キリストを知る

ペテロ第二1:1-4

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1:1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
1:2 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
1:3 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

 一、敬虔な生活

 ペテロの手紙第二では、「敬虔な生活」が強く勧められています。しかし、「敬虔」とはどういうことでしょうか。それは、道徳的、宗教的であることでしょうか。もしそうなら、イエスの時代のパリサイ人や律法学者はいちばん敬虔でした。しかし、イエスは彼らの見せかけの敬虔を非難しています。ヘブル5:7に「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」とあります。聖書はイエスの生涯を「敬虔な生涯」と言っています。イエスの生涯は罪のない生涯でしたが、それだけでなく、イエスの生涯は、神に信頼し、神に従う本物の敬虔を示すものでした。

 ローマ1:18に「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」とあるように、人間の罪には、不正や不道徳だけでなく、神を神として崇めず、恐れず、従わない「不敬虔」も含まれています。そして、イエスがその命を献げてくださったのは、私たちをその「不敬虔」から救い出すためでした。ローマ5:6に「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」とあるように、敬虔なお方が不敬虔な者のために死なれたのです。テトス2:11-14は、神の救いとは、私たちを不敬虔から敬虔へと導くものだと教えています。大切な箇所ですので、読んでおきましょう。

というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

 ペテロの手紙第二1:3に「いのちと敬虔」という言葉がありますが、これは「敬虔な生活」と言い換えてもよいでしょう。 私たちは、かつて、「敬虔な生活」とは程遠い者でした。神を敬い、神に喜ばれようとするよりは、自分が誉められ、自分を喜ばせることが人生のすべてでした。世界が自分を中心に回っていると思い込み、そのような生き方をしていました。テトス2:12にあるように、「不敬虔」と「この世の欲」とは、聖書では、よく一緒に使われます。私たちは、かつて、この世にどっぷり浸かり、この世の欲に支配されていたのです。ヨハネ第一2:15-16に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」とあります。「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」といったものを追い求め、それを満たすことが幸せになることだと信じていました。

 しかし、この世のものはやがては去っていくもので、人はこの世のものでは、ほんとうに幸せになることはできません。この世でどんなに成功しても、それはわずかの間のことで永遠には続きません。しかし、神とキリストのために、信仰によって行うことは決して無駄にはなりません(コリント第一15:58)。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(ヨハネ第一2:17)。

 昨年、コロナ・ウィルスの感染が拡大したとき、私たちの町では、人々を励ますために “Richardson, Strong!” というヤード・サインがあちらこちらに掲げられました。「コロナに負けるな。強く生きよう」というわけです。確かに、このようなときには、困難に負けない強い意志が必要です。また、さまざまな報道に一喜一憂する私たちには「平安」も必要です。物事は必ずよくなるという「希望」も必要です。国連の事務総長が言うように、今年は「癒やしの年」であって欲しいと思います。しかし、困難の中で私たちを支える「力」、揺るがない「平安」、確かな「希望」などはどこにあるのでしょう。それは、この世にはありません。キリストにしかありません。そして、それはキリストが与えてくださる「敬虔な生活」の中ではじめて体験できるものなのです。

 神を知らない人は、「こんな時に『敬虔』なんて、何の役にも立たない」と言うかもしれませんが、そうではありません。神の国とその義を第一にするとき、必要なものが与えられるとイエスは言われたではありませんか(マタイ6:33)。主を喜ぶことが、私たちの力になるのです(ネヘミヤ8:10)。神は「神を愛する人々…のために…すべてのことを…益としてくださる」のです(ローマ8:28)。

 聖書は「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」(テモテ第一4:8)と教えています。この年が「癒やしの年」となるために、私たちは、この世のものに振り回されるのではなく、「敬虔な生活」に目を向け、それを目指していきたいと思います。

 二、キリストの似姿に

 さて、神が、私たちに「敬虔な生活」を送る力を与えてくださることを「聖化」(sanctification)と言います。3節には、「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与える」とありました。聖化の力はイエス・キリストから来るのです。4節では「聖化」が具体的に「神のご性質にあずかる」ことだと教えられています。「この世の汚れ」から聖められ、「世にある欲のもたらす滅び」から救われるだけでなく、もっと積極的に、「神のご性質にあずかる者」となる、私たち被造物が永遠の神のご性質にあずかるというのです。

