信仰の奥義

テモテ第一3:8-16

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3:8 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、
3:9 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。
3:10 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。
3:11 婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。
3:12 執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。
3:13 というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。
3:14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。
3:15 それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。
3:16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

 一、執事のつとめ

 今日は、礼拝に続いて臨時教会総会を開き、理事、執事、そして教団総会代議員を選ぼうとしています。6月の第一日曜日には理事、執事の就任式を行ってきました。6月の第二日曜日は教会総会で、そこでも日英両語部の理事、執事が紹介されます。また、年度報告には理事会の報告と各執事の報告が載っています。「マンスリーレポート」には執事会で話し合われたことが書かれている他、執事会で決まったことは各執事からそれぞれの集会やグループの責任者に伝えられることになっています。必要に応じて理事や執事が直接アナウンスメントをすることもあります。洗礼や入会のさいは執事たちとのミーティングがあり、新しくメンバーになる人が誰が執事で、その人がどんな奉仕をしているのかを知る機会を設けています。それでもまだ理事と執事の違いがよく分からない、理事や執事がどんなことをしているのか分からないという声がありますので、あらためて理事のつとめ、執事のつとめについてお話ししておきたいと思います。

 教会規則によると「当教会は、不動産、備品等を所有するために宗教法人として組織され、理事会を選出し、法人役員を任命する。…理事会の職務は、教会の不動産、備品等を管理し、教会財産に関する法律上のすべての問題に対して、教会のために処理することである。」(第11条)とあります。理事は宗教法人上の責任役員で、教会の財産を管理する責任を持っています。具体的には教会の不動産をはじめリザーブ・ファンド、ビルディング・ファンド、オート・ファンドを管理し、一般会計の予算案を承認し、教会の建物の改築、修理、保守、大きな備品の購入を担当します。

 執事は規則では「教会員の霊的必要に奉仕し、教会の管理運営にあたる。」(第6条)とあって、具体的には、教会の礼拝、伝道、教育、福祉、そして総務の各部門でそれぞれの奉仕者を導き、教会のミニストリーを進めていきます。また、そのために必要な一般会計の運用にあたっています。

 執事の役割は聖書に根拠があり、最初の執事は使徒6章に登場します。エルサレムで教会がはじまったとき、教会は最初十二人の使徒たちによって指導されていました。エルサレムの教会にはヘブル語を話す人たちとギリシャ語を話す人たちがて、ギリシャ語を話す人たちから「自分たちのやもめたちに対する配給が少ない。不公平だ。」という苦情が訴えられました。それで使徒たちは七人を選び、この問題の解決を委ねました。使徒たちは祈りと教えに専念し、七人の人たちは使徒の補助者としてその他の奉仕に励んだのです。

 教会がエルサレムからさまざまな地域に広がっていったとき、各地域には使徒の後継者としての監督が、個々の教会には監督に任命された牧師が立てられましたが、それとともに牧師の補助者としての執事が置かれました。聖書の教える教会組織は非常にシンプルで、教会は監督、牧師、執事という三段階の指導によって導かれるのです。監督は使徒たちから伝えられた信仰を守るつとめを、牧師はそれを教えるつとめを、執事はその教えを実行に移すつとめを与えられているのです。

 聖書には「理事」という言葉はありませんが、初代教会にも教会の建物があり、やもめや貧しい人々への援助をしていましたから、財産も予算もありました。ローマ時代には身分が奴隷の人が多かったのですが、教会ではその人たちが自由になることができるために贖い金を積み立てることもしていました。パウロは週の初めの日ごとに、つまり、日曜日の礼拝で献金をするよう教えています。当時貧しかったエルサレム教会への特別献金も募られていました。こうした仕事はかつては執事がしていました。しかし現代では、教会は宗教法人として財産を登録し、管理する責任があるので、執事のうち財産の管理や法律上の責任を分担する人々が理事となりその分野の奉仕をするようになったのです。もとは理事も執事の一部でした。理事も執事もともに牧師の補助者として教会のミニストリーを進めるためのものなのです。

