信仰の継承

テモテ第二2:2

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2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

 一、教団の使命

 今日は、北米ホーリネス教団創立記念日です。教団はロサンゼルスから始まりました。1919年中田羽後師がロサンゼルス聖書学校(今の BIOLA 大学)で学びながらフレンド派教会で日本から来た青年たちを指導していました。中田羽後師がそこを去ったあと、青年たちは新しい教会をはじめました。中田羽後師が去って指導者のいなかったこの教会に、10ヶ月後、ケンタッキーのアズベリー神学校で学んでいた葛原定市師が赴任してきました。1921年6月のことでした。すぐれた指導者を得た教会は霊的にも人数的にも成長し各地に教会が建てられるようになり、わずか十数年後の1935年には葛原定市師を監督(Bishop)とする独立教団となりました。組織上の教団は1935年に始まりましたが、教団は葛原定市師がロサンゼルスに来た1921年を教団宣教元年としており、今年(2009年)はそれから88周年、12年後の2021年には100周年を迎えることになります。

 教団が作られたのは、伝道を進めるため、互いに助け合うためでしたが、それだけなら教団でなくても、連盟や同盟、協議会でも良かったのです。教団を作ったのは、伝道や助け合いに加えて、信仰を継承していくという使命を果たすためでした。教団はそのために、牧師を養成し、任命し、指導することによって、初代教会から伝えられた信仰を正しく伝えていくのです。これが教団のもっとも大切な役割りです。

 今朝の箇所で、パウロはテモテに「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」と命じています。これは使徒であるパウロが監督であるテモテに牧師たちの任命について語っているものです。「使徒」はキリストの直接の代理者で、世界中の全教会を指導します。実際、ペテロやパウロはさまざまなところを巡回し、手紙を書き送って指導しています。「監督」は使徒から任命されてある地域にある諸教会を指導する人のことです。テモテはパウロによってエペソの監督に任命され、テトスはクレテの監督に任命されています。監督はそれぞれの教会に牧師を任命します。こうした制度はみな信仰が次の世代に正しく伝えられていくために教会に与えられたものなのです。

 もし、信仰が正しく次の世代に伝わらなかったらどうなるでしょうか。教会がどんなに広く伝道しても、大きな組織になったとしても、それはせいぜい一世代だけのことであり、そのうち教会はなくなってしまうでしょう。教会という形は残ったとしても、信仰のかわりに組織あるだけで、イベントをこなしていくだけの団体になってしまいます。今年の年間聖句にあるように私たちは「地の果てにまで」(to the end of the world)福音を届けたいと願っています。それと同時に、私たちは真理を「世の終わりまで」(to the end of time)引き継いでいきたいと願っています。「伝道」と「信仰の継承」は決して対立するものではありません。むしろ互いに助け合うものです。伝道は同世代の多くの人々に福音を届けることであり「横の信仰継承」です。信仰の継承は次世代に真理を伝達していくことであり、それは「縦の伝道」です。この両方がしっかり組み合わさっていくとき、教団も教会もその使命と責任をしっかり果たすことができるのです。

 二、教団の信仰

 では、教団が次の世代に引き継ぐべき信仰とは何なのでしょうか。

 それは第一に、正統的な合同の信仰です。初代教会から受け継がれてきた信仰です。神が三位一体のお方であること、キリストが神であること、キリストの十字架の死が私たちのあがないのためであること、など、「使徒信条」や「ニケア信条」にまとめられ、全世界の真実なキリストの教会が共に信じ、告白している信仰です。教会はこの信仰を滅ぼそうとする迫害に耐え、これを曲げようとする間違った教えと戦い、その信仰をいのちがけで守り、教え続けてきました。しかし、最近、古くさい教えなどどうでもよい、教会はもっと現代的で、生活に役立つこと、家庭や仕事に役立つことを教えるべきだという声が大きくなってきました。しかし、聖書の真理は本当に、古くさくて何の役にも立たない真理なのでしょうか。人々が教会に来るのは、学校やさまざまなセミナーで教えているのと同じことを聞くためなのでしょうか。そうではありませんね。私たちは学校で多くのことを学び、職場でさまざまな訓練を受けてきました。こころの問題や人間関係の問題や家庭の問題をカウンセラーに相談したりしてきました。しかし、そうしたものでは解決できないものが私たちの心の中に潜んでいることを感じて、教会に、聖書に、イエス・キリストのもとにやってきたのではなかったのでしょうか。心理学が「あなたは素晴らしい。自分に自信を持ちなさい。」と教えても、たえず劣等感にさいなまれている自分がありました。カウンセラーが「人を赦しなさい。配偶者を愛しなさい。」と言っても、人を赦せないで苦しんでいる自分があったのです。そして、この世の教えではなく、聖書の真理が私たちをほんとうに自由にし、私たちのたましいにいのちを与えるものであることを知ったのではなかったでしょうか。この霊的ないのちがなければ、生活や仕事に役立つことも意味がないのです。聖書の教えをしっかりと学ぶなら、それがどんなに大切なものであるかが理解できるようになるでしょう。そして、これを多くの人に知らせたい、次の世代に伝えたいと思うようになるでしょう。教団と教会は今までこうした正統的な信仰に立ってきました。しかし、近年この時代のチャレンジを受けるようになっています。ここから離れてはなりません。もし、ここから離れるなら、教団や教会はたんなる日系団体になってしまうことでしょう。

