父、御子、御霊

コリント第二13:11-13

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13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
13:12 聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

 一、聖書と三位一体

 みなさんの家に「エホバの証人」と呼ばれる人たちが来て、「聖書を勉強しませんか。」と誘われたことはありませんか。『ものみの塔』や『目ざめよ!』といったパンフレットを置いていくこともあります。この人たちは、真面目な人々で、自分たちの教えを忠実に学び、熱心に布教活動をしています。その忠実さや熱心さには見習わなければならないものがあるかもしれませんが、その教えは、いちばん大切なところが聖書と違っています。「エホバの証人」は「エホバ」の名前で呼ばれる父なる神だけが「神」であり、イエス・キリストも聖霊も「神」ではないと言うのです。

 しかし、聖書は、はっきりとイエス・キリストは神であると教えています。ヨハネ1:1に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。続くヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。ヨハネが言っている「ことば」は神の御子、子なる神のことです。このお方が人となって来られた、それがイエス・キリストです。イエスは、ご自分が神であることをはっきりと示されました。預言者たちは「主はこう言われる。」と言って、神の使者として神のことばを伝えました。しかし、イエスは、「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う。」と言って、人々に教えました。預言者が「神について」教えたのに対して、イエスは「神として」人々を教えたのです。また、イエスはヨハネの福音書で、七回、「わたしは、〜である。」と言っておられます。「わたしはいのちのパンである。」(6:35)、「わたしは世の光である。」(8:12)「わたしは門である。」(10:9)「わたしは良い羊飼いである。」(10:14)、「わたしはよみがえりであり、いのちである。」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である。」(14:16)と言われ、そして、「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1)と言われました。「わたしは〜である」という言い方には「わたしこそ〜ある。他にはない」という強い意味がこめられています。 神のほかに「真理」があり、「いのち」があるでしょうか。イエスは、ご自分こそが「真理」であり「いのち」であると言われ、ご自分が神であると主張されたのです。

 じつは、ヨハネの福音書にはもうひとつ「わたしはある」ということばがあります。それはヨハネ8:57です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」イエスは、ユダヤの人々が先祖として尊敬してやまないアブハムの以前から存在していたと言われたのです。これはヨハネ1:1に「ことばは神とともにあった。」とあるように、御子イエスが永遠のはじめから神とともに存在しておられたということを言っています。

 イエスが「わたしは〜である」と言われるときには、"I am" のあとに続くことばがありました。"I am the bread of life." "I am the light of the world."などのようにです。ところがヨハネ8:58では、イエスは "I am" としか言っておられません。これは舌足らずのことばではなく、それはもっとすごいことを物語っている表現なのです。出エジプト記にあるように、モーセが神のお名前を尋ねたとき、神は「わたしは有って有る者」("I am that I am.")と言われ、そこから神が「ヤーウェ」または「エホバ」と呼ばれるようになったのです。イエスは、ここで、「わたしはいる」と言うことによって、ご自分が「有って有る者」「ヤーウェ」、または「エホバ」であると言われたのです。そのため、ユダヤ人たちは、イエスを冒涜の罪で石打ちにしようとしたのです。イエスは、この他にも多くのことばで、また、奇蹟によって、ご自分が神であることをはっきりと語り、示されました。今は、触れませんが、聖霊が神であることも、聖書のいたるところで教えられています。

 イエスは言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」クリスチャンは「キリストの証人」です。イエス・キリストが神であるとあかしするのがクリスチャンです。ここに、「エホバの証人」との違いがあります。「エホバの証人」がどんなに聖書を使ったとしても、その教えにクリスチャンの教えと共通した部分があったとしても、その人たちは「クリスチャン」ではありません。キリストを神として信じないからです。キリストを告白することなしに救いはないのですから、「キリストの証人」である私たちは、もっとキリストを知り、キリストを神としてあがめ、それによってキリストをあかししていきたいと思います。キリストが神であることを身をもって示すことにより、「エホバの証人」にまさる「キリストの証人」になりたいと思います。

 二、歴史と三位一体

 神がおひとりであり、同時に父と子と聖霊であることは、教会のことばで「三位一体」と言います。「三位一体」を否定する人たちは、「三位一体」ということばは聖書のどこにも無いと言います。確かに「三位一体」ということばは聖書にはありません。しかし、三位一体の事実は、聖書のいたるところにあります。「三位一体」という用語は教会が作ったものです。しかし「三位一体」の教えは、教会が時代が作り、時がたつにつれて発展していったものではなく、最初から教会に与えられていたものでした。

 初代教会では、バプテスマ(洗礼)は、父と子と聖霊の名によって授けられました。主イエスが「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。」(マタイ28:19)と命じられたことを、教会は忠実に守ったのです。マタイ28:19の「父、子、聖霊の御名によって」の「御名」は単数です。父と子と聖霊のお名前なら、複数形の "names" にならなければならないのですが、聖書では単数形の "name" が使われています。これは、父、子、聖霊がひとりの神であることを教えています。また、バプテスマ(洗礼)が「父と、子と、聖霊の御名」によって授けられただけでなく、バプテスマを受ける人も、神を父として、子として、聖霊として信じ、告白しました。バプテスマ(洗礼)を受ける人は、みな、「使徒信条」を学び、それを告白しました。その「使徒信条」には「われは全能の父なる神を信ず」「われはそのひとり子イエス・キリストを信ず」「われは聖霊を信ず」とあります。使徒信条は紀元一世紀にまでさかのぼることができるもので、初代教会は最初から「三位一体」の信仰を持っていたのです。