 二、執事の資格

 ですから、理事と執事には同じ資格が求められます。聖書に書かれている執事の資格はそのまま理事にもあてはまります。私たちはそれに照らして理事や執事を選んでいます。実際、多くの教会では執事を経験した人がその経験を生かして理事になることが多いようです。

 執事(deacon)の資格はテモテ第一3:8-9、そして12節に書かれており、人格的な資格、家庭的な資格、そして信仰的な資格について教えられています。

 8節は人格的な資格で、「謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず」とあります。「謹厳」という言葉は現代ではほとんど使いませんので、何のことだろうと思われるかもしれませんが、これは英語では "dignified"(ESV, NAB)"grave"(KJ)"reverent"(NKJ)"respected"(NLT)"serious"(NRSV, Message)などと訳されています。わかりやすくいえば「真面目」「真剣」「誠実」ということになります。「謹厳で」のあとに続く 「二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず」というのは、謹厳であることを否定的な面から定義したのものです。「二枚舌を使わず」というのは語ることに誠実であり、語ったことに責任を持つこと、「大酒飲みでなく」というのは自分を制すること、「不正な利をむさぼらず」というのはその職業において倫理的であること、また人生の目的が地上の宝でなく天の宝に向かっていることなどを意味しています。

 この人格的な資格は女性執事(deaconess)の場合も全く同じです。11節に「婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」とあります。8節と11節を比べると女性執事にも男性執事と同じことが求められていることが分かります。男性執事について「謹厳で」とあるところは女性執事については「威厳があり」と言われ、「二枚舌を使わず」とあるところが「悪口を言わず」、「大酒飲みでなく」が「自分を制し」、「不正な利をむさぼらず」が「忠実な」となっています。

 最近「真面目」な人よりも「愉快な人」が好まれる傾向があります。それで、学校でもこどもたちが他のこどもたちに「受け」ようとしてはめをはずすことが多く、先生たちが困っています。「真剣」な人は煙たがられ、「誠実」な人も重んじられません。それよりも、面白くて、楽しくて、善と悪を適当におりまぜて融通をきかせられる人が喜ばれる時代になりました。真面目であるからと言ってユーモアを理解できないようでは困りますが、ユーモアの度を越えたものが幅をきかせているように思います。中身がなくても楽しければそれでよいというような風潮が教会にも入り込んできていないかと心配です。もし世の中が「真面目」、「真剣」、「誠実」を無くしているならばその分だけ教会はもっと真面目で、真剣で、誠実なところでなければならないと思います。そうでなければ、闇が迫っているこの時代に真理の光をかかげることができないからです。教会の大切な奉仕につく人を「あの人はみんなに人気があるから」などといった「人気投票」的なことで選んではならないと聖書は教えているのです。

 12節は家庭的な資格です。「執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」とあります。古代では二人、三人以上の妻を持っている人がいましたので、こんな規定ができたのでしょうが、今では「ひとりの妻の夫」というのは当たり前のこととなりました。現代では、この規定は「妻に誠実を尽くしている人」という意味で理解するのが良いと思います。神は、私たちに、たんに不倫を働かないというだけでなく、夫婦の愛が確かなものにするようにと求められておられます。エペソ人への手紙にあるように夫婦の愛はキリストと教会との愛の関係の雛形です。もし妻を隷属させていたり、妻にコントロールされているような人は、ほんとうの意味でより良い奉仕ができないと思います。そして、子どもがいる人は子どもと家庭をよく治めていなければならないのです。もちろん、問題のない家庭はどこにもありません。長年の信仰者同士の夫婦の間にも行き違いがあるでしょうし、人々から尊敬されている信仰者の家庭でも子どもが大きな問題を起こしてしまうこともあるでしょう。私たちはみな完全ではありません。むしろ自分の足らなさを知り、少しでも成長したいと願っている者たちです。家庭に課題があるからといって教会の奉仕ができないというわけではありません。さまざまな事情で起こってきた重荷、課題は、それを共に分かち合って乗り越えていくことができるのです。しかし、その資質において「ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人」であるということがなければ、理事や執事の奉仕は難しいと思います。