 教団が次の世代に引き継ぐものは第二に神の前に出る姿勢です。聖書に「あなたがたを召してくださった聖なる方いならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」(ペテロ第一1:15)とあります。「ホーリネス」(きよくあること)は、じつに神が私たちに求めておられることのすべてをあらわしている言葉です。「ホーリネス」はすべての人が心の奥深いところで求めているものであり、私たちの人生のゴールです。教団はこのゴールを目指していくという決意をもって「北米ホーリネス教団」と名乗っています。葛原定市師は、自分が罪びとであることを認め、罪を悔い改め、神の前に虚しくなって出ること。それが「ホーリネス」に至る道であると説教しています。教団の創設者たちは、そうしたことを教えただけでなく、実際に体験しました。その中からひとつのことを話しましょう。

 1922年の大晦日、除夜祈祷会が行われました。そのときの様子を葛原定市師は次のように書いています。

「午後十時半、祈らんとて私共九名のものは、静かに聖前にひざまづいた。会衆の数は少ない。しかし、その一人一人が全部を差し出して主に仕えようとする青年達である。徹夜の祈祷に差しさわりのあろう道理がない。我らは始めからひざまづいた。…さはれ、一同は午後よりの活動続きで疲れている。集会の空気はしばらく重からんとする。しかし、その時エマオの道に歩みし弟子達の事を思った。最初はうつうつたる重き心をもって始まった彼らの旅路に、中途から主イエスが道連れとなり給うて、彼等の目は開かれ、心は燃やされたのではなかったか。我らは励まされた。しかして一人祈った。また一人祈った。斯くて、主の臨在はようやく近く、聖霊の傾注はまさに今一息に迫って来た事を感じた。更に一人祈り出した。一同の霊潮は実に極度に達した。俄然として聖霊は一同の上に注がれ、全会衆はかちどきの声をあげて一度に祈り出した。時に時計は丁度長短針共に重なり合って天を指していた。」
初代教会でも一同が「心を一つにして、神に向かい、声を上げて」祈ったことが記録されています。そのとき、「その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(使徒4:31)とあります。1922年から1923年にかけての除夜祈祷会の祈りはそのような祈りだったのでしょう。そしてこのときから教会に次々と救われる人が加えられていきました。聖霊のあらわれかたはそれぞれに違いますから、静かな祈りの中にも聖霊は働かれます。まず神を信じる者が神の前にひざまずいて祈るとき、人々が神のもとに帰ってくるのです。教会が生きておられるキリストを体験するとき、人々はその教会にひきよせられてくるのです。正統的な信仰は大切です。それがなければ、教会はどんなに熱心で活発であっても、ほんものの教会にはなりません。たんなる人間の団体で終わり、人々を救いに導く力をなくしてしまいます。しかし、その信仰がどんなに正統的であったとしても、神の前に出る姿勢が正しくなければ、それはヨハネの黙示録にあるサルデスやラオデキヤの教会のように「死んだ正統主義」(dead orthodoxy)となってしまいます。私たちは正しい信仰とともに、神の前に出る正しい姿勢、悔い改め、へりくだって神の前に出る姿勢が必要です。教団や教会は正しい信仰と正しい信仰の姿勢の両方を保ち、それを次の世代に伝えていかなければなりません。

 三、私たちの責任

 では、誰がそれをするのでしょうか。教団の指導者でしょうか。そうです。教団の指導者には、この世の知恵よりも、人間的な才能よりも、正統的な信仰と神の前に出る正しい姿勢が求められます。各教会の牧師たちでしょうか。そうです。牧師たちは、教会に正しい信仰を教え、正しい信仰の姿勢を示さなければなりません。しかし、それと同時に信徒ひとりびとりに、信仰を次の世代に継承していく責任が与えられています。

