い起こします。

 「神の霊感を受けて書かれた」という言葉は聖書の「起源」を教えています。「神の霊感」という言葉には、「神の息吹」という意味があります。これは、アダムが造られた時、神が命の息をその鼻に吹き入れ、アダムが生きた者となった(創世記2:7)ということを思い起こさせます。神がアダムに命の息を吹き込んで人を生かしたように、神は、聖書にご自分の言葉を吹き込んで、それを命の言葉とされたのです。聖書の「起源」は神ご自身です。聖書は様々な人の手によって書かれましたが、その言葉は神から出たものであり、聖書は「神の」言葉なのです。これはわたしたちの信仰の基礎であり、出発点です。このことは、いくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。

 そして、聖書が「神からのもの」であるなら、それはどんなに大切にされなければならないことでしょう。そして、「聖書を大切にする」ことは、書物としての聖書を大切にすることから始まると思います。あるとき、教会にはじめて来た人が、聖書を欲しいというので、販売用の聖書をお分けしたことがあります。その時、その人は、「先生、聖書に線を引いたり、書き込んだりしていいんですか」とわたしに尋ねました。他の人がそうしているのを見たからでしょう。その人は、聖書は尊い書物だから、線を引いたりするのは畏れ多いと感じたのです。わたしは、その時、はじめて聖書を手にする人がそれほどに聖書を尊いものと考えているのに、わたしたちクリスチャンが聖書に慣れっこになってしまって、それをぞんざいに扱うようになっていないかと、反省しました。

 サンデースクールのクラスルームに聖書が散らかったまま置かれていたり、聖書の上にマグカップを置いてコースター代わりにしているのを見るのは、うれしいことではありません。わたしの友人は「聖書の上に他の本を置かない」と言っていました。本を積み重ねるときは、いつも聖書を一番上に置くというのです。カトリック教会のミサでは司祭が福音書を朗読したあと、そのページにキスをします。それは神の言葉への愛を表わすしぐさです。「そうしたことは外面のことで、どうでもよい」という人もいるでしょうが、神の言葉への敬いと愛は、書物としての聖書に対する態度にも表われてくると思います。聖書は「The Holy Bible」、神から頂いた「聖なる」書物です。そのことを忘れないでいたいと思います。

 では、聖書を汚さないよう、読まないで飾っておけば、それで神の言葉を愛しているかというと、決してそうではありません。聖書は神からの「愛の手紙」と言われますが、大切な人からもらった手紙は、きっと何度も繰り返し読み、その意味を考え、また、他の人にも知らせたいと思うことでしょう。同じように、神の言葉を愛する人は、聖書を何度も繰り返し読み、その意味を考え、それを実行しようとするはずです。ページの端が擦り切れるほどに、何度も読み込まれた聖書は、それを持っている人の神の言葉への愛を表わしていると思います。その人が普段使っている聖書を見ると、その人の信仰がわかるかもれません。聖書の霊感を信じ、聖書が神の言葉であることを知っているなら、聖書を読み、それを学び、聖書のメッセージを聞くこと、また御言葉を語ることが大きな喜びとなるはずです。聖書が「神からの言葉」であることを知っているわたしたちは、もっと、それを尊び、愛し、読み、学び、御言葉を心に蓄えていきたいと思います。

 二、聖書と救い

 さて、この箇所は聖書の「起源」とともに、聖書の目的についても教えています。「聖書の目的」というのは、聖書が「何のために書かれたか」ということです。わたしたちは、それを知って、聖書をその「目的」に従って読み、学び、聖書の「目的」がわたしたちのうちに成就するよう祈り求めています。

 聖書はふたつの目的のために書かれました。第一は、人を救いに導くためです。テモテ第二3:15にこうあります。「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。」聖書の主人公は、イエス・キリストです。旧約聖書は、やがて来られる救い主イエス・キリストを預言の形でさししめし、新約聖書は、世に来られた救い主イエス・キリストを描いています。人は、このイエス・キリストを知り、信じて、救われます。聖書は、イエス・キリストを知らせ、イエス・キリストを信じるとはどうすることなのかを教えており、そのことによって人を救いへと導いてくれます。

 聖書は世界中の人々に愛され、尊ばれてきました。人々は聖書に基づいて道徳を定め、社会を築いてきました。聖書は、文学や芸術の源になり、人生の指針、また、弱くなった心を強める薬ともなりました。確かに聖書はどのような立場で読み、それを研究しても、それに耐えられるだけの内容を持っています。しかし、聖書の本来の目的は、イエス・キリストと、イエス・キリストに対する信仰を教え、人を救いに導くことにあります。わたしたちは、聖書を「救いに導く神の言葉」として読むとき、はじめて聖書が分かるようになるのです。

 いっしょに聖書を学んでいて、「この人は聖書の文章を正しく読むことができるのに、どうして信仰を持たないのだろう」と不思議に思うこともあれば、それと逆に、「この人は文章を読みとるのに難しいことが多いのに、どうして、聖書が言おうとしていることを理解して、信仰を持ち、喜んで聖書を学ぶことができるのだろう」と思うこともあります。どうしてこんな違いが出てくるのだろうと考えてみました。ひとりは聖書を「教材」として学ぼうとしているのに、もうひとりはイエス・キリストに出会いたい、このお方を信じて救われたいという願いをもって、聖書を「救いの言葉」として読んでいるからだということが分かりました。聖書は、聖書みずからが示している目的に沿って読み、学ぶとき、それが自分のものとなり、わたしたちを救いへと導くのです。わたしたちは、聖書を救いに導く言葉として読み、学び、また人々に紹介していきたいと思います。

