イスラエルの滅亡

列王記第二17:13-15

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17:13 主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」
17:14 しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。
17:15 彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。

 一、イスラエルが辿った道

 きょうのメッセージのタイトルは「イスラエルの滅亡」という、まったくうれしくないものです。イスラエルは、エジプトで奴隷となって苦しんでいたとき、主が、彼らの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブと結んでくださった契約のゆえに、あわれんで救ってくださった人々です。アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結んでくださった主は、ダビデとも契約を結び、ダビデの子孫が長くイスラエルを平和のうちに治めると約束してくださいました。

 その約束の通り、ダビデの子、ソロモンの時代にはイスラエルは平和と繁栄を楽しんだのですが、ソロモンの死後、ソロモンの家来ヤロブアムが反逆し、イスラエルの十二部族のうち十部族がサマリヤを首都とする「北王国イスラエル」を作りました。ソロモンの子レハブアムに残されたのはユダ族とベニヤミン族の二部族だけで、これは「南王国ユダ」と呼ばれるようになりました。

 南王国ユダはエルサレムに主の宮を持ち、まことの神への信仰を保っていましたが、北王国イスラエルでは、人々がバアルなどの異教の神々を拝みました。アハブ王の妻イゼベルが、王妃だった20年間の間にバアル崇拝を広め、夫が亡くなったあとも、息子ヨラムの王母として12年間バアル礼拝を盛んにしたのです。

 北王国イスラエルはその後ヤロブアム二世のときに少し国力を回復しましたが、アッシリヤにテグラテピレセルという強力な王がおこり、イスラエルを圧迫し、イスラエルに貢物を納めさせました。イスラエルがエジプトを頼ってアッシリヤに背いたので、テグラテピレセルの後にアッシリヤの王となったシャルマヌエセルはサマリヤを包囲し、ついに紀元前722年、サマリヤが陥落し、北王国イスラエルはおよそ200年の歴史を閉じたのです。

 二、イスラエル滅亡の理由

 なぜイスラエルは滅びたのでしょうか。聖書はその理由について、こう言っています。「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」(列王記第二17:7-8)

 主は、エジプトから救い出したご自分の民を、「約束の地」に導き入れましたが、そこにはすでに先住民がいて、その先住民は宗教的にも道徳的にも、悪に染まっていました。それで主は「あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない」(出エジプト23:24)と警告されたのです。けれども彼らはその警告に耳を貸しませんでした。

 主は「十戒」の最初で「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:2-3)と言っておられます。この言葉は、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という契約の言葉として繰り返されています(出エジプト6:7、レビ記26:12、エレミヤ7:23、11:4、30:22、エゼキエル36:28)。全世界、いや、全宇宙の神である主が、イスラエルを選んで「わたしはあなたの神」、「あなたはわたしのもの」と言われたのです。イスラエルにとって、これ以上に恵み深く、力強い言葉があるでしょうか。主は、イザヤ43:1-4で、こう言っておられます。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…」日本語で「たとえ火の中、水の中」という言葉がありますが、まさに、主は、ご自分のものとしたイスラエルを愛して、火の中、水の中でも共にいて救うと約束しておられるのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言って、主は神の民を愛されました。神の民となるというのは、この主の愛を受け入れ、それに答えることです。信仰とは、主なる神との愛の関係の中に生きることです。それは、聖書だけが教えていることで、他の宗教には、とりわけ、イスラエルを取り囲んでいた国々の宗教が決して教えることがなかったものです。

 なぜなら、バアル、アシラ、アシタロテの神々は、それぞれ人間になぞらえられていますが、決して人格を持ったものではないからです。それらは自然界に働く力を擬人化したものにすぎません。古代では農作物の収穫や家畜の群れが財産でした。バアルは農耕の男性神で豊かな収穫をもたらし、アシタロテは畜産の女神で、家畜をふやしてくれると信じられていましたが、そうした神々は、必要以上の財産を積み重ねようとする人間の貪欲が形をとったものだったのです。聖書は「貪欲が偶像礼拝である」(コロサイ3:5)と言っています。偶像の神々は、人間の欲望が生み出したもので、それ以上のものではないのです。それは、人を愛し、人を守り、人と関わりを持ってくださるまことの神とは全く違っています。まことの神を知る者は、神ならぬ者を信じ、それを崇拝するなど、とうていできないのです。