 信仰はしばしば「競走」にたとえられていますが、それは、短距離競走でないことは確かですね。信仰は若いとき、数年間活発に活動して終わりというものではありません。「私も若いころは熱心に教会に行っていたものだ。」と言うことばを聞くこともありますが、信仰の競走は世を去る最後の日まで続けられなければなりません。信仰の競走は「リレー競走」のようなものです。前の人から信仰のバトンを受け継いで自分の分を走り、そして次の人にその信仰のバトンを手渡していくのです。あなたは誰から信仰のバトンを受け取りましたか。私たちが今、ここで信仰の競走を走っているのは、この教団をはじめた戦前の信仰者たちがいてのことなのです。いいえ、もっとさかのぼって、イエス・キリストの弟子となった人々がいて、その人たちが命がけで信仰のバトンを守り、次の世代に引き継いだからなのです。私たちが今受け継いでいる信仰がどんなに重みのあるものかをしっかりと理解しましょう。

 では、私たちは誰にこの信仰のバトンを手渡すのでしょうか。まずは自分のこどもたちにでしょう。しかし、こどもたちに信仰のバトンを手渡していくのは、簡単ではありません。小さいころは素直に親のいうことを聞いていたこどもたちもティーンエージャーになると親に反抗し、信仰にも反抗するようになるかもしれません。大学にいくようになり、親元からはなれると同時に教会から離れてしまうことがあります。そのために心を痛めない親はありません。ほかのこどもたちが教会につながっているのを見て引け目を感じることもあるでしょう。しかし、あきらめないで祈り続けましょう。きっと信仰のバトンを受け取ってくれる日がやってきます。

 こどもが信仰を引き継いでいる姿を見るのは幸いなことです。しかし、「自分のこどもみな信仰を持っているから責任は果たした。」と考えないでください。教会にはこれからの教会を背負っていく若い人たちが大勢います。先輩のクリスチャンはそうした人々の良い模範になり、彼らを教え導く責任があります。私はいくつもの教会を見てきましたが、神が祝福しておられる教会にはどこも、そうした良い信仰の先輩がいて信仰の継承がよくできている教会でした。

 ところで、もし、皆さんが何かの病気であと数年しか生きられないと宣告されたらどうしますか。自分の持っているものを、きちんとこどもたちに継がせようとするでしょう。法律家に相談し、財産を整理して、書類を残し、準備をするでしょう。地上の財産でさえそうするなら、目に見える財産以上に価値ある信仰の財産のためには、本気になって、祈り、学び、そしてそれを語り伝えなければなりません。余計なことはしないで、ほんとうに大切なものを伝えようとするでしょう。最近、日本で伝道している知り合いの牧師からその教会のニュースレターと日々のデボーションを送ってもらいました。ニュースレターは隔月の発行で、デボーションは牧師みずからが書いており、毎月の発行で36ページにも及ぶものです。地方にある20~30名の小さな教会でよくこれだけのことができると感心しましたが、読んでいくにつれ襟を正される思いがしました。牧師が書いたものにも、信徒が書いたものにも、自分を深く見つめ、社会の問題にも真剣に取り組んでいる真面目な姿が見られたからです。現代は「楽しい」、「面白い」ものばかりがもてはやされますが、そこには、人の「受け」を狙ったようなものは何一つ無く、すべてが真剣でした。じつは、この牧師は難病のため医者から余命あと数年と宣告されている人なのです。彼にどれだけの年月が残されているのか誰にもわかりません。それだけにこの牧師は真剣に福音を語り、本当に大切なものを教会に遺していきたいと努力しているのです。デボーションにある「祈りの課題」には「牧師の健康が支えられるように」というだけでなく「福音が正しく語られ、正しく聴かれ、教会の応答がなされますように」とありました。彼は真理の継承に文字通り命をかけています。私はその姿勢に深く教えられました。

 私たちの誰も自分の人生の残り時間がどれほどなのかわかりません。ただ、毎年、毎月、毎日、毎時間ごとにそれが少なくなっていることだけは確かです。もし、時が限られていることを意識できたら、私たちはきっと本気になって自分の責任を果たそうとすることでしょう。神が、私たちひとりびとりに、私たちの責任を示してくださり、私たちが真理への熱意に燃やされますように。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、主イエス・キリストにご自分のすべての真理をお与えになりました。主イエス・キリストはその真理を使徒たちに引継ぎ、使徒たちはそれを監督たちに、監督たちはさらにそれを牧師たちに引継ぎました。私たちは牧師たちから教えられ、あなたからの真理を受け取りました。私たちに与えられている真理がどんなにかけがえのないものかを示してください。それを喜び、それを愛する心を与えてください。そして与えられた真理を次の世代に手渡すことができるための知恵と力を与えてください。聖霊の助けを願い、主イエスのお名前で祈ります。

4/26/2009