御霊なる主

コリント第二3:17-18

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3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 一、聖霊の力

 今日はペンテコステです。弟子たちが、イエスの言葉どおり、聖霊を待ち望んで祈っていると、聖霊が「炎のような分かれた舌」となって弟子たちの上にくだりました。ペンテコステの色は「赤」で、今日の私のストールも「赤」ですが、これは、聖霊の炎を意味します。

 「炎」、それは大きな力を意味します。動物たちは「炎」を恐れますが、人間は「炎」を使うことができます。「炎」によって鉄を溶かし、さまざまなものを作りあげてきました。「炎」を燃やして蒸気を作り、蒸気機関を使って、列車を走らせ、機械を動かしてきました。今ではオイルを燃やして船を動かし、飛行機を飛ばせ、車を走らせます。かつてのように「炎」は外からは見えませんが、「内燃機関」といって、エンジンの中では「炎」が燃えているのです。原子力は何かが燃えるわけではありませんが、人類が手にした新しい「炎」だと言ってよいでしょう。人間は「炎」を利用してきましたが、まだまだ「炎」の持つ力を完全には制御できないでいます。カリフォルニアでは山火事の時期になりましたが、科学技術の進んだこの時代でも山火事を防ぎ、それを鎮める方法を知らないのです。火にはすべてを焼き尽くす力があります。聖霊の力は私たちが考える以上のものです。

 聖霊は「炎のように分かれた舌」として表れました。「舌」は「ことば」を意味します。ヤコブの手紙は、私たちがことばにおいて多くの罪を犯すことを示すため、「同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。」(ヤコブ4:5-6)と言っています。ナチス・ドイツを作り上げたヒットラーは、優れた人格者でも、有力な人物でも、見た目にも魅力的な人でもありませんでした。しかし、弁舌は巧みで当時、劣等感に陥っていたドイツ人を奮い立たせました。彼は、文字通り、舌先三寸で世界を自分のものにしたのです。ことばの力というものは、とくに、それが間違って用いられる時には、大きな力を持つようになります。神のことばは人間のことばよりももっと力があるはずなのですが、それを聞く人が信仰によって受け止めないため、いつの時代も、神のことばよりも人間のことばのほうが幅をきかせてきました。しかし、ペンテコステの時には違いました。聖霊は弟子たちに「炎の舌」を与え、キリストの十字架と復活を大胆に語らせ、人々もまた悔い改めと信仰をもって神のことばに聞き従いました。いつの時代も、まことの信仰者たちが求めてきたのは、このような聖霊の働きです。枯れ草に火がつくと、それがたちまち草原に広がっていくように、神のことばが火のように、罪と不信仰を焼き尽くし、私たちのこころをきよめて、神の国を待ち望ませるようになることです。私たちひとりびとりが聖霊に満たされるとき、そのことが起こるのです。

 カソリック教会では位の高い聖職者は先のとんがった赤い帽子を被りますが、それは、ペンテコステの日に弟子たちの上に留まった炎の舌を表わします。また、赤いマントを着ることを許されますが、それは「聖霊に満たされた人」を表わしています。サンタクロースも赤い帽子に赤い服ですが、それは、サンタクロースのモデルとなったセント・ニコラスがトルコのミラの町の司教であったので、司教の赤い服がサンタクロースの服になったと言われています。確かに聖職者たちは聖霊に満たされていなければなりませんが、特別な人だけでなく、すべてのクリスチャンが聖霊に満たされることを、神は願っておられます。ペンテコステの朝に説教をしたのは使徒ペテロでしたが、ペテロや他の使徒たちだけが聖霊に満たされたのではなく、聖霊を待ち望んで祈っていたすべての弟子たちが、老いも若きも、男も女も「みなが聖霊に満たされた」のです。そこに集まっていた人は、たったの百二十人にすぎませんでした。今朝の礼拝に集まっている人より少し多いだけでした。しかし、その百二十人によって三千人の人々が教会に導かれ、三千人のエルサレム教会が瞬く間に五千人の教会になり、エルサレムから始まってローマ帝国のありとあらゆる場所に教会が生まれ、クリスチャンの数は数えられないほどになったのです。ひとりびとりが聖霊に満たされる時、大きなことが起こります。ペンテコステのこの日、私たちも聖霊を心から求めましょう。

 二、聖霊の主権

 聖霊を求め、聖霊に満たされようとする時、忘れてはならないのは、聖霊が「主」であるということです。このことを忘れると、聖霊を、あたかも自分が自由にできる単なる「力」であるかのように考えて、人間が聖霊を利用する、聖霊に指図するなどといった間違ったことが起こるのです。

