神の守り

列王記第二6:15-19

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6:15 神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。
6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。
6:17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
6:18 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。
6:19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。

 一、主は私たちを守る方

 詩篇121は、主の守りをこのように歌っています。

私は山に向かって目を上げる。
 私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
 あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
 まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。
 主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
 夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
 あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
 今よりとこしえまでも守られる。

 「主は、あなたを守る方。」("The Lord is your keeper.”)短いですが、とても力ある言葉です。いつの時代のどの国の人も、自然災害や病気、戦争などを恐れ、そうしたものから守られるよう願ってきました。幸い、身近なところに戦争はありませんが、自然災害や病気は科学や医学が進歩した現代でも常に人を恐れさせます。つい最近も日本では台風が大きな被害をもたらし、今もまだ停電や断水が続いているところがあると聞いています。また、詩篇には、人間関係の苦しみが数多く書かれていて、中傷や裏切りなどの苦しみを訴えているものがあります。人間関係の苦しみは、現代も変わりなく続いています。世の中が複雑になればなるほど、危険が増えます。たとえば ID を盗まれ一瞬にして銀行の預金が消えてなくなるなどといったことが起こるようになりました。現代は、人類の歴史の中で、一番危険な時代なのかもしれません。そんな時代に、私たちに必要なのは、主の守りであり、「私を守ってくださる主」なのです。

 神から離れた北王国イスラエルではありましたが、神はイスラエルを外敵、とくにアラム(今日のシリア)から、エリシャの預言によって守ってくださいました。エリシャの時代のイスラエルの王はヨラムでした(列王記第二3:1)。ヨラム王は、エリシャに一目置いていましたが、それは、エリシャの神、主を信じるということではなく、エリシャによってイスラエルが守られたためでした。ヨラムの母イゼベルは存命中で、彼女のもとでバアル崇拝が盛んに行われていました。ヨラムは主の「守り」を喜びはしましたが、「守ってくださる主」に信頼することがなかったのです。

 「守り」は、それを念じていればやってくるというものではありません。私たちを守ってくださる主によらなければ、それは実現しないのです。聖書は「主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」(詩篇127:1)と言い、「神はわれらの避け所」(詩篇46:1)と言っています。「避け所」は英語で "refuge”と訳されてますが、避難所、シェルターという意味です。私はカリフォルニアからテキサスに引っ越すとき、荷物はコンテナで送り、家族と一緒にドライブしてきました。アリゾナを通り、ニューメキシコからテキサスに入ったとたん、レストエリアが立派なのに驚きました。テキサスが経済的に豊かな州であるだけでなく、それは竜巻などに出会ったときのシェルターを兼ねているからでした。聖書は、神ご自身が私たちの避難所、シェルターであり、災いの日には主のもとに逃げこむよう教えています。その時、私たちは、主が確かに私たちを守ってくださるお方であることが分かるようになるのです。

 二、主の守りを見る

 きょうの箇所の15節に「神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた」とあります。この「馬と戦車の軍隊」はアラムの軍隊です。アラムの王はイスラエルの領土を削りとるため軍隊を送るのですが、どこに陣を張るかといった情報が、いつもイスラエル側につつぬけになっていて、アラム軍の出動は空振りに終わっていました。アラムの王は、最初内通者がいるのではないかと疑いましたが、やがて、それがエリシャの預言によることが分かってきました。それで、エリシャを捕まえるために軍隊を送ったのです。たったひとりの預言者を捕まえるのに、「馬と戦車と大軍と送った」(列王記第二6:14)というのは大げさなことですが、アラムの王はそれほどにエリシャの預言の力を恐れていたのです。

 エリシャのしもべは、自分たちを取り囲んでいる軍隊を見て、エリシャに「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」(15節)と言いました。しかし、エリシャはしもべに言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(16節)「私たちとともにいる者」というのは、主の軍勢のことです。エリシャにはそれが見えていましたが、しもべには見えなかったのです。それでエリシャが「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」(17節)と祈ると、しもべもまたアラム軍に勝る主の軍勢を見ることができました。

 このように、信仰者は見える現実だけでなく、見えない現実を意識して生きています。主イエスは誘惑の山で、サタンを斥けた後、「御使いたちが近づいて来て仕え」(マタイ4:11)るのを見ておられます。ゲツセマネの園では、ペテロがイエスを捕まえようとした者に剣で切りかかった時「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」(マタイ26:52-53)と言われました。主イエスにとって天の軍団は常に「現実」のものでした。

 パウロは、コリント第二4:8-9でこう言っています。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」パウロは、ここで、伝道に伴う苦しみや迫害のことを言っています。パウロの行くところにはどこででも苦しみや迫害が待っていました。主を信じていればどんな困難にも苦しみにも遭わないというわけではないのです。パウロは困難や苦しみを現実のものとして受けとめています。しかし、もうひとつの現実、神の守り、栄光、力をも見つめていました。ですから、「苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」と言うことができたのです。そして、パウロはこう言います。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

