奉仕する人に必要なもの

テモテ第二2:1-7

2:1 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
2:4 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。
2:5 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
2:6 労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。
2:7 私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。

 教会の新年度が来週から始まります。今日は、新年度に備えて執事、理事、教団総会代議員を選びます。執事は教会の運営に、理事は管理にかかわる大切な奉仕をしてくださる方々です。教団総会代議員は、サンタクララ教会を代表して教団総会に出席し、議決にかかわります。執事の任期は2年で、日語部では毎年半数の3名が改選され、理事の任期は3年で日語部からは3名の理事が出ていますので、毎年1名づつ改選されます。教団総会代議員はアクティブ・メンバー50名に対して1名を毎年選びます。教会は、神の家族、キリストのからだで、単なる組織、団体ではありませんが、私たちは教会を守り、効果的に伝道を進め、カリフォルニア州政府に登録された非営利団体として、社会的にもきちんと組織を保っていく責任があります。それはクリスチャンの社会に対するあかしであると思っています。

 しかし、執事、理事、そして、教団総会に出席してくださる代議員の方々を選べばそれで、メンバーの仕事が終わったわけではありません。執事、理事の方々、代議員の方々はメンバーに代わって数多くのことをしてくださいますが、それでも、執事、理事、代議員の本来の仕事は、メンバーのひとりびとりが奉仕してくださる、その奉仕の調整役となることです。執事、理事が教会の全部の仕事を引き受けて働くわけではありませんし、そんなこともできません。男子会や婦人会といったグループも同じで、それぞれに新年度の役員が立てられるでしょうが、やはり、役員だけが仕事をするのでなく、メンバーのみんなが奉仕してはじめて、その会は生き生きとした活動ができると思います。

 教会はみんなに役割が与えられていて、みんながその役割を果たしていくところです。そんな意味では、みんなが「役」がある「役員」であり、みんなが「役」割を演じる「役者」、アクター、アクトレスなのです。教会には「観客」だけの人はいないのです。今朝は、教会で奉仕をする私たちにどんなものが必要かを考えてみたいと思います。

 皆さんは「奉仕をする人に必要なこと」というと、どんなことを思い浮かべますか。ある人は真っ先に「能力です」と言うかもしれません。またある人は「時間ですよ」と答えるでしょうか。「リーダーシップ」だと言う人もいれば、「やっぱり人望がなければ」と言う人もいるでしょう。そして、よく聞かれるのは「私には能力がありません。時間がありません。リーダシップも人望もありません。ですから、このご奉仕はいたしかねます」ということばです。しかし、今朝の箇所には奉仕をする人に必要なのは、能力でも時間でも、リーダシップでも人望でもない、もっと別のものだと教えられています。それはなんでしょうか。順にとりあげていきましょう。

 一、献身

 奉仕をする人に必要なものの第一は「献身」です。3節と4節をごらんください。「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」キリストへの献身を教えるのに、聖書は「兵士」を例にあげています。兵士には、頑丈なからだ、強固な意志などが求められるでしょうが、やはり、なにより大切なのは、指令官への献身です。ひとりの兵士が、自分の身を守ることだけを考えて行動することによって、その部隊全員を危険な目にあわせることがあります。ひとりの兵士が功績をひとり占めしようとして、その部隊全体を窮地に陥れることもあるでしょう。兵士に求められることは「自分を喜ばせる」ことではなく、司令官を喜ばせようとすることです。同じように、キリストの兵士とされた私たちも、自分のためではなく、キリストのために生きるという基本的な姿勢を保っていなければなりません。私たちの司令官であるキリストを喜ばせようと生きること、それが献身です。

 「献身」というと牧師や宣教師になることと受け取られがちですが、聖書はもっと広い意味で献身ということばを使っています。それは、自分の生活の目的を変えることです。いままで自分のためにしてきたことを神のためにすることです。自分を中心に生きてきた生き方をキリストを主として仕える生き方に変えることです。献身したから仕事をやめるとか、家庭を捨てるとかいうのではありません。キリストのためにその仕事をし、家庭を神の栄光の現われるところにしていくのです。神は献身した牧師、宣教師を必要としておられますが、同時に献身した会社員、献身した主婦を求めておられるのです。

 教会での奉仕というのは、そのような献身の思いから出てくるのです。奉仕する人に必要なものは能力よりも、キリストに喜ばれたいという献身の思いでしょう。この思いがあれば、能力やタラントはついてきます。神が、全能の神が、恵みの神が、奉仕に必要な賜物をお与えくださるのです。

