聞かれなかった祈り

コリント第二12:7-10

オーディオファイルを再生できません
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 「祈りは聞かれる!」―これは聖書の一貫した主張です。聖書は、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)と約束しています。この約束は真実です。皆さんの多くは、そのことをすでに体験していることでしょう。しかし、時には、私たちの心の中に「神はすこしも聞いてくださらない。答えてくださらない。」という思いが起こることがあると思います。「祈っても祈ってもやはり駄目だった。祈りは聞かれなかった。」と失望してしまうこともあるでしょう。しかし、ほんとうに神は私たちの祈りに聞いてくださらないのでしょうか。神は、ある人の祈りには聞くが、ある人の祈りは無視する、ある時には答えるが、ある時には沈黙されるという、きまぐれなお方なのでしょうか。決してそうではありません。神は、公平なお方、真実なお方で、誰の祈り、どの祈りにも誠実に答えてくださるのです。もし、私たちの側に「祈りが聞かれない。」「願いが届かない。」という不満があるとしたら、それは、神の側ではなく、私たちの側に問題があるのです。今朝は、「祈りが聞かれない」と感じる時、点検すべき三つのことを、ご一緒に考えてみたいと思います。

 一、祈り続けているか

 第一のチェック・ポイントは「祈り続けているか。」です。

 主イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と言われました。これは、別の言い方をすれば、「求めなければ与えられない。捜さなければ見つからない。たたかなければ開かれない。」ということになります。「祈らなければ答えはない。」のです。「祈りが聞かれない。」という前に、「私は、実際にどれほど祈っただろうか。」と問い直してみましょう。

 主イエスは、願いごとを何百回、何千回と繰り返すだけの祈りに対して、「ことば数が多ければそれで祈りが聞かれると思うな。」(マタイ6:7)と戒めておられます。これは、神のみこころを求めもせず、自分の願い事だけを繰り返し、それを神に押しつけようとする人たちの間違いを指しているのであって、主イエスは、繰り返し祈る必要がないと言っておられるわけではありません。主が教えてくださった主の祈りに「日ごとの糧を今日も、お与えください。」とありますが、この祈りは、毎日祈るべきものとして与えられています。聖書は「絶えず祈りなさい。」(テサロニケ第一5:17)とも教えています。

 今年の夏期修養会の講師、福澤満雄先生は、アメリカに来られる前に、ネパールに福澤牧人先生を訪問し、チベットにも行かれました。そこで仏教徒の方々が、「五体倒地」といって、一歩進むたびに、全身を地面に投げ出して祈り、起き上がっては、また地面に倒れ伏して祈るのを見てこられました。そして、私たちに、「彼らの祈りは間違っているかもしれないが、正しい祈りを知っているという私たちが、彼ら以上に熱心に祈っているだろうか。」と問いかけてくださいました。私たちは、勤勉に、忠実に、忍耐して祈っているでしょうか。同じ祈りを繰り返すというだけでなく、祈るにつれて、その祈りが深められているでしょうか。最初は、心に念じるだけのものであったものが、はっきりと言葉に出して祈ることができるまでになっているでしょうか。自分でも、何を願っているのか分からないような祈りから、神に何をどうしていただきたいのかがはっきり分かるところまで、導かれているでしょうか。

 使徒パウロは、ローマ8:26で「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのです」と言っています。じつは、私たち人間は、本質的には、何をどう祈ったらよいか分からない存在なのです。私たちが祈ることができるのは、ただ聖霊の助けによってなのです。皆さんも、同じ経験があると思いますが、私は、祈っていて、自分の口から思っても見なかったことばが口に出て驚くことあります。祈りのうちに、祈るべきことばが与えられるのです。それは、聖霊の働きです。聖霊は、私たちの不十分な祈りをも、私たちが祈り始め、祈り続けるうちに、何をどう祈ったら良いかを教えてくださり、私たちの祈りを神に喜ばれる祈りへと変えてくださるのです。ですから、私たちは、一度や二度の祈りであきらめず、祈り続けましょう。祈りの時間を決めて勤勉に祈りましょう。答えをいただくまで、忍耐して祈りましょう。聖霊に導かれて祈りが深められるまで祈りましょう。「祈りが聞かれない。」と言う前に、「私は、ほんとうにこのことのために祈り続けてきただろうか。」と、自分の祈りをチェックしてみましょう。

