為政者のための祈り

テモテ第一2:1-7

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2:1 そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
2:2 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
2:3 これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
2:6 彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。
2:7 そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。

 今週、水曜日、9月11日、2001年の同時多発テロから12年目を迎えます。あの日、4機のボーイング767型旅客機がハイジャックされました。一機はニューヨークの世界貿易センター(ツインタワー)の北棟に、別の一機は南棟にそれぞれ激突しました。3機目はバージニアの国防総省(ペンタゴン)に突入し、4機目はペンシベニアのシャンクスヴィルに墜落しました。ツインタワーが崩れていく様子は世界中に衝撃を与えました。アメリカはその後、「テロとの戦い」を掲げて、アフガニスタンを攻め、イラク戦争に入りました。

 2011年12月14日、アメリカ軍が完全にイラクから撤退し、イラク戦争がやっと終わったかと思うと、今年はシリアへの軍事行動が行われようとしています。9・11を迎える、このときに大統領がシリア攻撃の支持を国民に呼びかけるというのは、12年前に起こったことの繰り返しのような気がします。

 混乱しているのは中東だけではありません。今、世界中が混乱しています。ヨーロッパの経済は苦しい状態にあり、アジア、アフリカの新興国家も今までのような成長を望めなくなっています。アメリカも、かつてのように、精神的にも物質的にも豊かな国ではなくなりました。一時10%もあった失業率は8%ほどに下がりましたが、10年前の5%と比べれば依然として高い水準を保っています。日本と比較してもアメリカの失業率は常に高く、主な国の中では、スペイン、イタリア、フランスなどについで失業率の高い国となっています。アメリカはいままで、「アメリカン・ドリーム」といって、努力すれば報われるという夢や希望を与えてきた国ですが、近頃は、そうではなくなってきたようです。

 これからの世界がどうなるのだろう、アメリカや日本はどこに向かっていくのだろう、ニュースを見聞きするたびにそんな心配が頭を横切ります。そして、そんな中で、キリストを信じる者たちはいったい何ができるのだろうと考えてしまいます。世界の平和のために、何もできないという無力さを感じさえします。しかし、神のことばに目を向けるとき、私たちにもできることがあることを見出します。それは、「祈り」です。

 一、祈りの勧め

 今朝の箇所に「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい」(1節)と勧められています。ここで、クリスチャンは、世界のすべての人のために、またその指導者のために祈ることができると教えられているのです。

 クリスチャンは誰も、自分のためや家族のために祈ります。しかし、それだけで終わらず、人々のため、市長、知事、大統領のため、国々の指導者のために祈るよう勧められています。自分以外の人たちのために祈ることを「とりなし」と言いますが、手を合わせるとき、5本の指を見ながら祈ると良いと言われます。親指は、親族のための祈りです。家族が救われるように、親族に福音が広まりますように祈ります。人差し指は、何かを示す指ですので、教師たちのために祈ります。教会の牧師、大学の教授、学校の先生、また親たちが、次の世代に正しいことをきちんと伝え、教えることができるように祈ります。中指は、一番高い指ですので、テモテ第一2:1にあるように上に立つ人たち、政治、経済、社会のリーダーのために祈ります。薬指は、病気の人々や病気の人を世話している人々、医療関係者のための祈りです。そして、小指はいちばんちいさい指ですので、こどもたちや社会的に弱い立場にある人たちを覚えて祈ります。

