新しい人

コリント第二5:11-17

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5:11 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
5:12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。
5:13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 主イエス・キリストの復活を、ハレルヤ三唱で祝いましょう。

「主はよみがえられた。ハレルヤ!
主イエスはよみがえられた。ハレルヤ!
じつに主はよみがえられた。ハレルヤ!」

 一、キリストの復活

 主イエスは金曜日の午前9時から午後3時まで6時間十字架にかけられたのち、息を引き取られました。本来、犯罪人は葬られることなく、ヒノムの谷に投げ捨てられ、野獣の餌食になるのですが、イエスのおからだはアリマタヤのヨセフが自分のために作った新しい墓に葬られました。彼とともにニコデモもやってきて、イエスを葬りました。ヨセフとニコデモは、ユダヤの最高議会のメンバーでしたが、ひそかにイエスに心を寄せていた人たちで、イエスを亡き者にしようとした最高議会の悪巧みに加わらなかった人たちでした。彼らはイエスを弁護しようとしましたが、なにせ、多勢に無勢で、最高議会はついに神の子を死に追いやったのです。しかし、ふたりはそれにひるみませんでした。危険を承知でイエスの遺体の下げ渡しを総督ピラトに願い出、丁寧に葬ることを許されました。

 一方、イエスを十字架につけた人々は、イエスの復活を恐れて、その墓の入り口を大きな石で封印し、ローマ兵に守らせました。日が沈み、安息日が始まりました。イエスのからだは土曜日の丸一日、静かに墓に横たわり、再び日が暮れて安息日が終わりました。イエスのからだはもう一晩、墓にとどまっていました。

 しかし、日曜日の夜明けとともに、墓が揺れました。封印してあった大きな石は、まるで小石のように簡単に転がされました。墓の中から、光があふれ出ました。勇敢さと忠実さで知られていたローマ兵も、自分の持ち場を捨てて逃げ出しました。キリストが復活されたのです。死を打ち破り、墓を破って、栄光の姿によみがえられたのです。

 その後、イエスを慕う女性たちが、イエスの遺体に香油を塗るためにやってきました。そこにはイエスの遺体はなく、天使がイエスの復活を告げました。やがて復活されたイエスが弟子たちに現れ、弟子たちは直接イエスにお会いし、イエスの復活を目の当たりにしました。それ以来、教会は、イースターを祝い、日曜日ごとに集まって、今も生きておられるイエス・キリストを礼拝しているのです。教会の礼拝は、すでに世を去ったイエス・キリストを懐かしむメモリアル・サービスではありません。今も、生きておられるイエス・キリストにお会いする祝典です。

 今朝、私たちは、初代教会から伝わる「栄光の賛歌」を唱えて、キリストを賛美しました。この賛美がつくられたころは、ローマ皇帝がが自らを「主」とし、「神聖」なものとし、また「至高者」としていたときでした。けれども、クリスチャンは皇帝礼拝を拒否し、イエス・キリストに

「主のみ聖なり
主のみ王なり
主のみいと高し」
という賛美をささげました。小さな国なら、またたくまに滅ぼしてしまう権力を皇帝は持っていました。しかし、そんな皇帝もやがて、すべての富と、力と、栄光を死によってもぎ取られるのです。どんなに力ある者も、財産を蓄えた者も、知恵や知識のある者も、それによっては死に打ち勝つことはできません。しかし、イエス・キリストは、死に打ち勝ち、今も生きておられる、聖なるお方、主なるお方、いと高きお方です。イエス・キリストの復活は、このキリストを私たちに示してくれる、素晴らしいものなのです。

 キリストは十字架で苦しめられ、すべてをもぎとられ、死んでいかれました。しかし、キリストはすべてのものの上に立つお方となり、永遠に生きるお方となられました。キリストの復活は、苦しみが終わりではない、死が最後ではないということを、宣言しています。苦しみは私たちの希望をくじき、死は私たちからすべての希望を奪い取ります。しかし、キリストの復活は、くじかれることのない希望、奪い去られることのない希望を私たちに与えます。だから、キリストの復活は素晴らしいのです。

