御国が来るのを

ペテロ第二3:8-13

オーディオファイルを再生できません
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

 一、「神の国」の優先性

 きょうは「神の国と神の義を…」を賛美しました。これはマタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」をそのまま歌ったものです。「神の国とその義とを第一に求めなさい。」このことばは、じつは「主の祈り」の精神を言い表していることばです。「主の祈り」の最上のコメンタリー(注解)だと言ってよいでしょう。

 「主の祈り」の六つの願いのうち、最初の三つは、「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「みこころが…行われますように」とあるように、「あなたの」ということばで始まっています。神のお名前があがめられること、神の国が来ること、神のご意志が行われることを願い求めています。「私の…」「私たちの…」と、自分の必要を祈る前に、まず、神をあがめ、ほめたたえ、神を主として神に従うことができるよう祈るのです。そうすると、残りの三つの願い「私たちの糧」「私たちの赦し」「私たちの守り」も必ず与えられるのです。「神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあるとおりです。「御名」「御国」「御心」を第一にするとき、「これらのものすべて」、つまり、私たちの必要のすべてが、与えられるのです。イエスが「主の祈り」で教えようとされたのは、何を第一にするかという順序でした。

 私は高校生のときにはじめて教会に行きました。そして、日曜日の礼拝とともに毎週土曜日に行われていた「高校生の会」に加わりました。そのころは、「高校生会」の OB だった大学生たちがリーダをしてくれていました。その「高校生会」は宣教師がつけた "JOY CLUB" という名前で呼ばれていました。なぜ "JOY CLUB" かというと、"Jesus First, Others Second, and Yourself Last." というモットーの最初の文字を組み合わせると "JOY" になるからです。"Jesus First," 神を第一にする、"Others Second," 他の人を第二にする、 "Yourself Last." 自分を最後にするとき、そこに "JOY" 喜びがやってきます。もし、私たちが喜びを失っているとしたら、それはどこかで、この順序を取り違えているからではないかと考え直してみるとよいのです。「主の祈り」は、神を第一にする祈りです。自分を最後に置く祈りです。けれども、それで、私たちの必要が無視されるのではありません。この順序を守ることによって、かえって私たちの求めるものが豊かに与えられるのです。「神の国とその義とをまず第一に求めて」祈る「主の祈り」は、「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」という約束を伴った祈りなのです。

 二、「神の国」の意味

 さて、次に「御国」という言葉の意味を考えてみましょう。「国」と訳されている言葉には、「支配」という意味があります。「国」には領土があり、「国民」がいて、そして、そこを治めるシステム、つまり、「主権」や「支配」、「制度」があります。神の国の領土は「天と地」のすべてです。その国民は天の聖徒たちと天使たち、地上では、キリストの救いによって、神の国の国籍を与えられた人々です。神の国の主権と支配は神ご自身です。「主の祈り」の最後に「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」(マタイ6:13)とあるとおりです。

 聖書は「まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。」(詩篇22:28)「主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。」(詩篇103:19)と言って、神が国々を、世界のすべてを治めておられると宣言しています。そうであるなら、なぜ、なお私たちは神の国を、神の支配を願い求める必要があるのでしょうか。たしかに、神は世界を治めておられます。それは変わらない事実です。しかし、神の主権に逆らって自らを主権者とし、神に背を向け、神の支配を拒否している力があり、領域があるのも事実です。神の敵であるサタンはみずからを「この世の神」とし、「空中の権威」を持っていると主張しています。「神の支配」を「独裁」だと決めつけ、人々に人間に神の支配から自由になるようにとそそのかしています。神の国は暗くて、退屈で、何の楽しみもないと宣伝しているのですが、決してそうではありません。神の国は、義と、平和と、聖霊による喜びが支配するところです。この神の国の喜びを味わった人々は二度とそれを手放すことはできません。イエスは、すばらしい値うちの真珠を見つけた人が、自分の全財産を売り払ってそれを買ったというたとえ(マタイ13:46)を話していますが、それは、神の国の喜びを語っています。神に愛され、神を愛する喜びは、地上のどんなものとも取り替えることができないほど素晴らしいものなのです。

 人々は、神の支配を斥ければ、いっさいの束縛をまぬかれて自由になれると思い込んでいますが、そこにはほんとうの自由はありません。実際は、罪や欲望、死や恐れに縛られているのです。テレビや新聞で報道されている残念な出来事の大半は、そうした人間の罪や愚かさから出てきたもので、それは、人類は何千年の歴史を経ても、自分の力でその束縛を打ち破ることができないでいることを示しています。

