唯一の仲介者

テモテ第一2:4-6

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2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

 イエスは復活されてから四十日の間弟子たちに現れ、ご自分の生きておられることを示し、弟子たちに聖書を教えられました。そして、弟子たちに、イエスが教えたことを世界中に言い広めるように命じてから、弟子たちの見ている前で天に昇り、父なる神のもとに帰って行かれました。今日は、その昇天をお祝いする日です。

 クリスマスやイースターは盛大に祝われるのに、キリストの昇天日はほとんど祝われることがありません。しかし、聖書にはいたるところに、イエス・キリストが昇天され、天の御座についておられると書かれています。来週は聖霊がくだり、教会が生まれた日、ペンテコステですが、聖霊は父なる神と天に帰られたイエス・キリストからくだってこられたお方です。イエスが天に昇られなかったら、聖霊はくだられなかった、昇天日がなければ、ペンテコステもないのです。今日はキリスト昇天の意味をご一緒に考え、そのことによってこの日を祝いたいと思います。

 一、御座に着くため

 イエスはなぜ天に帰られたのでしょうか。それは、第一に父なる神の右の座に着かれるためでした。「父なる神の右の座」というのは、最高の権威の座という意味です。私たちはイエスが人となられ低くなられたことを知っています。神の子が、神としての栄光を捨てて地上に来られるというのは、ご自分を空しくすることなしにはできないことでした。イエスはご自分を低くされただけでなく、人々からも低くされました。イエスは教えをはじめた時から抵抗と攻撃に遇いました。最初は喜んでついてきた群衆もわずか一、二年の間にイエスのことばに躓いて、多くがイエスから去って行きました。イエスは「心の貧しい者は幸いです。…悲しむ者は幸いです。…義に飢え渇いている者は幸いです。…義のために迫害されている者は幸いです。」と教えておられますが、イエスが言われた「貧しい者」「悲しむ者」「飢え渇いている者」というのは、なによりもまず、イエスご自身のことでした。イエスは自らを「神の子」とした冒とくの罪、自分を「ユダヤ人の王」とした謀反の罪を着せられました。イエスは罪人とされ、十字架で殺されました。神の子なら人間になったとしても、人々から崇められ、慕われて良かったはずです。しかし、イエスは卑しめられ、憎まれ、殺され、捨てられたのです。もっとも聖いお方が罪人になる。いのちの主が殺されるという前代未聞のできごとが起こったのです。人となって身を低くされた神の子イエスは死に至るまで、最もむごたらしい十字架の死に至るまで、ご自分を低くされました。

 しかし、父なる神はイエスを死から解き放ってよみがえらせました。人々が卑しめ、低めたイエスを高め、神の右の座、最高の権威の座にまでひきあげられたのです。このことはピリピ2:6ー11に美しいことばで書かれています。ご一緒に読んでみましょう。

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

ピリピ2:6ー11にはイエスの降誕、その宣教、十字架、復活、そして昇天がみごとに描かれています。私たちはイエスの降誕から昇天までのすべてを受け入れてはじめて、イエスを正しく信じることができます。イエスの降誕と宣教しか知らない人はイエスを教師としてしか受け入れていません。そこから進んで、イエスの十字架と復活を信じることによって、イエスを贖い主、救い主として受け入れることになります。そして、イエスの昇天をよく理解してはじめて、イエスをすべてのものの主として受け入れることになるのです。

 現代は混乱と不安の時代です。イエスが天ですべての権威を持っておられることを信ぜず、イエスの権威を認めず、みんなが好き勝手なことをしているので混乱が起こるのです。また、イエスの権威が信じられなければより頼むべきを見失ってしまいます。そしていっそう不安が深まるのです。イエスは天に帰る前に「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と言い、「それゆえ、あなたた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じられました(マタイ28:18-19)。弟子たちはイエスが天と地のいっさいの権威の上に立っておられることを信じました。イエスの権威により頼みました。そして、迫害も死も恐れず、真理を曲げることなく語り、文字通り「あらゆる国の人々」を弟子としたのです。