 二、自制

 奉仕する人に必要な第二のものは自制です。5節に「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」とあります。ここではスポーツの選手が例にあげられています。スポーツの選手は競技に出るためにどれだけ練習を積むことでしょうか。たった一回の、ある場合にはほんの一瞬で決まってしまう勝負のために何年も何年もひたすら練習に励むのです。コリント第一、9:25-27にこうあります。「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」神に仕えたいと願うクリスチャンにもまたスポーツ選手のような鍛錬が必要なのです。

 テモテへの手紙第二、2:5に「規定に従って競技をしなければ」とありますが、スポーツの選手には練習の時の厳しさと共に、実際の競技の時にもルールに従うという厳しさが求められいます。どんなに優れたスポーツマンでも、ドーピング検査に引っかかれば賞を剥奪され、ルールどおりにやらなければ「反則負け」ということがあるのです。今日、賜物豊かで、人をひきつける魅力のある説教者たちが、脱税や女性問題など、思わぬ落とし穴にはまりこんで駄目になってしまうのを見聞きします。アメリカには、恐ろしいことですが、サタンを父と呼ぶサタニズムの人々が実際にいて、有力な教会や牧師たちの名前をあげ、そうした教会を潰し、牧師たちをだめにしようと祈っているのだそうです。ですから、私たちはそうした人々にまさって祈らなければなりませんし、奉仕をする上で人間的なおごりや、支配する心、党派心、あるいは怠け心などと戦っていかなければなりません。御霊の実である「自制」をいただきながら、奉仕を続けさせていただきましょう。

 三、忍耐

 奉仕する人に必要な三つのものの最後は「忍耐」です。そして忍耐の例として「農夫の忍耐」が6節で教えられています。「労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」

 ヤコブ5:7にも農夫の忍耐が書かれています。こう書かれてています。「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」農夫は土を耕し、苗を植え、水を注ぎ、肥料をやり、雑草を取り除き、害虫を駆除し、剪定をします。農作業というものは大変な労働です。他の仕事だったら、働いたら働いた分だけ、すぐに結果が得られるかもしれませんが、農業は違います。どんなに懸命に働いても、それですぐに収穫を得られるのではありません。時がこなければならないのです。実りの時、収穫の時まで、たゆみなく働きながら待たなければならないのです。

 神のために働く場合も同じです。家庭集会をしたからすぐに10人、20人と人が集まるわけではありません。救われる人が起こされるようにと祈って奉仕をするのですが、祈りが答えられるまで何年もかかるかもしれません。すべてのことには神の時があって、それを忍耐して待つことが、奉仕をする人には求められているのです。結果が見えなかったからすぐやめてしまった、負担になってきたから投げ出した、人から何か言われたから奉仕からおりた―そういうことだと結果を見ることはできません。やめてしまいたくなるような場面でも、そこで忍耐を働かすことができたら、あるいは、大きな結果を見ることができたかもしれません。エドモンド・バークと言う人は「私たちの忍耐は、私たちの能力よりももっと物事を達成する」と言いました。ある人も「奇跡が起こる5分前にやめてはいけない」と言いました。もう5分忍耐できたら、神の大きなわざを見ることができたかもしれないのです。教会での奉仕に忍耐を加えましょう。

 私は日本で伝道していた時にある人に「伝道の秘訣は何ですか」と尋ねたところ「止めないことだよ」という返事をもらったことがあります。私はもっと他の答えを期待していたので、最初それを聞いて、不満でした。しかし、25年以上も伝道に携わってきて、「止めないこと」というのは、本当だなと思うようになってきました。「忍耐」というのは、何もしないでただ待っているだけという消極的なことではありませんね。ひとつのことを最後まで保ちつづけ、持ち運び続けるという、大変な力のいることです。しかし、奉仕に忍耐を働かせるなら、かならず収穫を得ることができるのです。

 「忍耐」もまた御霊の実ですね。兵士の献身、選手の自制、そして農夫の忍耐を求めながら、キリストへの奉仕に励むお互いでありましょう。

 (祈り)

 父なる神様、教会の旧年度も祝福のうちに終え、新しい年度を迎えることができますことを感謝いたします。新しい年度も、これから選ばれる執事、理事の方々と共に、私たちひとりびとりを奉仕のわざにつかせてください。献身も、自制も、忍耐も足らない私たちですが、あなたの御霊によって献身と自制と忍耐を与え、あなたへの奉仕をよろこんでささげるものとしてください。主キリストの御名で祈ります。

5/27/2001