 このように、とりなしの祈りには、政治を司る人たちのための祈りが含まれていなければならないのですが、そのことを意識して祈ることは実際には少ないと思います。あの「同時多発テロ」のあと、アメリカ中の教会に人が集まり、祈りが捧げられました。私がいたサンノゼの教会でも、特別の祈り会をしました。ふだんは教会に来たこともない近隣の人々が多く集まりました。アメリカに再びリバイバルが訪れるのではないかと思われましたが、地域の人たちをも巻き込んだ祈りはその時限りで終わってしまいました。教会でも、5月第一木曜日の「全米祈りの日」(National Day of Prayer)のプロモーションをしましたが、テロできずついた人のいやし、アメリカと大統領への導き、世界の平和のための祈りがしぼんでいったのはとても残念でした。なぜだろうと考えたとき、それが何のためであれ、教会で「祈る」ということが第一になっていないからだということに気付きました。教会は、イザヤ56:7に「わが家はすべての民の祈の家ととなえられる」とあるように本来は「祈りの家」です。なのに、いつしか、教会では祈りよりも他のことが第一になってしまっていたのです。教会は祈りだけしていればよい、クリスチャンにどんな活動もいらないというわけでは、決してありません。しかし、今朝の箇所が「<まず第一に>…願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい」と教えているように、私たちは、個人としても、教会としても、第一の務めが祈りであることを忘れずにいたいと思います。

 二、祈りへの招き

 今朝の箇所は上に立つ人々のために祈ることを教えていますが、それは、誰に対する勧めでしょうか。テモテ第一2:1は口語訳では「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい」と訳されていて、使徒パウロが教会の牧師であるテモテに王たちや上に立つ人々のため祈るように教えている思われがちです。しかし、この部分は新改訳やほとんどの英語の訳のように「願いと、祈りと、とりなしと、感謝とが、すべての人のために、王たちと上に立つすべの人々のためにささげられるようにしなさい」と訳されるのが良いと思います。つまり、使徒パウロは、テモテに王たちと上に立つ人々のため祈ることを勧めているだけでなく、テモテが教会の牧師として、教会のメンバーに、王たち、上に立つ人々のための祈りるように教え、そうした祈りが教会で捧げられるようにするということなのです。すべての人のため、国の指導者のために祈る務めは、牧師や特別な人にだけ与えられたものではなく、すべてのクリスチャンに与えられたものなのです。

 かつて、他の人のためにとりなし祈るのは聖職者など特定の人だけにしか許されておらず、そういう人に祈ってもらわないと神に祈りが届かないと考えられていた時代がありました。そうした考えを正し、すべてのクリスチャンが、天の大祭司であるイエス・キリストのとりなしによって直接神に祈ることができ、他の人のためにとりなし祈ることができることを確認したのが「万人祭司」の原則です。すべてのクリスチャンが祭司であるなら、世界のため、国のため、社会のためにとりなし祈る務めは、特別な人だけに任せてよいことではありません。それは、祭司であるすべてのクリスチャンの務めであるはずです。

 クリスチャンひとりびとりが祭司であって、自分のためにも、他の人のためにも祈ることができるというのは、じつは、素晴らしい特権です。聖書には、アブラハムがゲラルの王アビメレクのために祈り(創世記20:17)、ヤコブがエジプトの王ファラオを祝福した(創世記47:10)ことがしるされています。ふつう、立場の上の人が、その下にある人を祝福します。カナンで定住の土地を持たない寄留者のアブラハムが、その地を支配するアビメレクのために祈ったというのは、神がアブラハムにその地の王に勝る立場を与えたことを意味しています。エジプトといえば、古代から今に至るまで続いている大きく、強い国家ですが、飢饉を逃れ、難民としてエジプトにやってきたヤコブが、その王であるファラオを祝福しています。これは、神が、ヤコブにファラオに勝る特権をお与えになっていたからです。その特権とは、祭司としての特権です。たとえ、相手がまことの神を知らなかったとしても、まことの神を知る者は、その人々の祭司であり、その人たちに神の恵みや導きを祈ることができるのです。

 ユダヤの国での祭司は、レビの部族の出身者でなければなりませんでした。特別な油注ぎを受けて任命された祭司だけが神殿に入ることを許され、犠牲をささげて人々のためにとりなすことができました。たとえ、王であっても、神殿に入ることは許されませんでした。神殿に入って香を焚こうとしたウジヤ王は、祭司の特権を犯したため、神に撃たれています。旧約時代、祭司の務めは、特定の人に限定された特権だったのですが、新約時代には、この特権は、まことの大祭司であるイエス・キリストによって、すべてのクリスチャンに与えられています。大げさに聞こえるかもしれませんが、クリスチャンには、どんな国の国王、大統領、首相にも与えられていない、大きな特権が与えられており、その人たちのために祈るということにおいては、私たちは、その人たちよりも上位の立場にあるのです。私たちは皆、祭司として召され、任命されている、だからこそ、聖書は、すべてのクリスチャンが祭司となって、教会で「願いと、祈りと、とりなしと、感謝とが…ささげられる」ようにと教え、命じているのです。