 イエスは父なる神からいっさいの権威を受け、それによって信じる者を守り、力づけるるために昇天されました。私たちは天におられるイエスを見上げて力を受けることができるのです。

 二、執り成すため

 イエスが天に昇られたのは、第二に父なる神に私たちのことを執り成すためです。イエスが天で着いておられる御座は「王座」です。イエスはそこから世界を治められるのです。そこはまた「審判の座」です。コリント第二5:10に「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。こうしたことばを聞くと、私は怖い気持ちに、身の引き締まる思いになります。聖書は何をしても許される。悔い改めなくても大丈夫とは言っていません。私たちは恐れるべきことを恐れ、悔い改めるべきことを悔い改めなければなりません。そうでないと神の前に出ることができなくなってしまうからです。

 しかし、キリストは私たちのどんな罪も見逃さず、厳しく問い詰める裁判官のようなお方ではありません。むしろ、母親がこどもをかばうように私たちをかばってくださるのです。天におられるキリストは、支配者であり、審判者であると同時に、私たちのことを執り成してくださる、あわれみ深い大祭司なのです。テモテ第一2:4に「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあります。神のみこころは、私たちが滅びることではなく、私たちが救われることです。イエスはこの神のみこころを実現するためにこの世に来られ、十字架で死なれ、よみがえってくださったお方です。そして、天に帰られてから今に至るまで、私たちの救いのために執り成し続けておられるのです。

 それでヘブル人への手紙には「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)と書かれているのです。これは皆さんがよく知っている聖書のことばですが、「恵みの御座」とは何でしょうか。旧約時代の神殿は天の聖所のひな形でしたが、そこには祭司が座る椅子がありましたか。いいえ、ありません。神殿では祭司は立って神に仕えたのです。「恵みの御座」と呼ばれるのは、大祭司が年に一度、神殿の中の最も聖なるところ「至聖所」に入って、そにある契約の箱の上に犠牲の血を注ぎかける、その契約の箱の蓋のことなのです。イエスのおられる天の御座が「恵みの御座」であるのは、イエスがすべての人の身代わりとなり、罪の犠牲となって血を流し死んでいかれたからなのです。キリストが神の子羊となって私たちの罪の犠牲となり、その血を流してくださった、あの十字架が「恵みの御座」なのです。それで、ヨハネの黙示録には、神の御座の側におられるキリストは「神の子羊」と呼ばれています。犠牲となって死なれたイエス・キリストを通してでなければ、誰一人天に入ることはできないからです。

 テモテ第一は「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」と言っています。このことばに対して「何もキリストばかりが救いに至る道ではない。他にもあるのではないか。」と反論する人もあるでしょう。しかし、他の道はないのです。なぜでしょうか。次の節に「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」とあります。キリスト以外に誰か私たち罪人のために死なれたお方があるでしょうか。「キリストだけが救いの道だ。」というのは、決してクリスチャンの独善ではありません。歴史の中に、キリストのほか、私たちを愛していのちをささげ、そしてよみがえられ、今も、天で私たちのための弁護人、仲介者となってくださっているお方は他にはいないからです。

 本物のクリスチャンは「罪を犯しても赦されるのだから、安心して罪を犯そう。」などとは決して考えません。むしろ、自分の罪を悲しみ、それを悔い改め、同じ罪を繰り返して犯さないようにと、神に助けを求めます。しかし、どんなに失敗しても、自分の犯した罪を後悔してそこに沈みこんだり、絶望したりはしません。いつ、どんなときも、すべての人を救おうとしておられる神の愛を信じます。イエス・キリストの十字架に頼ります。そして、ローマ8:34にあるようにこう言うのです。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」これがイエスの昇天を信じる人に与えられる素晴らしい確信なのです。

