敬虔のための訓練

テモテ第一4:6-9

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4:6 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。
4:7 しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。
4:8 からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。
4:9 これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉である。

 わたしはアメリカに来て三人の素晴らしい説教者に出会いました。ひとりは W. A.クリスウェル先生です。あるこどもが両親といっしょに車に乗っていて、クリスウェル先生の説教を聞いて、「ねえ、お父さん、今、神様がはなしてるの?」と言ったという話があるほど、先生は、神の代弁者として、まるで旧約の預言者が語るように語られました。

 次はジョン・マッカーサー先生で、先生はご自分で "Pastor and Teacher" というタイトルを好んで使われるように、聖書を細かく教えながら、大切な真理へと導くようにしてメッセージを語られます。

 三人目はチャック・スウィンドール先生で、先生は日常の生活や人生の事柄を題材に話されるのですが、それだけで終わらず、聴く者を神の言葉へと誘ってくれます。わたしはアメリカに来たばかりのころ、スウィンドール先生のお話に魅力を感じて、“Insight for Living”というラジオ番組やメッセージのテープを聞いたり、何冊かの著書を読みました。

 スウィンドール先生の著書の中で、わたしが大切にしているのは、 “So, You Want to Be Like Christ? –– Eight Essentials to Get You There”という本です。2005年にこの本が出版されたとき、すぐに買って読みました。そして、その年の7月10日の礼拝メッセージでは、早速、この本から引用してお話をしました。

 その後、Richard Foster の “Celebration of Discipline”、James Houston の “Joyful Exiles” などを読みました。2007年に、ある大学の「霊性の神学」の講義を受け、その教授であった Kevin Joyce 師が主宰するリトリートにも参加しました。これはわたしの信仰生活の転機となりました。

 この転機に導いてくれたのはスウィンドール先生の書物でした。しかし、人の書いた書物は、どんなに素晴らしくても、聖書に代わるものではありません。それはわたしたちが神の言葉に目を向け、それを理解し、実行するための助けでしかありません。これからの礼拝メッセージでは、スウィンドール先生はじめ、他の霊的な指導者たちの書物から引用することがありますが、大切なのは聖書の言葉ですから、そのことを忘れないで、しっかり聖書を学びたいと思います。

 一、敬虔という目標

 スウィンドール先生がこの書物の主題聖句として取り上げているのは、テモテ第一4:7「信心のために自分を訓練しなさい」です。新改訳では「むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい」となっています。「信心」という言葉より、「敬虔」という言葉のほうが、良く使われますし、英語の“godliness”とも一致しますので、「信心」というところを「敬虔」と読み替えてお話ししたいと思います。

 では、「敬虔」とは何でしょうか。英語では“godliness” の他、様々に訳されまが、それは神に対する誠実な心と神を恐れる生き方であると言ってよいでしょう。英語の“godliness”には「神のようになること」という意味があります。これは、ペテロ第一1:15で「あなたがたを召してくださった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」とあるように、「神にならう」ということを意味しています。ペテロ第二1:4には「あなたがたが世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである」とあって、「敬虔」とは「神の性質にあずかる」ことと言われています。

 日本の文化では、他の人より優れたことができる人は、簡単に「神」と呼ばれます。昔から「学問の神様」、「芸能の神様」がいて、信仰の対象になっていました。現代では、「野球の神様」や「サッカーの神様」もいます。一時、「神ってる」などという言葉が流行ったこともありました。

 しかし、聖書は、創造者である神と被造物である人間には大きなへだたりがあること、また、聖なる神と罪ある人間の間には超えられない深い淵があることを教えています。人間を神にすることは偶像礼拝であり、人間が神のようになろうとすることは、高慢で恐ろしい考えとされています。しかし、聖書は、それと同時に、罪ある人間が、その罪からきよめられ、神のきよさに与ることができると教えています。また、被造物の中でも、特別に「神のかたち」に造られた人間が、罪によって壊されてしまった「神のかたち」を取り戻し、神に愛され、神を愛する者へと変えられると教えています。

 救いとは「イエス・キリストを信じて罪が赦され、神の子どもの身分を与えられること」と言われます。たしかにその通りなのですが、それだけでは、救いの半分でしかありません。救いには、罪がゆるされるだけでなく、その罪からきよめられ、実際に正しい生活ができるようになることが含まれています。神の子どもの身分が与えられるだけでなく、聖霊によって神の子どもとしての性質を持って生まれ、それが成長して、神の子どもらしくされていくこともまた救いの大切な要素なのです。

 救われるというのは、わたしたちが神を信じる者になって終わるのではなく、より神に近づき「敬虔な者」になっていくということなのです。「敬虔」、それはイエス・キリストの救いの一部であり、キリストを信じる者が目指すべきゴールです。それで、ペロテの第二の手紙では「神の性質にあずかる者となるためである」と言ったあとで、「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心(敬虔)を、信心(敬虔)に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい」(ペテロ第二1:5-7)と続けているのです。

 皆さんは、このゴールを信仰生活のゴールとして、しっかり持っていますか。また、わたしたちは、教会としても、このゴールに向かっているでしょうか。年のはじめにそのことをもういちど問い直したいと思います。

 このゴールは、確かに高いゴールです。しかし、全く到達不可能なゴールではありません。なぜなら、イエス・キリストが、このことを可能にしてくださったからです。イエス・キリストは神の御子であられたのに、人となってくださいました。神と人との、本来は超えられない大きいへだたりを、神の方から超えてくださって、御子なる神は人を神に近づけるために、人となってくださいました。わたしたちはそれによって、神の性質に与かることができるのです。