 「見えないものに目を留める」というのは、矛盾のように思われます。しかし、それは信仰によって可能となるのです。信仰とは、「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」(ヘブル11:1)だからです。しかし、信仰者であれば、誰もが見えないものを見ることができるわけではありません。エリシャのしもべは最初、それを見ることができませんでした。けれども、祈りによって見えるようになりました。私たちも、目に見えるものに心がとらわれている間は、見えないものを見ることができません。祈りによって信仰を働かせる必要があります。私たちも、何事においても「目を開いて、見えるようにしてください」と祈りましょう。そうすれば、困難や苦しみという現実ばかりでなく、信じる者をそこから守り、救ってくださる「主の守り」という現実が見えるようになり、不安や恐れ、思い煩いから解放されるのです。

 エリシャはしもべのためには「彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈りましたが、アラムの軍隊については「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください」と祈りました。すると、アラムの軍隊は指揮官から兵卒に至るまで、みな目が見えなくなりました。そこでエリシャは彼らをヨラム王のところまで連れていき、「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください」と祈ると、なんと、彼らは自分たちがイスラエルの捕虜になっているのに気付きました。ヨラムは、捕虜を滅ぼそうとしましたが、エリシャはそれを許さず、逆に彼らをもてなしてアラムに返しました。彼らは預言者エリシャによって示された主の力を恐れて、イスラエルの国境を侵すことがなくなりました(列王記第二6:23)。

 三、主の守りを体験する

 主は、イスラエルにも、アラムにもひとりの犠牲も出さないでイスラエルを守ってくださいました。同じようなことが、続く箇所(列王記第二6:24-7:20)にも書かれています。サマリヤに飢饉が起こった時、それに乗じてアラムの王ベン・ハダデがサマリヤを軍隊で包囲しました。その時、サマリヤの物価が急上昇し、「ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られる」(6:25)ようになりました。ろばの頭はふつうは食用には使いません。なのにそれが80シェケル(800ドル)もしたのです。「鳩の糞」というのはそういう名前の植物の実だと思われますが、一カブの四分の一というのは、手のひらに乗るほどの分量でしかありません。それが5シェケル(50ドル)もするほど食べ物がなくなったのです。この時、ヨラム王は侍従とともにエリシャのところに行きましたが、エリシャは王にこう預言しました。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」(7:1)「一セア」は両手で抱えて持つほどの分量で、一シェケル(10ドル)で小麦粉なら一セアが、大麦なら二セア買うことができるというのですから、普段より安い値段だったのでしょう。王の侍従はエリシャの言葉を聞いて、「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言いました。それでエリシャは、その侍従に言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

 その日、「主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせ」(7:6)たので、アラム軍はイスラエルがヘテやエジプトの軍隊を雇って自分たちを襲おうとしていると思い、陣営と食糧をそのままにして、国に逃げ帰りました。サマリヤの人々は、アラム軍の包囲から救われたばかりでなく、敵が残していった食糧によって飢えからも救われたのです。エリシャが言ったように、サマリヤの門で小麦粉や大麦が安く売られるようになりました。神のなさる事は、実に不思議です。私たちの信じる神は全能の神であり、ご自分の言葉に真実なお方です。

 ところが、主の言葉を信じなかった侍従は、この食べ物を口にすることができませんでした。彼はサマリヤの門の管理をしていたのですが、大勢の人が食べ物を求めてそこに殺到したため、群衆に踏み殺されてしまったのです。エリシャの預言は、悲しいことに、それを信じなかったこの人にも成就したのです。神の言葉は、人が信じようが信じまいが実現します。しかし、信じない者は神の言葉がもたらす祝福を受け取ることができないのです。主は、私たちが、その祝福を、信じて受け取ることができるよう、私たちに信仰を求めておられるのです。

 ある人の聖書の扉にこう書かれていました。「これを守れ。そうすればこれがあなたを守る。」「これ(聖書)を守る」とは、聖書が命じることを守り行うことですが、聖書が私たちに命じていることは何よりも、「主を信じること」です。主を信じること、主への信頼が私たちに主の守りを見せてくれます。それを確信させ、体験させてくれるのです。

 (祈り)

 私たちを守ってくださる主よ。私たちはあなたの守りによって日々を平安のうちに過ごすことができます。平穏な日々は決してあたりまえのことではなく、あなたの愛と力によって支えられ与えられているものです。そのことを覚えて、もっとあなたに感謝をささげることができる私たちとしてください。また、苦しみの日には、さらにあなたに信頼し、祈りのうちに、あなたの守りを確信することができますように。主イエスのお名前で祈ります。

9/22/2019