祖母と母の信仰

テモテ第二1:1-8

1:3 私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
1:4 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。
1:5 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
1:6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
1:8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

 1907年のことです。その二年前の5月9日になくなったアンナ・リーブス・ジャービスさんのメモリアル・サービスが行われていました。メモリアル・サービスのために、美しい花が飾られていたのですが、娘のアンナ・メイ・ジャービスさんは「母の愛はこの花のように純粋で美しかった」と、母親の思い出を語り、そのような母親を与えてくださった神に感謝しました。アンナ・メイ・ジャービスさんのスピーチは、メモリアル・サービスに来ていた人の心を打ち、翌年からフィラデルフィアでは、母親に感謝する「母の日」が守られるようになりました。母の日は、次第に広まり、1913年にはペンシルバニアのステイト・ホリデーになり、翌年1914年に、ウィルソン大統領によって、国民の祝日、ナショナル・ホリデーに定められました。

 私たちは、母の日が来るたびに、自分の母親のことを思い、また、私たちに母親を与えてくださった神の愛を思い感謝したいと思います。母の日というと、ご婦人がただけに注目が行くようですが、男性だって母親から生まれたわけですから、女性も男性も、子どもを持っていない人も、持っている人も、一緒に、母の日を祝いたいと思います。

 一、母から受けたもの

 母の日を祝うにあたって、私たちが心に覚えたいのは、私たちが母親から受け継いだものを感謝するということです。聖書に「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか」(?コリント4:7)ということばがありますが、私たちが「自分のものだ」と言っているものの多くは自分で勝ち取ったものというよりは、母親から与えられたものです。私たちはどんなものを母親から受けたでしょうか。第一にそれは、私たちのからだでしょうね。私たちの母親は、私たちのからだをその胎内で9ヶ月間はぐくんでくれたわけですから、そのことを感謝しなければなりません。

 第二に、私たちは母親から多くの実際的な世話を受けました。発達心理学の学者たちが「人間はみな未熟児で生まれてくる」と言っていますように、赤ちゃんは生まれてから一年近くも立って歩くことができず、親から食べさせてもらわなくてはなりません。他の動物の赤ちゃんが見る間に自分の足で立ち上がり、間もなく自分で餌を食べることができるのと大違いです。三歳になっても、五歳になっても、七歳になっても、人間は一人前ではありません。親の世話がなければ何もできません。二十歳を過ぎて、あるいは三十をすぎて、やっと親から独立できるのですから、本当に、人間は「超」未熟児です。そんな私たちを、世話してくれた母親の恩を忘れてはなりませんね。

 第三に、私たちは母親から、からだとその世話だけでなく、精神的なものを受けています。学校やクラブで何かが出来た時「良かったね」と言って誉めてくれた母親、逆に、うまくいかなかった時も「大丈夫だよ、また頑張ればいいからね」と慰めてくれた母親、そんな母親のやさしさによって、私たちは人生を生き抜く力をあたえられて来ましたね。

 私は、母親の子どもに与える精神的な影響ということを考えたとき、『五体不満足』というベストセラーを書いた乙武さんのお母さんのことを思い起こしました。生まれつき、手足を持たないで生まれてきた乙武洋匡(おとたけ ひろただ)さんのことは皆さんご存知ですね。彼の書いた『五体不満足』という本は多くの人々の共感を呼び日本では467万部も売れ、英語でも No One's Perfect というタイトルで出版されています。英語のほか、いろんな国のことばに訳され、韓国でも、1999年度ナンバー・ワン・ベストセラーだったそうです。

 私も『五体不満足』を読みましたが、三歳のころから電動車椅子に乗って生活してきた人とは思えない、著者の明るさに感心しました。そして、彼のこの明るさは母親から譲り受けたものだということを知りました。彼が生まれた時、医者は長い間、彼を母親に会わせませんでした。からだに異常のある赤ちゃんを見せたら、母親にショックだろうと考えたのでしょう。ところが、そういう気遣いは彼のお母さんには不要でした。お母さんは、赤ちゃんの乙武さんを見て「まあ、かわいい」と言って彼を抱きしめたと、その本にありました。お母さんは、彼をあるがままに受け入れ、愛し、決して、彼をからだに障害のあるこどもとして特別扱いしなかったそうです。乙武さんのお母さんは、子どもに満足なからだを与えられなかったことを、あるいは悔やんだかもしれませんが、彼女は、それを補ってあまりある精神的な力を、彼に与えることができたのです。

 それぞれ、環境も、事情も違いますが、私たちも、同じように、母親から多くの励ましや慰めを受けて来ました。それを心の糧として大人になることができたと思います。また、皆さんの中には、母親の愛を直接には受けられなかった方もいらっしゃるかと思いますが、その場合でも、母親に代わって育ててくれた人、母親のような愛情を注いでくれた人が、身近にいてくださったことと思います。神の家族である教会にも「教会のお母さん」と呼んでもいいほどに、私たちのことを気遣い、世話し、慰め、励まし、そして私たちのために祈っていてくださる方が多くいらっしゃいます。そのことにも感謝しましょう。

 二、母が子に与えるもの

 さて、第四に、母親は精神的なもの以上のもの、つまり、霊的なものや神を信じる信仰を子どもに、孫に与えることができるということが聖書に書かれています。今日の個所で、使徒パウロは弟子テモテにこう書いています。「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」(?テモテ1:5)信仰は、個々人が神に対して持つものですが、それと同時に信仰が母親から子どもへと伝えられていくという面もあるのです。