 信仰は、主なる神との人格的な関係です。ですから、それは人間の霊とたましいの中に深く根ざしているもので、決して外面的な儀式や慣習、活動で終わるものではありません。しかし、儀式や慣習は、外側の事柄とは言いながら、それが繰り返されると、人の内面を変える力を持っています。イスラエルは異教の神々の祭や偶像の儀式を繰り返すうちに、恵み深く、力ある神を忘れていきました。まことの神を偶像の神々と同じように考えるようになったのです。主が、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とおっしゃり、まわりの国々の宗教の慣わしに従ってはいけないと言われたのは、それによって人々がまことの神から離れていくようになるからでした。そして、まことの神から離れていったイスラエルは滅びへの道を突き進んだのです。

 三、イスラエルの回復

 では、主はイスラエルが滅びに向かっていくのを黙って見ておられたのでしょうか。いいえ、主は、イスラエルに預言者を送り、何度も「立ち返って、滅びから救われよ」と語ってくださいました。列王記第二17:13に、「主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。『あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ』」とある通りです。アハブ王の時代にはエリヤ、ヨラム王の時代にはエリシャに、主は力あるわざを行わせ、神の言葉を語らせました。ヤラベアム二世とその後の時代にはヨナ、アモス、ホセアたちがイスラエルに遣わされています。

 しかし、イスラエルは「これを聞き入れず、…彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった」(14)のです。人々は「…むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり」(15)ました。「むなしいもの」というのは偶像の神々のことです。彼らは偶像を何か実体のあるものであるかのようにして崇拝しましたが、実際は、空っぽなもの、「むなしいもの」でした。「むなしいもの」に従った人々は、その人たち自身が「むなしいもの」となり、その国は失われたのです。偶像は「忌むべきもの」とも呼ばれています。ホセアは、偶像礼拝者について、「彼らの愛している者と同じように、彼ら自身、忌むべきものとなった」(ホセア9:10)と言っています。人は自分が崇拝するもののようになります。まことの神を礼拝する者は、真実なものとなり、幸いな人生を生きることができますが、神ならぬものを拝む人は、むなしい者となり、むなしい人生を送るようになるのです。

 きょうの箇所は「イスラエルの滅亡」で終わっていますが、聖書を最後まで読むと、聖書が「イスラエルの回復」も預言していて、それが成就していることが分かります。

 先にイザヤ43:1-4を引用しましたが、それ続く5-6節にこう書かれています。「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。」アッシリヤはサマリヤにいた人々を自分たちの国に連れていき、自分たちの国の人々をサマリヤに送り込んで、征服した土地を支配しました。イスラエルは遠い外国に散らされたのです。しかし、バビロンがアッシリアにかわり、ペルシャがバビロンにかわって中東世界を治めるようになったとき、イザヤの預言のとおり、イスラエルの人たちは帰国を許され、人々は再び自分たちの土地に戻ってきました。

 また、アモスは「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを立て直す」(アモス9:11)と預言しました。この預言は「ダビデの子」として世に来られたイエス・キリストによって成就しました(使徒15:16)。イエス・キリストは、ご自分を信じる者を神の民とし、信じる者たちの間に、愛と平和の王国、神の国を立ててくださったのです。

 ホセア1:10にこうあります。「彼らは、『あなたがたはわたしの民ではない』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる。」この言葉は、ペテロ第一2:10に引用されていて、こう書かれています。「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」旧約の時代には、ユダヤ人でない人々は「異邦人」と呼ばれ、神から遠い者たちとして扱われてきました。しかし、新約の時代には、イスラエルの人々ばかりでなく、どの国の人であっても、イエス・キリストを信じる者はすべて「神の民」として受け入れられるようになったのです。イスラエルの回復は、イスラエルだけの回復で終わらず、異邦人の救い、全世界の人々の救いとなって成就したのです。

 聖書に、愛は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(コリント第一13:7)とあります。神の愛は、じつに忍耐深い愛です。愛の神は決してイスラエルをあきらめず、「わたしに返れ」と呼びかけてこられました。「預言者を遣わしてもだめなら、わが子を遣わそう」と言って、主は、御子をこの世に送ってくださいました。そして、今、福音の言葉をもって、主は人々に呼びかけておられます。「わたしに返れ。そして、救われよ」と。私たちはこの愛の呼びかけにどう答えれば良いでしょうか。ホセア6:1-3には、私たちが答えるべき言葉が用意されています。私たちもこの言葉の通りに、主の招きにお答えしたいと思います。

さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。
主は二日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。
私たちは、知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現われ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。

 (祈り)

 主なる神さま。あなたは、あなたに逆らい続けた人々にも「わたしはあなたを愛している」と語り、忍耐を尽くしてこられました。あなたは、その愛を、イエス・キリストによって残すところなく示してくださいました。今、心を開いて、あなたの愛を受け入れます。私たちをあなたの民とし、私たちの神となってください。そのことによって、私たちが、あなたの愛と救いを人々に知らせることができるようにてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/13/2019