使徒的教会

テモテ第二2:1-2

オーディオファイルを再生できません
2:1 ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
2:2 多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。

 一、真理の器

 使徒信条は、教会を「聖なる公同の教会」と言っていますが、ニケア信条では、教会を「ひとつの、聖なる、公同の、使徒的教会」と告白しています。「使徒的」という言葉には、「真理に立つ」という意味があります。真理はキリストによって使徒たちに伝えられ、使徒たちは、それを後継者に伝え、その後継者はまた次の人へと伝えてきました。「使徒的教会」とは、教会が使徒たちに、ひいてはキリストにまでさかのぼることができる救いの真理を保つ器として選ばれていることを指しています。

 教会は真理の器となるため、神からさまざまなものを与えられています。そのうちのいくつかをあげてみますと、第一に、イエス・キリストの証人たちです。イエスご自身は、一冊の本も、一通の手紙も書きませんでした。イエス・キリストの教えはすべて口頭で語られ、弟子たちはそれを耳で聞いて、覚えました。二千年前には、イエスがなさったことを映像に記録する方法はありませんでしたので、イエスのみわざを見た人たちがそれを心に記録し、言葉で表現したのです。教会は、イエス・キリストの直接の目撃者、証人によって真理を保ち、それを伝えてきました。キリストの直接の目撃者は、やがて世を去っていきましたが、その後の人々も、信仰によってキリストに出会い、「キリストの証人」となりました。ヘブル12:1に「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」とあるように、教会は、21世紀の今日も、キリストの「証人」たちの群れなのです。

 第二に、教会には、聖書があります。聖書は世界のベストセラーで、信仰を持つ人も、持たない人も、教会内でも教会外でも、多くの人が聖書を翻訳し、研究し、論文を書き、書物を書いています。しかし、クリスチャンでない人たちが書いたものは、興味深く書かれてはいても、大切なところで、的を外しているように思います。そうしたものは、教養として聖書を説いているだけで、人を信仰に導き、希望を与え、愛に生かすものとして聖書を語ってはいません。聖書を神の言葉として解き明かすことができるのは、聖書の本来の著者であり、教師である聖霊によらなければできません。教会は、聖霊によって、聖書を生み出し、保存し、翻訳し、解き明かしてきました。教会はそのことによって、真理を保ってきたのです。

 第三に、教会には、組織、秩序、伝統があります。教会は最初は使徒たちによって指導されていましたが、人数が増え、全地にひろがるにつれて、監督、長老、牧師、教師、執事などと呼ばれる人々が立てられました。教理的な問題が起こったときには、使徒たちと長老たちが集まり、会議を開いて結論を出しています。

 使徒たちは、また、教会の具体的な諸問題について指示を与えました。その多くは口頭での指示でした。テサロニケ第二2:15と3:6には「ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい」「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい」とあります。ここで「教え」と訳されている言葉は、以前は「言い伝え」と訳されていました。ユダヤの人々が自分たちの「言い伝え」を重んじて神のことばをないがしろにしていたのを、イエスが戒めたことから(マルコ7:13)、「言い伝え」という言葉が否定的にとられるので、「教え」と訳したのでしょう。しかし、この箇所は、教会には、正しい意味での「言い伝え」、聖なる「伝統」があって、教会はそれによって秩序を保ち、真理を保ってきたことを教えています。

 そして、何にもまさって、教会には聖霊がおられます。教会は聖霊によって生まれ、聖霊に導かれてきました。使徒の働き15章のエルサレム会議の決議文には「聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました」(使徒15:28)と書かれています。教会が決めたことは、人間の合意以上のもの、聖霊によることだったのです。

 二、真理の証人

 私は「教会は真理の器である」と言いましたが、それに対して、「真理の言葉である聖書さえあれば、教会は無くても人は救われる」と言う人もあるでしょう。私は若いころキリスト教のラジオ番組を聞いたり、通信講座で聖書を勉強し、イエス・キリストが救い主であることを知りました。それは、私が教会に行く前のことでした。けれども、そのラジオ番組も通信講座も、教会によって準備されたものだったのです。とくにアメリカの教会が、戦後の日本の救いのため、スポンサーになって運営してくれていました。ですから「聖書さえあれば、教会は要らない」と言うことはできません。

 聖書は神の言葉であり、信仰と生活の最終的な権威です。教会は聖書を生み出したとはいえ、教会もまた、聖書の権威のもとに服さなければなりません。聖書には、私たちに必要なすべてのものが含まれています。聖書は、たんなる書物ではありません。聖なる書物、命の文です。それは私たちを救いに導き、救われた者を育てるものです。しかし、信仰には、書物によってだけでは伝えきれないものがあります。人格である神は、文字によってだけではなく、人格によって現され、証しされなければなりません。神はそのために教会に属する人々を用いられるのです。

 パウロは数多くの手紙を諸教会に宛てて書きました。パウロの信仰も、生き方も、情熱も、その手紙の中にしるされています。しかし、パウロは手紙を書き送るだけでは十分ではないと考えました。パウロはテモテを、コリントに、エペソに、ピリピに、また、テサロニケに遣わしています。コリント第一4:17に「そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう」とあります。テモテは、パウロの代理として、諸教会を教え、導き、また、慰め、励ましました。人々はテモテの人柄の中に、パウロの心を見たのです。教会には神の言葉があり、聖霊が共にいてくださいます。しかし、それと同時に、神の言葉に生き、聖霊に満たされた「人」がいます。神は、この「人」を用いてくださるのです。