 三、聖書と訓練

 聖書の第二の目的は、救われた人を訓練することにあります。テモテ第二3:16-17に「(聖書は)…人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」と書かれているとおりです。

 もし、聖書がわたしたちを救いに導くためだけのものなら、イエス・キリストを信じたなら、もう聖書はいらなくなります。でも、そうではありません。ペテロ第一1:23に「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」とあります。「新たに生まれる」というのは、イエス・キリストを信じる者が、救われて、生まれ変り、神の子どもされることです。ですから、この言葉は神の言葉が人を救いに導いたと言っているのです。そして、この言葉に次の言葉が続きます。「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」神の言葉は、わたしたちにを救いに導きますが、それで役割を終えるのではありません。御言葉によって救われた者は、引き続いて、その御言葉によって養われ、成長していくのです。

 聖書は、救われたばかりの人は、「乳飲み子」のようだと言っています。赤ん坊に必要なのは、栄養と、世話と、愛情です。霊的なベービーに対しては聖書は栄養のようなものですから、救われた後は、神の言葉を貪欲なほど吸収し、それによって養われていくのが良いのです。しかし、ベービーの状態から少し、成長していくと、今度は聖書を教師とも、コーチともして、その訓練を受けなければなりません。

 テモテ第二3:16の「人を教え、戒め、正しくし、義に導く」というところは、新改訳で、「教えと戒めと矯正と義の訓練」となっています。最後の「訓練」という言葉には、成長期の「こどもを躾ける」という意味があります。この「訓練」という言葉は「鞭をふるう」という時にも使われます。現代は、「躾け」ということが忘れられている時代ですが、こどもを躾けないで育てたらどうなるかは、今日の社会の混乱を見れば分かります。

 同じように、救われた者が神の言葉によって教えられず、戒められず、矯正されず、訓練されなかったら、救われた者はいつまでもベービーの状態にとどまり、「あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者」となることができません。そして、そのような人のいない教会は、この世界にイエス・キリストを証しする力を失ってしまうのです。誰も、矯正や訓練を好みません。しかし、聖書が与える教えと、戒め、矯正と訓練を受けるのでなければ、わたしたちは、聖書をどんなに読み、学んだとしても、それは単なる頭のエクササイズで終わってしまい、わたしたちを成長させ、その生活を変えるものにはならないのです。

 以前紹介した “So, You Want To Be Like Christ?” という本の中で、チャック・スウィンドール先生は、ご自分がどのようにして、この御言葉による訓練を受けるようになったかを書いています。先生が第二次大戦の時、兵役を課せられ、海兵隊に入隊したのは、結婚して二年してからでした。ブートキャンプを終えたのちの任地は、サンフランシスコでした。多くの海兵隊員が砂漠や沖縄で任務にあたっていた時でしたから、それは誰もがうらやむ任務でした。そこでは、すべてがうまく行き、その人生はバラ色でした。

 ところが、一通の手紙が先生に届きました。それは、軍がトラックの荷台に載せて運んできたものでした。その手紙を開けてみると、手紙の最後にドワイト・D・アイゼンハワー大統領の署名がありました。それは沖縄に行くようにとの公式命令だったのです。先生はそれが、ほんとうに自分に宛てられたものかを何度も確かめましたが、間違いありませんでした。

 先生は失意のうちに沖縄に向かいましたが、そこで、ボブ・ニューカークという人に会いました。そして、この人を通して、ピリピ3:10-11の御言葉を与えられました。そこにはこうあります。「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。」先生は、それまでの順調な生活の中で、信仰がなまぬくなっていたことを悔い改めました。そして、自分の人生の目的が、「キリストを知ること」、「キリストを知って、キリストに似たものにされること」であることを見出したのです。この聖書の言葉が先生を変えました。先生は、御言葉による訓練によって、多くの人々にイエス・キリストを伝え、人々をキリストに導く「神の人」へと変えられていったのです。

 わたしは、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」という言葉を若いころ覚えました。「聖書は神の言葉。」この確信はわたしの人生を支えてきました。しかし、今、改めてこの御言葉を読むとき、この言葉に続く部分に心が向かいます。聖書が人を「教え、戒め、正しくし、義に導」き、「あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者」へと変えることができるのは本当です。わたしは確信をもって言うことができます。聖書にそのような力があるのは、聖書が霊感された神の言葉だからです。わたしたちは、聖書の霊感を信じることだけで終わらずに、聖書が与える訓練を受けて変えられていきたいと思います。そして、変えられた人生によって聖書が神の言葉であることを証明していきたいと思います。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは、わたしたちの「救い」と「訓練」とのために聖書を与えてくださいました。どうぞ、信仰を求めている人々が聖書に導かれて救いに至りますように。また、救われた者が聖書によって、キリストに似たものへと変えられていきますように。あなたがわたしたちに聖書をお与えくださった目的が、わたしたちの人生において成就しますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/21/2018