 「三位一体」の信仰は、時代がたつにつれて形づくられたというよりは、時代がたつにつれて、なし崩しにされてきました。プラクセアス、サモサタのパウロス、サベリウスなどという人々は、神は父と子と聖霊の三つのお方でなく、ひとりの神が、ある時は父、ある時は子、ある時は聖霊という姿をとって現れただけであると言い出しました。そうした説が斥けられると、キリストは神に近い存在だが、神ではないという説が出てきました。「アリウス説」と言われているものです。318年にアレキサンドリアの司教アレクサンドロスが「三位一体」についての説教したところ、アリウスという学者がその説教を批判し、論争が起こりました。この論争に決着をつけるために325年の6月19日から8月25日までニカヤで、318人の指導者たちが集まって教会会議が行われました。アリウス派は「キリストは、ある時点で神によって造られた神的な存在であるが、永遠でもなく神と同質でもない。」と主張しました。それに対してアレクサンドリア教会の執事アタナシウスは、「キリストは永遠の先から神とともにおられ、神と等しいお方である。キリストが神に劣る者であるなら、われわれの救いはない。」と言ってアリウス派に反論しました。アタナシウスは、このときまだ30歳そこそこでしたが、聖書の真理のために戦ったのです。しかし、会議は論争を嫌う人々によってアリウス派に妥協した形で閉じられました。その後アリウス派は勢いを増し、アタナシウスは死ぬまでに5回も追放されるという苦しみを味わいました。「三位一体」を受け入れるには、神のことばに聞く従順な信仰が求められますので、間違った「アリウス説」のほうが人々に受け入れられ、ポピュラーになってしまったのです。しかし、神のあわれみと聖霊の導きにより、教会は正しい教えに立ち返り、381年のコンスタンチノープル会議では「三位一体」の教えが妥協のない形で言い表され、「アリウス説」は斥けられました。

 教会は聖書が教え、使徒たちが伝えた教えに立ち返ったとき、祝福を受けました。その後、当時はまだ未開の地だったフランス、イギリスにも伝道がなされるようになり、アウグスティヌス、クリスソストモスなどといったすぐれた説教者が生まれました。ヒエロニムスは全聖書をヘブル語とギリシャ語から翻訳するという大事業を完成させました。最初、ニカヤ会議に集まった人々は、318人のうち200人までもが妥協的な案に賛成して、真理に立つ者たちが苦しめられ、教会は力を失いました。誰も論争は好みません。妥協的であることのほうが「愛がある」と思われるのは、昔も今も変わりません。しかし、歴史は、教会が真理に立つとき、祝福されることを教えています。私たちも、今日の教会と将来の教会の祝福のために、アタナシウスのように、真理に立ち、そのために声をあげる責任があると思います。

 アタナシウスの死後何年も経ってから、「三位一体」についての良くまとまったステートメントが出されました。それは、アタナシウスが書いたものではありませんが、「三位一体」の信仰のために命がけで立ち上がったアタナシウスの勇気を記念して「アタナシウス信条」という名で呼ばれるようになりました。それは、このようなことばではじまっています。「すべて救われたいと願う者は、何よりも公同の信仰を保つことが必要である。その信仰を、何人も、完全にしかも汚されることなく守るのでなければ、疑いもなく永遠に滅びるであろう。公同の信仰とはこれである。我らがひとつなる神を三位において、三位を一体において礼拝することである。…」「三位一体」の教えは、妥協が許されるような教えではありません。これなしには人が救われ、神を正しく礼拝することができないのです。私たちのまわりには「キリスト教」と称するものがさまざまあります。しかし、「三位一体」を信じないものは、どんなに「キリスト教」に近いものであっても、「キリスト教」ではありません。「似て非なるもの」なのです。私たちはそれをしっかりと見極める眼を持ちたいものです。