 最後に執事の信仰的な資格を確認しておきましょう。それは9節にあるように「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている」ことです。「奥義」とは何でしょうか。「奥義」というのは聖書にたびたび出てくる言葉で、コロサイ1:25-27に次のように説明されています。「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」旧約時代には隠されていたがキリストによって明らかになった真理といった意味です。奥義は「神の奥義」(コロサイ2:2)と呼ばれます。それが神からのものだからです。またそれは「キリストの奥義」(エペソ3:4、コロサイ4:3)と呼ばれます。キリストが奥義を明らかにし、キリストが奥義そのものだからです。また「福音の奥義」(エペソ6:19)とも呼ばれます。それは福音のメッセージだからです。それが「信仰の奥義」と呼ばれているのは、信仰とは神が示してくださった奥義である福音を信じることだからです。テモテ第一3:16にはさらに「敬虔の奥義」ということばもあります。「敬虔」というのは信仰の実践のことです。神の奥義は頭で理解するものではなく、それを生きることだからです。

 テモテ第一3:16に「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」とあります。これは初代教会で歌われていた賛美のひとつだろうと思われます。今日の教会でも "Let us proclaim the mystery of faith. Christ has died. Christ is risen. Jesus Christ will come again."(信仰の神秘を告白しましょう。キリストは死なれ、キリストはよみがえり、やがて来られます。)と歌われます。キリストの降誕によって私たちの救いがはじまり、キリストの受難と死によって私たちは贖われ、キリストの復活が私たちを生かし、キリストの昇天が私たちの救いの保証となり、キリストの再臨によって私たちの救いが完成する、これが信仰の奥義なのです。以前ハーベスト・クルセードがサンノゼのHPパビリオンで行われたとき、グレッグ・ローリー先生が「キリストは人となって天から降りてこられた。私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、三日目によみがえられた。天に昇りそこで私たちのためにとりなしておられる。世界を救うためにキリストはそこから降りてこられる。」と語りました。すると会場から大きな拍手が起こりました。人々が拍手したのは、先生の話が上手だったから、感動的だったから、なるほどと考えさせてくれたから、役に立つ情報を与えてくれたからではありませんでした。そうではなく、福音が語られたからです。真理が伝えられたからです。教会はこのように福音が語られ、それを聞くところです。そのとき私は、私たちの教会が、このように人々が真理を求めそれを喜ぶところであるようにと願いました。真理によって人々が結びあわされるていくように願いました。真理によらない人間の結びつきだけでは、そこにはほんとうの愛も一致も生まれてこないからです。

 教会はこの「信仰の奥義」が「敬虔の奥義」となって人々がそこに生きるために、そしてそれが「福音の奥義」として宣べ伝えられるために存在しています。私たちが信仰の奥義を知らず、理解しておらず、確信していなくて、どうして福音の真理がこの町の隅々まで伝わることができるでしょうか。アメリカに住むすべての日本人に福音を届けることができるでしょうか。理事も執事もこの福音に、「信仰の奥義」に仕える者たちです。すべての人が「信仰の奥義」を保っていなければなりませんが、理事や執事はもっとそうです。教会に仕える者が、人格的資格、家庭的資格とともに、この信仰的資格を整えられるよう祈りましょう。私たちが選んだ人々のために祈り、そのつとめに協力していきましょう。

 (祈り)

 教会のかしらなる主よ、私たちはこの後、聖書にしたがって牧師の助け手、教会の奉仕者を選ぼうとしています。あなたが教会に与えておられる使命と目的を教えてください。それをよく知り、それに従ってこのことをすることができますよう助けてください。また、選ばれた人々を支え、その人々とともに私たちも個人として、家庭として成長を目指すことができますように。なによりも「信仰の奥義」を堅く保つものとしてください。あなたのご真実のゆえに聞きあげてください。アーメン。

5/17/2009