基本の訓練

テモテ第二2:3-7

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4:6 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良2:3 キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。 2:4 兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。 2:5 また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。 2:6 労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。 2:7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、人物を正確に描くため、人間のからだを徹底的に研究した人でした。彼は、ある時、ある人物の手を描こうとしたのですがどうしても思うように描くことができませんでした。その時、彼は、これだと思えるものを描くことができるまで、千本の手を描いたと伝えられています。

 マイク・シグレタリは名誉の殿堂入りをしたプロ・フットボールの選手でした。マイクはタックル破りの記録を持っているのですが、タックルをブレークするごとにヘルメットもブレークしたと言われています。それで、試合に出る時にはいつも、ヘルメットを三つ以上用意していたそうです。マイクは、また、いつ、どこにボールが来るかを正確に知っていました。マイクは、他の選手が家に帰った後、何時間も試合の記録フィルムを研究し、対戦相手の選手の動きを頭の中に叩き込みました。また、毎日ウェイト・トレーニングを欠かしませんでした。たった60分の、年に20回もない試合のために、彼は毎日、たゆまない訓練をしていたのです。

 わたしたちは、素晴らしい芸術作品に触れそのみごとさに驚嘆するのですが、それが完成して人目に触れるまでの芸術家の鍛錬を忘れがちです。スポーツ選手の超人的な技術に興奮しますが、その背後にあるたゆまないトレーニングを見落としがちです。若者たちは、憧れの選手をまねて、その選手が着ているのと同じユニフォームを身に着け、彼らが履いているのと同じシューズを履きます。バスケットボールならシュートする時のしぐさ、ベースボールならバットを構える時のしぐさなどを真似ます。しかし、そうしたものは、試合の時に人目に触れる姿でしかありません。あこがれの選手のようになりたいと思うなら、彼らの目に見えないところで行なっている訓練を真似る必要があるのです。

 それは「敬虔のための鍛錬」においても同じです。聖書は、「兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」(ピリピ4:8)と教えています。わたしたちは、聖書からは、もちろんですが、身のまわりのさまざまなことからも、敬虔のための鍛錬について学ぶこと、見習うことができます。きょうの箇所では、兵士、選手、そして農夫から学びなさいと言われています。そして、兵士、選手、農夫は「敬虔のための鍛錬」にとって必要なことをそれぞれに教えています。兵士は忠誠を、選手は節制を、そして農夫は忍耐を教えているのです。この三つのことを順に学びましょう。

 一、忠誠

 第一は兵士の「忠誠」です。3、4節にこうあります。「キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。」聖書は、神の民を軍隊として描いています。実際、出エジプトの時、イスラエルは軍隊として組織されています。新約の教会も、霊の戦いの前線基地とされています。信仰者たちはそれぞれキリストの兵士であり、互いを「戦友」と呼び合いました(ピリピ2:25、ピレモン1:2)。わたしたちは教会を「キリストのからだ」と呼んで互いに支えあうところとし、「神の家族」と呼んでアットホームなくつろぎの場としていますが、教会はそれ以上のもの、キリストの軍隊であることを忘れてはなりません。

 どの国の軍隊でもそうだと思いますが、古代、ローマ軍に入隊するときには、今まで身につけていたものをみな脱いで、軍から支給されたものを身につけました。これは、兵士となった後は、自分の意見や判断によって行動するのでなく、司令官の命令に服従することを目に見える形で表わしたものでした。そのように身支度をととのえてから、兵士たちは忠誠の誓いをしました。ローマではこの誓いはラテン語で「サクラメントゥム」と呼ばれました。これは英語では「サクラメント」といいますが、教会はこの言葉をバプテスマや主の晩餐を表わす言葉として使いました。つまり、バプテスマをキリスト軍への入隊の誓いとして、また、主の晩餐を司令官キリストへの忠誠の誓いとして執り行ったのです。

 信仰者も、バプテスマというサクラメントによって、兵士たちと同じように、いままでの古い物の考え方、生き方を捨て、神の言葉によって教えられ、聖霊によって生かされる、新しい人生に入りました。今までは、自分の考え、自分の判断で、自分のためにしていたことを、神の言葉により、聖霊の導きに従って、キリストのために行うことを、主の晩餐というサクラメントを通して誓ったのです。キリスト者は、同時に、キリストの兵士でした。

 実際の戦場では、兵士たちが、自分の身を守ることだけを考えて勝手な行動をしたら、部隊が全滅しないともかぎりません。ひとりの兵士が功績をひとり占めしようとして、部隊全体を窮地に陥れることもあるでしょう。兵士に求められることは「自分を喜ばせる」ことではなく、司令官を喜ばせようとすることです。同じように、キリストの兵士とされた私たちも、自分のためではなく、キリストのために生きるという基本的な姿勢を身につける必要があるのです。