 二、悔い改めをもって祈っているか

 第二のチェック・ポイントは「悔い改めをもって祈っているか。」です。

 祈りには、「賛美」「感謝」「悔い改め」「願い」「とりなし」の五つの要素があります。「賛美」とは神が神であるゆえに、神をあがめるということです。たとえ、自分が落ち込んで、神を見失っているような状態であったとしても、それで神がいらっしゃらなくなるわけではありませんから、私たちはどんな時でも、祈りを神への賛美で始めたいと思います。「感謝」は、「賛美」と似てはいますが、すこし違います。「感謝」は、神が「私」にしてくださった恵みを覚えることです。神がこの「私」にどんなに良くしてくださったかを、数えあげ、神に「ありがとう」を言うことなのです。そして次に来るのが「悔い改め」です。賛美の祈りをささげいるうちに、私は、私のすべてをもって賛美すべきお方を賛美していないことに気付かされます。神が賛美されることよりも、どこかで、自分が誉められることを求めていることを示されます。また、感謝の祈りによっても、今このように生かされているのが神の恵みであるのに、それをすこししか感謝せず、当然であるかのように考えて、不満を口にしている自分に気付かされるのです。賛美と感謝の後、私の祈りはおのずと悔い改めへと導かれていきます。悔い改めは、教会でずっと教えられ、大切にされてきました。ところが、最近になって「悔い改め」はただ消極的で否定的なものにすぎないという間違った考え方が教会に入ってきて、悔い改めが教えられることがなくなり、悔い改めの祈りも姿を消してしまいました。しかし、悔い改めのない信仰が本物の信仰でないように、悔い改めのない祈りも本当の祈りではありません。それは、賛美や感謝についても同じです。アモス5:23に「あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。」とあるように、悔い改めのない賛美は、神の耳には騒音でしかないのです。悔い改めのない感謝は、「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」と祈った、パリサイ人の感謝でしかないのです。祈りは神に自己主張をすることではありません。神に自分を変えていただくことなのです。真実に祈る人は、神の前に頭をたれてへりくだります。

 祈りの第四の要素は「願い」ですが、これも、悔い改めと結びついていないと、その願いは神に届くことはありません。神は、私たちのどんな願いをも聞いてくださいます。全能の神にとって大きすぎる願いがないように、愛の神にとって、小さすぎる願いというものもないのです。しかし、ただひとつ、神に聞き入れられない祈りがあります。それは、自分の欲望を満たすためだけの願いです。ヤコブ4:2-3は「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と言っています。私たちの祈りに悔い改めが含まれていないと、恵みの手段である祈りを、人間の欲望を満たす手段と取り違えてしまうようになってしまいます。

 祈りの第五の要素は「とりなし」です。これは、他の人のために祈ること、あるいは、他の人に代わって祈ることを意味します。家内は、娘たちが赤ちゃんだったころ、ミルクを与える時も、薬を飲ませる時も、「神さま、おいしいミルクをありがとうございます。」「神さま、このおくすりで、わたしをなおしてください。」と、こどものことばで、こどもに代わって祈ってきました。私も、こどもが悪いことをした時、「神さま、ごめんなさい。」とこどもと一緒に祈ったことがあります。このように、こどものために、こどもに代わって祈ってあげることは、こどもの信仰のためにとても大切なことです。あかちゃんの時からそうしてやると、こどもはおのずと祈ることを習うのです。また、「世界はクリスチャンのとりなしの祈りによって支えられている。祈りがなくなる時、世界は悪によって崩れ去る。」と言われているように、世界中の聖徒たちの祈りが、世界に悪がはびこることを防いでいるのです。「祈れ物事」という聖歌に「祈れ、おのれのことよりむしろ、人をとりなす身となるまでは。」と歌われているように、私たちは、自分のことだけでなく、他の人々のために、社会のために、世界のために、もっと祈る者になっていきたいと思います。