 人々は「信仰」というと、仏教やキリスト教、イスラム教と言った宗教の教えを受け入れること、それを信じ込むことだと考えています。しかし、本来の意味での信仰とは「信頼」ということです。社会は信頼関係で成り立っています。家庭では夫が妻を、妻が夫を信頼しなければ、親が子を、子が親を信頼しなければ、その家庭はどんなにお金があり必要なものが揃っていても、家庭として成り立ちません。会社でも上司が部下を、部下が上司を信頼しなければ仕事は進みません。神を信じる信仰は人間の世界に見られる信頼を飛び越えたものではなく、その延長上にあると思います。ですから、家族の中で互いに信頼しあうことを教えられてきた人は、私たちが信頼して決した裏切られることのない神を知った時、素直に、この神に信頼し、この神の信頼に答えようとすることができるのです。ですから、子どもは母親に信頼することを通して神への信頼を学び、母親がいろんな場面で神に信頼しながら生きていく姿を見ることによって信仰に導かれていくのです。

 使徒パウロは、テモテの中にやどっている信仰は、最初おばあさんのロイスと、お母さんのユニケに宿ったものだと言っています。ここにはテモテの父親の名前がありませんが、テモテの父親はギリシャ人で、おそらくテモテが成長していく時にはまだ信仰を持っていなかったのでしょう。もちろん、信仰を受け継がせるということにおいて父親の役割も大きいのですが、母親の役割はもっと大きいようです。子どもは父親と過ごす時間よりも、母親と過ごす時間のほうが圧倒的に多いからです。母親が、普段の生活の中で、神に祈り、助けと導きを求めて生きている、その姿が子どもに、人生において一番たいせつなもの、信頼、信仰を教えるのです。

 このように私たちは母親から多くのものを受け継いでいます。たとえ、私たちが母親とうまくいかなかった苦い経験を持っていても、母親に反抗してきたとしても、そうした経験や反抗を通しても、私たちは自分の人格を磨き、また独立していくことを教えられてきたのです。母親に多くのものを負っている私たちは、聖書が教えるように「あなたの父と母を敬え」という神のいましめを、この日、心にしっかり留めておきたいと思います。

 三、母を与えてくださった神

 母の日に私たちは母親から受けたものを感謝します。しかし、それと共に、私たちに母親を与えてくださったことを神に感謝します。私たちは、母親から多くのものを受けましたが、その母親の背後にいて、母親と変わらない愛、いいえ、母親以上の愛で私たちを愛していてくださった神に感謝と賛美と礼拝をささげましょう。

 私たちは、母親からこのからだを受けました。けれども、私たちを母の胎内で形作ってくださったのは、神です。聖書に「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇139:13-16)としるされている通りです。

 私は、高校生の時聖書を学びはじめたのですが、その時、キリスト教のラジオ番組をいくつか聞いて、その中のひとつに手紙を書いて小さな本を送ってもらったことがあります。そこには、赤ちゃんのからだが母親の胎内でかたちづくられていく様子が書かれていて、神がいらっしゃらなければ、命も、私たちも存在しないと説明されていました。私は本当にそのとおりだと思いました。そして、神が私に命を与えてくださったということに何かしら安心感のようなものを感じました。私は、母親を小学生の時亡くししましたが、私を造り、私を支えてくださる、母親以上の大きなお方がいらしゃるということに、よりどころを見出すことができたのです。

 この世に生まれてくる赤ちゃんのすべては、神からの命を受けて生まれてくるのですから、祝福されて生まれてくるはずなのですが、実際は残念ながら、そうでない赤ちゃんもいます。いわゆるティーンエージ・プレグナンシィで「望まれないで」生まれてくる赤ちゃんも多く、中にはアボーションによって命を絶たれたり、捨てられたりする赤ちゃんもあります。最近、ある姉妹が「私も結婚関係の外で生まれてきて、すぐ養子に出されました。けれども私は、神が私を造ってくださり、神の計画のもとに生まれてきたことを知っています」とあかししてくれました。私たちは、たとい、母親が誰だかわからなかったとしても、神によって生まれてきた、神が私の父ともなり、母ともなっていてくださるということによって生きる力を受けることができるのです。

 神は言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15)聖書は、神を「父」であると教え、私たちも神を「父なる神様」と呼びます。確かに神は私たちの父であり、私たちを大きな愛で導いてくださいます。しかし、それと同時に神はまるで母親のようにも、私たちのことを事細かに心配し、世話してくださるお方でもあるのです。両親の愛に恵まれた人は、神があなたの両親のように、またそれ以上にあなたを愛していてくださることを知りましょう。そうでなかった人は、人間の愛に勝る神の愛で心を満たしていただきましょう。神の子となって、神にあなたの父とも、母ともなっていただき、神の愛に憩おうではありませんか。私たちは、神の大きな、深い愛をうけてはじめて「父、母を愛し敬う」という神の戒めを守ることができるようになります。母の愛から神の愛へと導かれ、神の愛から父母への愛へと導かれてまいりましょう。

 (祈り)

 父なる神様、私たちに母親を与え、私たちを生かし、育て、導き、励ましてくださっていることを感謝します。母の日に、地上の母親に感謝すると共に、地上の父親、母親以上の大きな愛、深い愛で私たちを愛していてくださっているあなたに感謝し、あなたを賛美します。私たちがあなたを愛するにつれて、あなたのお与えくださった地上の両親を、さらに深く愛するものとしてください。あなたに近づくにつれて、私たちも、あなたにならって良き父親、母親、あるいは、若い人々の良き友、導き手としてください。私たちにあなたの愛を示してくださったイエス・キリストの御名によって祈ります。

5/13/2001