 「神のご性質にあずかる」とありますが、それはどのようにしてなのでしょうか。それは私たちが神から生まれることによってです(ペテロ第一1:3、ヨハネ第一5:1)。子どもは親の遺伝子を引き継いで生まれてきます。それで、年齢が進むにつれて、父親や母親に姿形が似てくるのです。神もまた、イエス・キリストを信じる者を「神の子ども」として生んでくださいました。そこには、神の子どもではなかった者を養子にしてくださったということも含まれていますが、それだけではなく、神は、聖霊によって、私たちを実際に神の子どもとして生んでくださったのです。あえて言うなら、神の子どもたちは、神からの霊的な DNA を受け継いで生まれたのです。父なる神が人としてのイエス・キリストにお与えになったのと同じ性質、つまり、イエスが持っておられた聖さや正しさ、神への信頼や従順、また人への愛やいつくしみなどを持つ者としてくださったのです。ですから、「神の性質にあずかる」とは、神のひとり子である「キリストに似た者になる」ということでもあるのです(ローマ8:29、ヨハネ第一3:2)。

 しかし、子どもが親に似るといっても、DNA がすべてを決定するわけではないように、私たちが「神のご性質にあずかる」のも、生物学的、自動的なものではありません。たとえ、遺伝的なつながりのないアダプトされた子どもでも、親子の愛の関係の中で育てられていくと、顔や姿まで似てくるものです。人は、いつも関わっている人と似てくるというは本当のことです。私たちは、神の子どもとして生まれることとともに、神とのまじわりの中に生きることによって、神の子どもの性質が成長していくのです。それは、日々の生活の中で、また、人生の歩みの中で、どれだけ神と深くまじわったかによるのです。「神のご性質にあずかる者」というところで使われている「あずかる者」という言葉は、「まじわり」を意味する「コイノニア」という言葉から出た、κοινωνός(コイノーノス)という言葉が使われています。この言葉は聖書では「仲間」(マタイ23:30、ヘブル10:33)と訳されますが、「仲間」といっても、ただいっしょにいるだけというのでなく、パウロがピレモンを「親しい友」(ピレモン1:17)と呼んだように、苦しみも、慰めも、患難も栄光も共にするような間柄を表します。イエス・キリストは私たちを「友」と呼んでくださいました。そうであるなら、私たちは、罪も弱さも含めて、イエス・キリストにすべてを知っていただき、私たちもイエス・キリストのすべてを知りたいと願うはずです。「キリストを知る」というまじわりの中で、私たちは神の子として成長し、キリストに似たものとされるのです。

 三、キリストを知る

 続く5-7節に、キリスト者の成長の姿が具体的に描かれています。こう書かれています。

こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
私たちの霊的な成長は、信仰が土台となり、愛に向かって成長していくものです。ここにはキリスト者の成長の目標と、そこに至る道筋がはっきりと書かれています。この成長の青写真に従い、励みたいと思います。

 しかし、もし、私たちが「イエス・キリストを知る」ことを怠るなら、この御言葉も「絵に描いた餅」で終わります。次の8節に「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」とあります。ここで「キリストを知る点」と訳されているところは、原語では「キリストの知識」(knowledge of Christ)となっています。もちろん、この「知識」は、インターネットで「キリスト」という言葉を検索して得られるような情報としての「知識」のことではありません。それは、キリストに出会い、キリストを信じ、キリストを受け入れることによって得られる人格的な知識です。また、日々の生活の中で、イエス・キリストに信頼し、従うことによって、イエス・キリストの恵みを受け、「イエス・キリストは生きておられ、私に、このようなことをしてくださった」と、証しすることができるような体験的な知識です。

 8節に「役に立たない者」や「実を結ばない者」という言葉もありますが、これはイエスを受け入れようとしなかった人々に対して語られたイエスの譬の中にある言葉です。私たちも、「キリストを知る知識」において、「役に立たない者」や「実を結ばない者」になることがないよう、励みたいと思います。

 ペテロの手紙第二の最後の言葉(ペテロ第二3:18)を読んで終わりましょう。

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。
「イエス・キリストの恵みと知識において成長する。」私たちには、なんと明確な目標が与えられていることでしょう。皆さんは、今、仕事のことや家庭のこと、人生のことなどで、今年の計画・予定、また目標を思い巡らしていることでしょう。その中に、「敬虔な生活」というゴールがあるでしょうか。そのための力、聖化、きよめの力をキリストから受けるために、もっと「キリストを知る」、そのための具体的なプランを持っているでしょうか。年のはじめに、そうした霊的な目標を持ちたいと思います。そのために、きょうの御言葉を思い返し、神の導きを待ち望み、祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは私たちを義と認めてくださったばかりか、私たちを聖めて、あなたのご性質にずかる者、また、御子に似た者になるようにしてくださいました。そして、私たちが聖められ霊的に成長するための力のすべてを、イエス・キリストにお与えになりました。この年、私たちに、イエス・キリストを知ることと、そこから来る聖化の恵みにあずかることができるようにしてください。敬虔な生活から生まれる確かな平安、確かな希望、確かな癒やしを体験することができますように。この年を、まことの救い主イエス・キリストを知り、信じている幸いを深く味わう年としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/3/2021