 三、天への道を開くため

 さて、イエスが天に昇られたのは、第三に、私たちのために天への道を開くためです。聖書は、イエスがなさったことは、すべて、イエスに従う者たちに道を開くためのものであると教えています。イエスがよみがえられたのは、イエスを信じる者がやがて復活するためであり、イエスが天に昇られたのは、イエスに従う者もまた天に迎え入れられるためでした。イエスは信じる者の復活の「初穂」となり、世界中の人々が天に集められる時の「さきがけ」となられたのです。

 今朝、最初にピリピ2:6-11を読みました。これはキリストの降誕から昇天にいたる、いわばキリスト教の中心の教えです。聖書のことばで言えば「信仰の奥義」です。けれども、この教えはたんなる教理、教義としてではなく、実生活の中で教えられています。ピリピ2:1-2に「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」と言われています。使徒パウロは教会に一致を教えているところです。使徒パウロは「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」(3-5)と教え、それからキリストの姿を示しているのです。教会の一致は天に昇り、父なる神の右の座に座しておられ、いっさいの権威を持っておられるイエス・キリストのもとに跪くことから生まれるのだと説いているのです。不一致、仲間割れの修復ほど難しいものはありません。自己中心や虚栄から抜け出すのは至難の業です。ですから神を知らない人々は、まわりに合わせてうまくやれば良いと考えるのでしょうが、神を知る者はそうではありません。キリストに学ぶのです。信仰の奥義に立ち返るのです。そのとき、不思議なように問題が解決します。人と人との真実なかかわりが生まれ、自己中心や虚栄の心がへりくだった心に変えられていくのです。それをもたらすのはキリストの真理以外にありません。聖書の教理や教義は、一応は認めるが何の役にも立たないものと思っている人が多くありますが、決してそうではありません。私たちはキリストが私たちのためにしてくださったことを学ぶことによって、私たちがキリストのためになすべきことを知り、それを行う力を得るのです。

 使徒ペテロは「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ第一5:5-6)と教えています。こう書いたとき、使徒ペテロは、苦しめられ、卑しめられ、低くされても、その苦しみを耐え抜いて神の右の座にまで高く上げられイエスを思いみていたことでしょう。初代のクリスチャンがあの迫害の中で真理を曲げず、苦しみを耐えぬくことができたのは、キリストが天にいたる道を開いてくださった、このキリストに従えば自分たちも必ず天に到達できることを知っていたからでした。

 テモテ第一2:5に「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」とありました。「人としてのキリスト・イエス」ということばに注意してください。神であるイエスが天に帰るのは当たり前のことです。しかし、イエスは人となられ、人として苦しみを受け、それを耐え忍び、そして天にあげられました。イエスは天に上げられるとき人であることをやめられたのではありません。天の御座におられる今も人であり続けておられます。それは、全人類の代表となって、父なる神にとりなすためであるとともに、天に人間が迎えられ、人間に完全な幸いが与えられることを保証するためでもあるのです。

 さまざまな問題が次々と起こり、四方八方がふさがれてしまったように感じられるときは誰にもやってきます。そのようなときは天を見上げましょう。四方八方がふさがれても天はかならず開かれています。そこに私たちの主イエス・キリストがおられるのです。

 (祈り)

 すべての人が真理を知り、それによって救われることを望んでおられる父なる神さま。あなたは御子イエス・キリストを私たちの罪のための身代わりの犠牲とされただけでなく、イエス・キリストをあなたの側に引き寄せ、神と人との仲介者とされました。主イエスを天に持つことが私たちの救いとなっています。私たちは主イエスの十字架と復活によってだけではなく、執り成しによっても救われています。主イエスの権威によって守られ、力づけられています。主イエスの権威のもとに謙虚な心で跪き、主イエスを見上げる私たちとしてください。私たちのただ一人の仲介者、キリスト・イエスのお名前で祈ります。

5/24/2009