 今朝の箇所には、すこし分かりにくいことが書いてあります。「主は御霊です。」とはどういうことでしょうか。新約聖書で「主」ということばが使われる時、多くの場合、それはイエス・キリストを表わします。ここでいう「主」はキリストのことなのでしょうか。そうだとしたら、キリストが霊であるというのはどういうことでしょうか。ヨハネ4:24に「神は霊です。」とありますが、それは父なる神がすべてのものの造り主であって、造られたものからの一切の制限を超えたお方であることを言っています。キリストが霊であるというのは、それと同じ意味でしょうか。決してそうではありません。キリストは、霊である神が人となって来られたお方です。キリストがからだをもって、人となって来られたことを否定したり、からだをもって、復活されたことを信じないで、キリストを霊とすることは、異端の教えとして聖書で退けられています。ヨハネ第二に「人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」と、はっきり書かれています。復活のキリストを見た弟子たちは「驚き恐れて、霊を見ているのだ」と思いました。それに対してイエスは「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」と言われました。キリストは復活された後も、からだを持っておられるのです。ですから、「主は御霊です。」というのは、キリストが霊であるという意味ではないことが分かります。

 では、どういう意味なのでしょうか。16節に「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」とあります。ここでいう「おおい」というのは、私たちに神の栄光を見せないようにしている人間の頑固で鈍い心、自己中心な思いのことです。「人が主に向くなら」というのは、真理に目を閉じ、主に対して顔をそむけていた者も、悔い改めて、主に向き直るなら、その頑固な心は砕かれ、鈍い心に命が与えられ、神の栄光を仰ぐことができるという約束です。では、私たちが顔をむけるべき「主」とはどなたなのでしょうか。父なる神でしょうか。キリストでしょうか。もちろん、父なる神も「主」であり、キリストも「主」です。しかし、聖書は、ここで、私たちが顔を向けるべき「主」は「御霊」であると言っています。そうです。御霊は、父、御子と等しい「主」であり、御霊こそ、私たちの頑固な心を砕き、自己中心な思いをきよめ、私たちに神の栄光を示し、私たちを神の栄光の姿へと変えてくださるお方なのです。「主は御霊です。」とは「御霊は主です。」というのと同じことです。新共同訳は16節と17節を「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは "霊"(聖霊)のことです」と、わかりやすく訳しています。

 聖霊は、神の霊、キリストの霊として、隠れた働きをされるので、聖霊を「主」として、聖霊に聞き従うということを忘れてしまうことがあります。聖霊は、私たちに神の声をはっきりと聞かせてくださるお方です。聞こえにくくなった耳に対して、補聴器のような働きをしてくださいます。しかし、私たちは、自分が聞きたいことには補聴器を「オン」にし、聞きたくないことには「オフ」にするようなことをしていないでしょうか。たとえそれが耳障りであったとしても、神のことばは神のことばとして聞かなくてはならないのですが、聖霊を「主」にするのではなく、いつの間にか自分が聖霊の主人になってしまって、その働きをコントロールしようとしていないかどうか、反省してみたいと思います。聖霊を求めるとは、聖霊の力だけを利用するということでなく、聖霊を「主」として迎え入れること、聖霊を「主」として崇め、このお方に服従することなのです。

 今月、母の日を前に、白百合会で「マザー・テレサ」の映画を見ました。ご覧になった方はそれぞれに感動し、多くのことを学んだことでしょう。私は、その映画を見て、「神のわざは神の方法で」ということを教えられました。マザー・テレサがノーベル賞を受け有名になっていくに従って、彼女の働きを支える人たちは大きな組織を作っていきますが、マザーはその組織を解散させてしまい、理事会から立ち去ってしまいました。人々は、マザー・テレサの働きを組織化することに力を尽くしてきた神父に対して、「マザーはあなたの三十年の努力を一瞬にして否定したのですよ。それでもいいのですか。」と言いましたが、彼は「いや、私が間違っていた。神のわざは、それにふさわしい仕方で行われなければならない。」と答えて、彼はなおもマザーに従っていきました。「神のわざは、神の方法で」、つまり、神への愛、みことば、祈りによって、そしてなによりも聖霊の力によって行われるべきものなのです。

 ペンテスコテのこの日、もう一度、聖霊を「主」としてお迎えしましょう。アウグスティヌスのものとされている祈りをご一緒に祈りましょう。

 (祈り)

聖霊よ、私に息を吹きかけてください
私の思いのすべてがきよくなるために

聖霊よ、私のうちにお入りください
私のなすこともまたきよくなるために

聖霊よ、私の心をとらえてください
私がきよいものだけを愛するようになるために

聖霊よ、私を強めてください
私がきよいものすべてを守るようになるために

聖霊よ、私を守ってください
私が常にきよくあるために

5/27/2007