 二、復活と弟子たち

 キリストの復活が素晴らしいのは、キリストを信じる者もキリストと同じ復活のいのちにあずかることができるからです。弟子たちは、キリストの復活によって力づけられました。希望を与えられました。信仰を強められました。イエスを三度も否定したペテロが、迫害をも恐れない勇敢な人になりました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18-20)と言われたイエスが共におられるのですから、恐れるものはなかったのです。

 しかし、キリストの復活のいのちを受けるというのは、キリストの復活によって励まされるという以上のものです。それは、キリストのうちにある復活のいのちが、そのまま私たちのうちにも働くということです。キリストと私たちとがひとつのいのちで共に生きるということなのです。イエスはこのことを「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)ということばで表わしています。ぶどうの枝は、ぶどうの幹につながり、そこから養分を得て実を結びます。そのように、キリストとキリストを信じる者は、別個のものではなく、一体であり、キリストを信じる者は、キリストのいのちによって生きるのです。

 これはとても神秘的なことです。いのちも死も神秘です。今日もどこかで、誰かが生まれ、誰かが亡くなっています。いのちと死はどこでも見られることです。しかし、「いのちとは何なのか」、「死とは何なのか」と改めて問いかけてみると、誰もその答えを持っていません。その実体は神秘で、私たちの理性を超えたものです。神の子が十字架で死なれ、三日目によみがえられた。それを信じる者が罪のゆるしと救いを得る。これは神秘です。しかし、この神秘がなければ、私たちの救いもないのです。罪と死は、私たちが少しばかり、励まされた、元気になった、気分が良くなったからといって、それで打ち負かすことができるほど簡単なものではないからです。人は死んでいくのが「自然」なのですから、自然は死に対して何の力もありません。死に打ち勝つ力を私たちに与えるのは、キリストの復活という「超自然」の出来事による他なく、私たちがぶどうの枝となって、幹であるキリストに結びあわされ、キリストのいのちに生かされるという「神秘」によってでなければ成し遂げられないのです。

 使徒パウロは、かつては、キリストに敵対し、教会を迫害する者でした。しかし、復活のキリストに出会って、彼の人生は一変しました。今度は、キリストを宣べ伝え、教会を建てあげる者になったのです。使徒たちのそれぞれは各地で伝道し、そこに教会を設立しましたが、使徒パウロほど、広い地域で伝道し、数多くの教会を設立した人はありません。パウロのこの変化は、改心や思想の変化などといった人間的なものだけでは説明することはできません。パウロ自身が「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言っているように、キリストの復活のいのちが彼の中に働いていたのです。

 今朝の聖書、コリント第二5:14-17にこうあります。「私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」このゆに、パウロは「キリストの十字架によって死に、キリストの復活によって生きる」ことを体験をした人ですが、それは、パウロひとりの体験ではなく、キリストを信じ、キリストに結ばれる人すべてに与えられるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」パウロは「だれでも」と言っています。キリストは今も変わらず生きておられます。弟子たちを造り変えたキリストは、復活のいのちによって、現代に生きる私たちをも「新しい人」に変えてくださるのです。だから、キリストの復活は素晴らしいのです。

 三、復活の体験

 イエス・キリストの復活以来2000年の間、数限りなり人々が、キリストを信じる信仰によって「新しい人」に変えられていきました。たくさんのあかしがありますが、今朝は、太田俊雄先生が教えたひとりの少女のことを話しましょう。太田俊雄先生は新潟に敬和学園を創設された方で、私が尊敬する教育者のひとりです。戦後まもなく、太田先生が大阪の阿倍野にあった燈影女学園で教師をしていた時のことです。そこに四人組の不良団がいました。女子生徒だというのに、ナイフで他の学校の女子生徒を脅して金品をまきあげたりして、何度か警察のやっかいにもなっていました。この四人は、学校で週二回行われる礼拝には出たことがありませんでした。宗教主任をしていた太田先生は、この四人組のことで心を痛め、とくにそのリーダ格であった水谷京子のことを心にかけていました。それで、太田先生は奥さんと相談して、水谷京子に家に来てもらって、家事の手伝いを頼むことにしました。水谷京子はときどき、太田先生から職員室に呼び出されるのですが、その用件は、きまって、「うちで用事を頼みたいって言っているから、うちに行ってくれないか」でした。水谷京子は、太田先生の家に行くようになって、太田先生の三人の子どもと仲良くなり、だんだんと堅い心もほぐれてくるようになってきました。けれども、あいかわらず、礼拝をサボり続け、欠席の常習犯でした。