 三、信仰生活と三位一体

 今までのお話で、「三位一体」は聖書の教えであり、歴史を通して教会が守り続けてきたものであることをお分かりいただけたと思います。しかし、それだけなら、いくら「三位一体」が大切な聖書の教えであると言われても、それが「私にとって」どれほど大切なのかを、実感として感じることができません。現代は、「ポストモダン」と呼ばれる時代で、客観的なものよりも、主観的なものが重んじられる時代です。自分にとって心地よいものであるか、そうでないかという尺度ですべてのものが量られるのです。聖書には、イエス・キリストが人となられ、十字架で苦しみを受け、死んでよみがえられ、再び世に来られるという、この世のどこにもないすばらしい教えがあるのですが、そうしたことは、今、ここに生きる自分には関係ないものと考えられ、そんなことよりも、「どうしたら人間関係をうまくやっていけるか」、「こどもを良い子に育てられるか」、「職場で出世して給料があがるようになるか」などといったことを聞きたいと言うのです。しかし、日常のさまざまなことがらの答えはすべて、今から二千年前のイエス・キリストの十字架と復活にあるのです。もっとつきつめていけば、「三位一体」の神にあるのです。「三位一体」の教えは決して、私たちの生活に無意味なものではありません。私たちは、「三位一体」の神に生かされているのですが、それに気づいていないだけなのです。それは、ちょうど、私たちが空気を吸って、それによって生かされているのですが、それが、あまりにもあたりまえすぎて、そのことに感動したり、感謝したりしていないのと同じです。もし、大地震が起こって、皆さんが、狭いところに閉じこめられたとしましょう。完全に外の世界から遮断されると、その場所にある空気がだんだんなくなってきます。以前、宇宙船アポロで事故があったとき、キャビンの酸素がなくなってきて、飛行士たちの命が危険にさらされたことがありました。炭坑の事故でも同じようなことが起こります。そのような状況だと思ってください。真っ暗な中で、喉が渇き、息苦しくなり、意識も朦朧としてきたとき、レスキュー隊が穴を空け、そこから空気を送りこんできたとしたら、人々はどんなに空気のありがたさを感じ、それに感謝することでしょうか。

 同じように、私たちも、疑いの洞穴の中に閉じこめられ、神が見えなくなり、自分の救いを確信できなくなったとき、そこに聖書の真理が届けられるなら、自分をほんとうに救い、生かしておられるのは、「三位一体」の神であることが分かるようになるのです。「三位一体」は理性で分かろうとしても分かりきれるものではありません。この真理は人間の知性を超えた奥義です。しかし、信仰によってこの真理を受け入れるなら、この真理が私たちの中に入ってきます。この真理を信仰生活の中で「体験」することができるようになります。聖書は、父なる神が救いを計画し、御子イエスがなしとげ、聖霊がそれを保証してくださると教えています(エペソ1:3-14)。テトス3:6に「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」とあります。私たちは、聖霊によらなければ、イエス・キリストを「主」と告白することはできず(コリント第一12:3)、神を「父」と呼ぶことはできない(ローマ8:15)のですから、父なる神が聖霊をくださらないかぎり、私たちに救いはありません。しかし、聖霊は、御子を通してでなければ私たちに与えられないのです。父、御子、御霊の神のすべてが私たちに必要です。三位の神が一体となって私たちの救いをなしとげ、私たちを救いの中に保ってくださっています。「三位一体」は罪人の救いの中にもっとも良く表されています。ですから、私たちは、罪を悔い改め、救いを受け入れ、救いの恵みの中に歩むとき、もっとも良く「三位一体」の神を「体験」することができるのです。「三位一体」の神との愛と信頼の関係に入ることができるのです。

 今日は「三位一体主日」で、今日から後の日曜日はアドベントまで「三位一体後第一主日」「三位一体後第二主日」というように数えられます。半年間、「三位一体」という言葉が繰り返されます。なぜでしょうか。それは、毎週の礼拝や日々の信仰生活が「三位一体」の神とのまじわりだからです。私たちは、「父、御子、御霊のおおみ神に、…」と頌栄を歌い、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」との祝福で礼拝を締めくくっています。そうなら、礼拝も「おはようございます」ではじめるのでなく、"In the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit"「父と子と聖霊の名によって」はじめたいものです。「父、御子、聖霊の名によって」バプテスマを受けたクリスチャンは、このように「父、御子、御霊」を礼拝し、「父、御子、御霊」を信じ、父なる神の愛、御子イエスの恵み、御霊のまじわりの中に生かされていくのです。今日も、心を込めて "Glory to the Father, and to the Son, and to the Holy Spirit: as it was in the beginning, is now, and will be forever."(「父、御子、御霊のおおみ神に、ときわえに、たえせず、み栄えあれ」)と頌栄をささげ、「父、御子、御霊」からの祝福を受けて一週間を歩みだしましよう。

 (祈り)

 全能の唯一の神よ、あなたは父であり、子であり、聖霊です。それは奥義であって、私たち人間にはとうてい理解することができません。しかし、あなたは、その奥義を罪人の救いの中に示してくださいました。父なる神さま、あなたは世を愛し、御子を私たちの救いのために世に遣わしてくださいました。御子イエスさま、あなたは十字架のあがないと復活によって罪の赦しを勝ち取ってくださいました。聖霊なる神さま、あなたは、私たちをキリストの救いに導き、救いのうちに保っていてくださいます。最も聖なる奥義が、最も罪深い者たちの救いの中に示されているとは、なんという不思議でしょうか。「三位一体」は、罪人がその罪を悔い改め、信仰をもって神に立ち返るときに、最も良く理解されます。私たちを、常に、悔い改めと信仰に導き、「三位一体」であるあなたを心からの敬いをもって礼拝する者としてください。父、子、聖霊にとこしえまでも、み栄えがありますように。

5/18/2008