 そればかりではなく、人が神に信頼し、「敬虔に」生きるとはどうすることか示すため、イエス・キリストは地上で神のしもべとして生きてくださいました。ですから、「敬虔」とは、「神に倣うこと」であると同時に、もっと具体的には「キリストに倣うこと」なのです。イエス・キリストは信じる者を救うお方であり、同時に、信じる者たちが目指すべき模範なのです。ヘブル12:2にあるように、「信仰の導き手であり、またその完成者である」イエス・キリストから目を離さずにいたいと思います。こんな偉大なゴールを与え、そこに至る道を導いてくださる神の恵みに感謝したいと思います。

 二、敬虔のための鍛錬

 さて、聖書は「むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい」と命じています。「敬虔」というゴールは、何もしなくてもそこに到達できるものではないからです。この世は「敬虔」とは逆の方向へと流れています。わたしたちが能力や権力、名声や富を持てば、人々はそれを評価しますが、世は、敬虔であることやきよくあることなどは何の役にも立たないものと考え、それを笑いものにします。

 そして、世は、自分たちと同じ価値観を持たないキリスト者を迫害します。それは、使徒たちとその後の時代ばかりでなく、現代でも同じだと思います。信仰の自由のない国だけでなく、アメリカや日本でも、迫害は形を変えて存在します。テモテ第二3:12に「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」とあるのは、本当です。

 また、真実なキリスト者は、この世からだけではなく、みずからを「キリスト者」と名乗りながら、その教えも行いも持たない人たちからも苦しめられてきました。テモテ第二3:5に「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい」(新改訳)とある通りです。

 何事においても、ひとつのゴールを持ち、生涯、それに向かって生きるということは、簡単なことではありませんが、「敬虔」をゴールにすることほど困難なことはありません。ですから、わたしたちには「敬虔のための鍛錬」が必要なのです。それを受ける覚悟が必要です。

 「鍛錬」と訳されている言葉は、原語で“gumnasia”と言います。この言葉から “gymnasium”という言葉が生まれました。アメリカではほとんどの人がフィットネス・センターにジム通いをしています。そこではまずアセスメントが行われ、自分の強いところや弱いところが見極められます。そして、ゴールを決め、スケジュールを立てます。ジムに通う人は、スケジュールとコーチの指示に従わなければなりません。聖書が書かれた一世紀には、今日のフィットネス・センターのようなところはありませんでしたが、オリンピックに出る選手たちは、特別な訓練を受けました。聖書が「敬虔のための鍛錬」と言うときには、そのように目標や計画があって、指導者に導かれる、霊的訓練を意味しています。

 聖書は「からだの訓練は少しは益するところがあるが…」と言っていますが、それは、健康を保つことを軽くみているわけではありません。現代のアメリカでは、どうしても運動不足になりますから、からだの鍛錬も大切だと思います。そして、多くの人がそのことに熱心です。そのために、時間を使い、お金を使うことを惜しみません。それほどの熱心さで、霊的な鍛錬にも取り組むなら、どんなに素晴らしいことでしょう。聖書が「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」(新改訳)と言っているように、敬虔のための鍛錬は今のいのちばかりでなく、未来のいのちも豊かになる約束されているのです。

 スウィンドール先生がダラス神学校のプレジデントだったとき、ダラス・カウボーイのヘッドコーチだったトム・ランドリー氏が理事のひとりでした。スウィンドール先生は、神学校の朝食会でランドリー氏が話した言葉をその本の中に書いています。「コーチとしてのあなたの仕事はなんですか」と尋ねられ、ランドリー氏はこう答えたそうです。「選手たちがいつも達成したいと願っていることを達成させるために、彼らがやりたくないことをさせることが、わたしの仕事です。」

 フットボールの選手にとって達成したいことといえば、スーパーボールで優勝することです。しかし、スーパーボールで優勝するためには毎日、基本的な訓練を繰り返す必要があります。プロの選手はそんなことよりも、もっと高度なことや目立つことをやりたがるものです。ランドリー氏は、フットボールの攻撃や守備にそれまでになかった新しいフォーメーションを造り出した人ですが、選手たちが「やりたくない」と思っている、基礎訓練を重視し、それをやらせる苦労を積み重ねました。それによって、ヘッドコーチとしての在任期間、チームをスパーボールチャンピオンに導いています。

 わたしはランドリー氏の話を聞いて、牧師の仕事も似ていると思いました。「敬虔のための鍛錬」や「霊的な訓練」が大切なことは、クリスチャンであればだれもが認めます。しかし、実際に、個人の生活でも、教会のスケジュールでも、そのために使われる時間はごくわずかです。人は、どうしても、好きなこと、やりたいことをやってしまいます。わたしたちの心はそれで満足するかもしれません。しかし、それは表面的な満足に過ぎません。わたしたちの霊はそうしたものでは満足しないのです。静かに内面の声に耳を傾けてみてください。信仰者には、神に近づきたい、キリストに似たものになりたい、敬虔というゴールを目指したいという、霊の声が聞こえるはずです。その声に素直になって、互いに励まし合って、ともに、ゴールを目指していきたいと思います。

 神はわたしたちひとりひとりに命じておられます。「むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。」この神の言葉に、信仰をもって答えましょう。今年、個人として、また、家族として、そして、教会として何を、どのようにしていけばよいのかを、尋ね求め、主の導きを受けたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、この年のはじめ、きわめて明確に、あなたのみこころを示してくださいました。「むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。」この御言葉に、わたしはどう答えれば良いのでしょうか。また、わたしたちは教会として何をすれば良いのでしょうか。主よ、祈りの中でわたしたちに答えを与えてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/7/2018