 しかし、人のためには祈っても、自分のためには祈らないということがないように気をつけなくてはなりません。人のために祈ることは、その人への愛がなければ出来ないことで、最初は難しいことなのですが、やがて「慣れ」が出てくると、人のためのとりなしの祈りのほうが自分のための祈りよりも易しくなってくるということが起こるのです。どういうことかと言いますと、自分のために祈る時には、自分の願いと神のみこころとの間に葛藤を感じたり、自分の罪と戦い、罪を悔い改める必要があるのですが、人のために祈る場合は、そうした悔い改めや信仰の戦いを省略して祈ることができるからです。しかし、そういうことを続けていると、「あの人が悔い改めますように。この人が恵みを受けますように。」と祈ることはできても、まごころから「私は悔い改めます。私を恵んでください。」と祈ることができなくなってしまうのです。

 「賛美」、「感謝」、「悔い改め」、「願い」、「とりなし」を五本の指にたとえるなら、「悔い改め」は、中指に相当します。中指が五本の指の真ん中にあるように、悔い改めも私たちの祈りの真ん中にあるでしょうか。私たちは、日々悔い改めの祈りをささげているでしょうか。それが二十年前、三十年前だったということがないようにと願います。第二のチェック・ポイントもしっかりと点検しておきましょう。

 三、祈りの答えを見落としていないか

 第三のチェック・ポイントは「祈りの答えを見落としていないか。」です。

 私たちは、多くの場合、祈りが聞かれているのに、自分の願いを神に申し上げることに忙しく、神がくださっている祈りの答えを見落としてしまっていることがあります。そのことを、コリント第二12章から学びましょう。

 パウロは、ここで「肉体のとげ」について語っています。それは、パウロの肉体的な欠陥や病気を指しています。「肉体のとげ」が具体的に何であったかは知られてはいませんが、それはパウロにとって大きな重荷であり、妨げだったようです。そこで、パウロは、それが取り去られるよう「三度も主に願いました。」(コリント第二12:8)「三度も主に願いました。」というのは、たった三回しか祈らなかったということではありません。これは、主イエスがゲツセマネの園で、血の汗を流し「三度」祈られように、パウロもまた、精魂を込めた特別な祈りを三度もささげたという意味です。病気のいやしのためには断食を伴う祈りが必要な場合があります。おそらく、パウロは断食して祈ったのでしょうが、それが一度だけでなく、二度、三度に及んだというのです。パウロが「三度も主に願いました。」というのは、失望せず、あきらめず、忍耐をもって、コンスタントに、祈りに祈った、祈り通したという意味です。

 また、パウロは、彼自身が祈るだけでなく、他の人々にも祈ってもらっただろうと思います。パウロは、いやしの賜物を与えられており、他の人々の病気のいやしのために祈り、彼の祈りによって人々はいやされていきました。いやしの賜物は人目に触れるもので、いやしの賜物を与えられた人が、そのことで有頂天になってしまい、自分自身のために真剣に祈らないということが、しばしばあります。あるテレビ伝道者が、事件を起こして刑務所に入った後、悔い改めの手記を書きました。彼は、その中で、彼の番組が大変ポピュラーになった時のことをふりかえって、「私は力に満ちていた。誰からも祈ってもらう必要も、自分のために祈る必要も感じなかった。」と書いています。「誰からも祈ってもらう必要も、自分のために祈る必要も感じなかった。」というところに、実は、この人の最大の誘惑がありました。そして、その誘惑は、私たちにもあてはまります。自分の弱さを知り、人々に祈ってもらい、自分も祈りに祈って奉仕をするというのでなければ、神のために奉仕するということにおいてさえ、容易にサタンの罠にはまってしまうことがあるのです。パウロは、いつも、他の人々に「私のためにも祈ってください。」(エペソ6:19-20)と願うへりくだりを持っていました。