 信仰は「人格」から「人格」に伝えられます。教会が真理の器であるように、教会を形作っている信仰者ひとりひとりも真理の器です。器である私たちは、金の杯や銀の皿のような立派なものではないかもしれません。見事な模様が描かれた磁器のように美しいものではないかもしれません。わたしたちは、いわば素焼きの壺のようなもので、欠けていたり、ひび割れができているようなものかもしれません。しかし、神は、そんな私たちに「福音」という宝を与えてくださったのです。

 こんな話があります。イエスが天にお帰りなった時、天使たちがイエスを迎えて言いました。「イエスさま。いよいよ福音を宣べ伝えるときになりましたね。私たちはどこへ行って、どのように福音を伝えましょうか。」すると、イエスは答えました。「いや、福音を伝えることは、地上のわたしの弟子たちに任せてきた。」天使たちは驚いて、「なんですって!あなたの弟子たちは、あなたが十字架にかかられたとき、あなたを見捨てたような人たちではありませんか。もし、弟子たちが同じ失敗をしたら、どうなるんですか。」憤慨する天使たちにイエスはこう言われました。「罪の赦しの福音は、罪の赦しを体験した者でなければ、宣べ伝え、証しすることはできない。罪のない天使にはできないことなのだ。もし、彼らが失敗したとしても、彼らに任せるしか方法はないのだよ。」

 弟子たちは、そのままでは、迫害を恐れ、福音を宣べ伝えることはできなかったでしょう。しかし、聖霊によって力づけられ、その使命を果たしました。福音は、「人」から「人」へと伝えられました。教会を通して人々が救われていきました。地上の教会には欠けも、過ちも、失敗も、罪もあるでしょう。しかし、教会は、人々に救いの真理を示す神の選びの器であろうとしてきました。

 三、真理の継承

 そして、そのことを、真理を継承することによって果たしてきました。パウロはテモテを「兄弟」や「同労者」と呼んだだけでなく、「わが子」、「真のわが子」、「愛する子」、「忠実な子」と呼んでいます。これは、パウロのテモテに対する人間的な愛情を表すだけではなく、テモテが使徒パウロの公けの代理人、また後継者であることを言い表しています。そのテモテに、パウロは「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい」(テモテ第二2:2)と命じました。パウロからテモテに引き継がれた真理は、こんどはテモテから「教える力のある信頼できる人たち」へと引き継がれていくのです。教会は、そのようにして、使徒からその後継者、その後継者からまた次の後継者へと真理を引き継いできました。教える者と学ぶ者があり、指導する人と訓練を受ける人がいて、学ぶ者がやがて教える者となり、訓練を受ける人がやがて指導する人になっていく、そんなしかたで、人から人へと真理が継承されてきたのです。「使徒的教会」というのは、そのように真理を継承している教会のことなのです。

 詩篇96:1-3にこう歌われています。「新しい歌を主に歌え。全地よ、主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざを、あらゆる民の間で。」ここには二種類の伝道が描かれています。ひとつは、「主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざを、あらゆる民の間で」とあるように、ある地域から他の地域へと広がっていく伝道です。エルサレムから始まった福音はイスラエルだけでなくアジア全土に広がり、アジアからヨーロッパに伝わり、ヨーロッパからアメリカに、そして再びアジアに伝えられました。もうひとつは、「日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ」とあるように世代から世代への伝道です。親から子へ、おとなから子どもへ、先の世代から次の世代へと、神のことばを伝えていくことです。

 宣教の大命令に「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とあり、弟子たちは、「ユダヤ、サマリヤ、地の果て」までも福音を伝えました。「地の果てにまで」(to the end of the world)という使命は、教会が忘れてはならないものです。しかし、各地に根付いた教会は同時に、次の世代を育て、真理が「世の終わりまで」(to the end of time)引き継がれるようにしてきました。「伝道」と「信仰の継承」は決して対立するものではありません。むしろ互いに助け合うものです。伝道は同世代の多くの人々に福音を届けることであり「横の信仰継承」です。信仰の継承は次世代に真理を伝達していくことであり、それは「縦の伝道」です。もし、教会に信仰の継承がなければ、教会はどんなに大きくなり、地域に影響力を持つようになったとしても、一時だけ、一世代だけのもので終わってしまいます。「使徒的教会」は、そんな教会ではなく、世の終わりまでも、福音の真理を伝えていく教会なのです。

 信仰はしばしば「競走」にたとえられますが、私は、それは「リレー競走」のようなものだと思います。前の人から信仰のバトンを受け継いで自分の分を走り、そして次の人にその信仰のバトンを手渡していくのです。私たちは、宣教師や牧師、親や先輩たちから信仰のバトンを受け取りました。教会で信仰を養われ、支えられ、導かれてきました。それは、この地に教会を建て、それを守ってきた人たち、もっとさかのぼれば、イエス・キリストの最初の弟子たちが信仰のバトンを守り、次の世代に引き継いでくれたからです。では、私たちは受け取ったバトンを、誰に渡そうとしているでしょうか。子どもに、孫に、次の世代の人々に、それをしっかりと引き渡しているでしょうか。信仰の継承、真理の伝承のために、具体的に何ができるでしょうか。そのことをしっかりと考え、祈り、「使徒的教会」の一員としての役割を果たしたいと思います。

 (祈り)

 主イエス・キリストの父なる神さま。きょう、私たちは教会が「使徒的」なものであることを学びました。教会が主イエスから使徒たちに手渡された真理を守り、それを身をもって証しし、次の世代に引き継ぐことができるよう、私たちをなおも、教え、守り、導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/9/2019