 兵士にはたくましい肉体や強い精神力などが求められますが、それよりも大切なのは、司令官への忠誠心です。それは信仰においても同じです。キリストは、わたしたちがどれだけ多くのことをしたかではなく、それを誰のために、何のためにしたかをご覧になります。キリストのために、その栄光のためにしたことは、たとえ小さいことであっても、キリストはそれを喜んでくださいます。キリストはなによりもわたしたちの「忠誠」を求めておられるのです。

 二、節制

 第二はスポーツ選手の「節制」です。5節に「また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない」とあります。スポーツの選手は競技に出るためどれだけ練習を積むことでしょうか。たった一回の、ある場合にはほんの一瞬で決まってしまう勝負のために何年もひたすら練習に励むのです。練習を休みたいときや、羽目をはずしたいとき、また怠けたいときもあるでしょう。しかし、そういう思いに打ち克って練習に励みます。

 節制は、練習のときばかりでなく、実際の競技でも必要です。「規定に従って競技をしなければ」とあるように、ルールに従わなければ「反則負け」になってしまいます。たとえ競技で一番になったとしても、ドーピング検査に引っかかると賞を剥奪されます。競技者として失格してしまうのです。

 また、スポーツ選手でなくても、業績を積み重ね、地位を築いてきた人が、スキャンダルや法律違反のため、一日にしてその業績を無駄にし、地位を失うことがあります。残念なことですが、教会や信仰の団体の指導者であっても、そういうことがあります。教会が盛んになるように、良い働きが広がるようにとの動機でしたことであっても、法律に従わなければ祝福を受けることができません。「目的が正しければ、それに至る手段が違法であったり、不誠実であってもかまわない」というわけではありません。教会の働きは、正しいゴールとともに正しい方法で行われなければならないのです。

 使徒パウロはこう言って自らを戒めています。「しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」(コリント第一9:25-27)この御言葉が示しているように、何事も、脇目もふらず、ただがむしゃらにやっていればそれで良いというのではありません。自分のしていることが、ほんとうに神のためにしていることなのか、みこころにかなったことなのかを問い直しながら、「節制」という訓練を受けたいと思います。道を踏み外して失格者にならないため、節制の訓練を受けたいと思います。

 三、忍耐

 最後は、農夫の「忍耐」です。6節に「労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである」とありますが、この「労苦」には「忍耐」が含まれています。  農夫の労苦と忍耐について、ヤコブ5:7はこう言っています。「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。」農夫は土を耕し、苗を植え、水を注ぎ、肥料をやり、雑草を取り除き、害虫を駆除し、剪定をします。農作業は大変な労働です。他の仕事だったら、すぐに結果が得られても、農業ではそうはいきません。どんなに懸命に働いても、すぐに収穫を得られません。じっと時を待たなければなりません。実りの時、収穫の時まで、たゆみなく働きながら待つ、忍耐が求められるのです。

 「敬虔のための鍛錬」も同じです。今まで、礼拝に来たり来なかったりで、聖書もほとんど開かないし、祈りもしたことがない人が、翌日目覚めたら敬虔なキリスト者に変わっていたなどということはありません。わたしたちがキリストに似たものに変えられていくには、御言葉を宿すことや祈って導きを得ることなど、踏み従っていくべき、ステップがあるからです。しかし、最初は聖書を開いてもよく理解できなかったり、祈ろうとしても思いも言葉も出てこないということがあるかもしれません。そんなときは、牧師に指導してもらい、その訓練に忍耐忍耐してとどまることが必要です。

 「敬虔のための鍛錬」では、忍耐してそこにとどまり続けることがなによりも大切です。ある人が「わたしたちの忍耐は、わたしたちの能力よりももっと物事を達成する」と言いました。また、「奇跡が起こる5分前にやめてはいけない」という言葉もあります。これは、「忍耐できなかったために神のみわざを見ることができなかったことがどんなに多かったかを考えてみなさい」という戒めの言葉です。今少しの忍耐ができていたら、どんなに大きな神のわざを見ることができたことでしょう。忍耐が収穫をもたらすことを信じて、敬虔のための鍛錬に「忍耐」を加えたいと思います。

 神は、御言葉によって、またわたしたちの身のまわりの人々や事柄を通して、わたしたちを「敬虔のための鍛錬」へと導いてくださいます。兵士の忠誠、競技者の節制、そして農夫の忍耐から学び、それらを身に着けたいと思います。

 (祈り)

 父なる神様、キリストの兵士としての忠誠を、信仰のレースを走る者としての節制を、そして、神の農場で働く者としての忍耐をわたしたちに与えてください。それによってわたしたちを「敬虔」へと近づけてください。主イエス・キリストの御名で祈ります。

1/14/2018