 聖書には、この肉体のとげのことで、パウロがどう祈ったかは書かれていませんが、彼が病気のいやしを願ったのは、健康で気分良く暮らせるためでなかったことは確かです。パウロは常に伝道のことを考えていましたから、病気によって伝道が妨げられることがないように、もっと伝道に専念できるようにと、神に訴えたと思います。ところが、神の答えは違っていました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(コリント第二12:9)パウロがコリント第一15:10で「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と言っているように、伝道の働きや他の奉仕は、人間の働きのように見えても、じつは、神の恵みの働きなのです。人は神の恵みの器として用いられているにすぎません。たといパウロに肉体の欠陥があったとしても、病気があったとしても、その弱さを通して、もっと神の恵みが現れ出るというのです。健康で、能力があり、財力があれば、神のために十分な働きができるが、身体が弱く、能力に乏しく、多くを持たない者は、あまり神の役には立たないというのが、私たち人間の一般的な考えかもしれませんが、神の考えは、それとは全く違うのです。神の恵みは、完全で、力強く、それは人がかかえている弱さによって損なわれるものではないのです。自分の弱さを知っている者は、それによってより神に深く信頼しますので、自分の強さを誇り、それに頼る人よりももっと力ある働きをすることができるのです。

 パウロが祈ったように肉体のとげは取り去られませんでした。病気のいやしそのものは与えられませんでした。しかし、神は、そのことで伝道が妨げられないようにと、パウロにテモテ、テトスやルカという協力者を与えてくださいました。ルカは医者でした。パウロもまた、自分の弱さを認めていたからこそ、神の前にへりくだることが出来、他の人々と共に働くことができたのです。パウロの祈りは、そのままの形では聞かれませんでした。しかし、パウロは、肉体のいやしよりももっと素晴らしい、祈りの答えを受け取ったのです。

 ですから、私たちは、願い通りのものが与えられなかったからといって、それで、神が祈りに答えてくださっていないと思ってはいけません。神は私たちの願いを越えた素晴らしい仕方で答えようとしてくださっている、いや、すでに答えていてくださっているということを、見逃してはいけないのです。私は最初に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)というみことばを引きました。このみことばは「思い煩うな。祈れ。」と教えています。思い煩いから解放される唯一の方法は祈りだからです。けれども、「祈っているんですが、すこしも思い煩いがなくならないのです。」と言われる方もあります。その場合、思い煩いの原因になっているものだけに目を留めて、みことばに約束されている祈りの答えを見逃していないかと考えてみる必要があります。私たちは多くのことで思い煩います。健康のこと、経済的なこと、こどものことなど、思い煩いの種は、私たちの回りに満ちており、おそらく、この世に生きているかぎりそれはつきまとうでしょう。思い煩いから解放されるとは、そうした思い煩いの種が消えてなくなることではなく、たとえそうしたものに取り囲まれていたとしても、心に神の平安を宿すことなのです。「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあるように、「神の平安」が心に与えられ、その「平安」が私たちの心を守るのです。思い煩いの種は消えない、病気はまだいやされない、収入も増えない、自分を悩ませることにとりかこまれ、自分を悩ませる人が相変わらず身近にいると言って、まわりの状況だけを見ていると「神は祈りに答えてくださらない。」という不満で終わり、さらに思い煩うようになってしまいます。神は、私たちにどんな状況の中でも確かな歩みができるよう、神の平安を与えてくださっています。多くの課題と重荷を抱えなければならないとしても、私たちは、この平安によって前進していくことができるのです。しっかりと神の約束に立ちましょう。その時、自分が期待していたものより、はるかにすぐれたもので神が祈りに答えてくださっていることに気付くことでしょう。

 今朝のメッセージのタイトルは「聞かれなかった祈り」でしたが、その後ろにクエッション・マークをつけて「聞かれなかった祈り?」としたほうが良かったかもしれません。なぜなら、聞かれない祈りはないからです。神はすべての祈りを聞いてくださいます。ただ、祈りの答えは、私たちが期待した通りと同じというわけではありません。しかし、神の答えは、常に、私たちの期待よりもすぐれたものであることは間違いありません。祈り続けることによって、悔い改めをもって祈ることによって、その神の答えを見出し、手にしようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはすべての祈りに耳を傾け、聞いくださり、多くの場合、すでに答えを与えてくださっています。私たちは、祈らないために、その答えを受け取ることができないでいることがあります。また、祈ってはいても、自分の願いだけに目を留めて、あなたを見上げることを忘れてしまい、すでに与えられている祈りの答えを見逃してしまうことがあります。そのようなことのないよう、私たちに自分のために祈ることを教えてください。他の人に祈ってもらう謙遜を与えてください。そして、祈りによって自分自身が神のみこころにかなうものへと造り変えられていく恵みにあずからせてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/7/2005