 イエス・キリストは、人類を罪から解放するためにおいでになりました。そして、神の国の福音を宣べ伝え、使徒たちにも宣べ伝えさせました。イエスは言われました。「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたし(キリスト)を信じる信仰によって、彼らにに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒26:18)「御国が来ますように」との祈りは、人々が暗闇から光に導かれ、罪を赦され、神の義を受け、聖なるものとされて、神の国を受け継ぐ者となることによって、神の支配が広がりますように、ついには人間の罪の闇が追い払われて、神の義の光が世界を支配しますようにとの祈りなのです。

 三、「神の国」を願う祈り

 では、私たちはどのように、この祈りを祈るのでしょうか。第一に、神の国を受け入れる人が増えるようにと祈ります。イエスの宣教の第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。「神の国は近くなった」というのは、「神の国はもう来ている」という意味です。イエスは神の国の王です。王が来たからには、もうそこに神の国はあるのです。イエスがなさった数々の奇跡は神の国がそこにあることのしるしでした。イエスは「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12:28)と言われました。神の支配はもうこの地に及んでいるのです。神の国の祝福は、後になって得るものではなく、この地上でも受け取ることができるものです。ところがイエスの時代には、神の国を受け入れない人々がいました。イエスはその十字架と復活によって神の国の扉を開いてくださいました。イエス・キリストを信じる者は、神の子どもとなり、神の国の相続者となり、神の国に迎えられるのに、それを知らない人がいる、それを拒む人がいるというのは何と残念なことでしょうか。「御国が来ますように」との祈りは、この人も、あの人もイエスを信じて神の国に入れますようにとの祈りです。

 第二に、イエス・キリストが再びこの世に来て、神の国が完成するように祈りましょう。世界は今、さまざまな問題で悩んでいます。暗闇が覆っています。「この世は闇だ」といったことばは昔から言われてきましたが、今はあらゆる面でその闇がいっそう濃くなっているように思います。しかし、必ず夜明けは来ます。今がいちばん暗い時代だったとしても、大丈夫です。夜明け前が一番暗いと言われますから、夜明けが近いのです。今も、神の国はイエスを信じる人々を通して働いています。信仰者の多くがここ、かしこの暗闇の中でともしびとなって輝いています。一所懸命輝いても、ほんの少しの部分にしか光を届けられないもどかしさを感じることもあります。しかし、イエス・キリストが来られるときは、すべてが光になるのです。二千年前にイエス・キリストがはじめてくださった神の国が完成するのです。その日が一日でも早く来るようにと、私たちは願わずにはおれません。

 第三に、神の国にふさわしく生きることができますようにと祈ります。私たちはもうすでに神の民にされました。イエスとともに天に生きるものとされています。ですから、この地上で天の歩みを始めるのです。この世にあって神の民として生きるのです。しかし、まだ神の国の完成を見ていません。この世は神の国と相容れないものを持っており、その世に私たちは生きています。そこには緊張があり、闘いがあります。この世にある間、この世のもののように生きていれば、緊張もなく、闘いもなく楽に生きられるでしょう。しかし、神の国の素晴らしさを味わった者にはそれができないのです。「もうすぐ日本に行くので、今のうちからできるだけ日本語を使っておきたい、日本の習慣を身につけたいので教えてほしい」と言ってきた人がありましたが、神の国の民とされた者は、もうすぐ完成する神の国を待ち望むゆえに、神の民としての生活を、今、ここではじめるのです。

 神の国を待ち望むというのは、バスがやってくるのをぼんやりと待っているようなものではありません。「御国が来ますように」との祈りは、神の国を恋い焦がれて祈る祈りです。神の国をたぐりよせるような思いで祈る祈りです。神の国の完成の日は、神ご自身が定めておられ、人間がその日を定めたり、予告したりすることはできません。しかし、聖書は、私たちの祈りが「神の日の来るのを早める」と言っています。ペテロ第二3:12に「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。」とあります。どのようにしてそれが起こるのか、私たちには分かりません。しかし、神は不思議な仕方で、神の国の完成と私たちの祈りを結びつけていてくださいます。ですから、祈りましょう。「御国が来ますように」との祈りは、必ず聞かれるのです。マタイ6:33に「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあるように、神の国を求める者はすべての必要を満たされるのです。

 (祈り)

 天の父よ、私たちは、イエスから祈りを教えられるまでは、どう祈ったら良いか分からないばかりでなく、何を求めたらよいのかさえ知りませんでした。そんな私たちにイエスは「神の国」を求めるように、神の義に生きることを願うよう教えてくださいました。「神の国」こそ、私たちの必要の第一のものです。「神の国」を求めることは、私たちの必要のすべてを求めることです。神の国と神の義とをまず第一に求めます。約束のとおり、神の国に生きるために必要なすべてのものをお与えください。神の国のシチズンとして、神の義に生きるための力と知恵とをお与えください。主イエスのお名前で祈ります。

2/21/2010