 そんなある日、太田先生が、いつものように水谷京子を職員室に呼びました。京子が「先生、何のご用ですか」と尋ね、太田先生が、いつものように「うちに行って…」と言いかけると、彼女は突然、真剣な顔で「先生!」と言って、太田先生に近づいてきて、こう言いました。「先生は、わたしをこんなに何度も呼び出しておきながら、どうしてわたしのことを何も聞こうとしないのですか。」太田先生は「何を聞くの? 何も聞くことはないんだよ」と答えると、京子は言い返しました。「先生は、わたしがどんな悪い子かご存知ないのでしょうか?」太田先生が「知らないね。自分で悪い子だと思っているだけだろう」と言うと、彼女はこう答えました。「いいえ、わたしは悪い子です。今まで他の先生に呼ばれたら、必ず所持品検査がありました。ラヴレターを持っていないか、チョコレートやキャラメルを持っていないか、他にお化粧道具は…と。そして昨日は学校の帰りどこへ行ったか、映画館に入らなかったか、ボーイ・フレンドと会わなかったか、喫茶店に入らなかったか、ときまっているんです。それなのに、先生はただの一度も何も聞かれない。」太田先生はそれに答えて「京子さん。あなたは、誰にも愛されていない、誰からも信頼されていないと思っているんだね。だけど、先生はあなたを信頼しているよ。」一瞬シーンとした後、京子は声をあげて泣き出しました。今まで泣いたことなどなかったと思われた京子が泣きじゃくりました。

 このときから京子は変わりました。自分から、「先生、教会に連れて行ってください。」と言うようになっていました。京子が二歳のとき、彼女の産みの母が家を飛び出し、それ以来、いろんな女性が家に入り、そのときは四番目の女性がいました。京子は「あんな奴、母さんなんて呼んでやるものか」と言っていたのですが、ある日、その人を太田先生のところに連れてきて、「先生、これは私の母です。ねェー母さん!」と紹介しました。すると、この母はその場に泣き崩れ、「ほんとにこの子はむづかしい子でした。毎日どんなに泣かされてきたことでしょう。ところが今はとてもやさしい子になって、『お母さん』『お母さん』と言ってくれるんです」と、太田先生に話しました。京子をこのように変えたのは、太田俊雄という教育者の人格だけではありません。太田俊雄もまた少年時代はひねくれた子どもだったのですが、キリスト者の教師柴田俊太郎によってキリストに導かれ、キリストによって新しく造り変えられたのです。復活のいのちで人々を「新しい人」に造り変えてくださるキリストが京子をも造り変えたのです。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」まだ、この体験をしていない方は、きょう、イースターの良い日に、そのことを願いませんか。すでにキリストにあって「新しい人」とされているなら、その人は、信じる者をキリストに似せて日々新しく造り変えてくださるキリストのお働きに身を委ねませんか。そのとき、イースターはもっと素晴らしいものになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、主イエスを死からよみがえらせましたが、それとともに私たちをも主イエスの復活によって、主イエスとともに、主イエスのために生きるものとしてくださいました。主イエスが「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(ヨハネ14:19)と言われたとおり、私たちも主イエスの復活のいのちに生かされるのです。「見よ、すべてが新しくなりました」と叫ぶことができるよう、私たちをキリストにあるもの、キリストに結ばれたものとしてください。日々に新しくされていく喜びに満たしてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/4/2010