 三、祈りの力

 初代教会は、祈る教会でした。自分たちが、この世のためにとりなす祭司であることを自覚していました。テモテ第一2:1の教えを文字通り実践しました。紀元一世紀の末の教会の指導者ローマのクレメントはコリントの教会に宛てた手紙の中で、支配者たちのために「主よ、彼らに健康、平安、調和と安定を与え、あなたが彼らにお与えになった統治をとどこおりなく進めることができるようにしてください」と祈っています。テルトルニアヌスが紀元200年に書いた「弁証論」の中に次のような一文があります。

われわれはまた、皇帝たちのため、また、その臣下と権力ある者たちのために祈っている。それはその統治が長く続き、国が平和で、世の終わりの時が引き伸ばされるためである。

 パウロがテモテへの手紙を書いたのは、クリスチャンを苦しめたことで知られるネロ皇帝の時代でした。それでもパウロは、王たちのため、上に立つ者のために祈ることを勧めました。初代教会は皇帝から迫害を受けても、なお、皇帝たちのために祈り続けました。それはすべての人の救いを望んでおられる神のみこころの通り、福音がすべての人に届き、人々がそれを信じて救われるためです。初代教会はローマ帝国からどんな迫害を受けても、それを武力ではねのけたり、政治的な駆け引きによって身を守ろうとはしませんでした。ただひたすらに祈りました。教会を迫害する皇帝や総督のためにも祈りました。そうした祈りによって福音はローマの隅々までも広がり、ついにローマ皇帝もキリストのもとにひざまづくまでになったのです。祈りには、私たちが思う以上の力があるのです。

 私たちは、時々、「世の中が悪くなった」と嘆きます。道徳が乱れ、規律が崩れ、人のこころが冷たくなり、モノは豊富になっても豊かさが感じられず、自然環境が傷めつけられ、地球が悲鳴をあげている。これは、政治が悪い、教育が悪い、経営者が悪いなどと他を批判することもあります。しかし、なぜ世の中が悪くなったかを考えてみると、それはクリスチャンが世界のため、国のため、社会のために祈ることが少なくなったからではないだろうかと気付かされます。この時代のために祈るようにと、私たちはだれもが祭司に任命されているのに、その務めを十分に果たしていないことを反省させられます。私たちの怠慢がこの時代をさらに悪くしているのではないかと思うことがあります。テレビのニュースを見て、新聞を開いて、悲惨なニュースに腹立たしくなったり、暗い気持ちになることがありますが、それだけで終わらす、ニュースの項目のひとつひとつを祈りの課題にして祈っていけたらと思います。

 2節に「それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである」とあるように、上に立つ者たちのための祈りは、教会に、信じる者たちに、平安をもたらし、それによって、私たちは堅実な信仰生活を送り、その信仰をあかしすることができるようになります。また、4節に「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」とあるように、上に立つもののための祈りは、政治的な乱れによって宣教が妨げられることなく、すべての人に福音が届くためでもあるのです。たとえこの時代が神のみこころに逆らっていたとしても、私たちはあきらめずに、「すべての人が救われ、真理を悟るに至ることを望んでおられる」神のみこころが成るように祈ります。やがて、すべての者がイエス・キリストに膝をかがめるときが来ます。みこころが成就するときが来ます。そのときを思って、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続けていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはキリストを信じる者をあなたの祭司として任命し、とりなし祈る務めをお与えになりました。あなたは「すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」お方です。このあなたのみこころを知る私たちですから、家族、親族のことからはじめて、教える立場にある人たち、上に立つ人々、病気の人々、社会的に弱い立場にある人々のために心を込めて祈る祭司、とりなし手としてください。私たちの大祭司であるイエス・キリストのお名前で祈ります。

9/8/2013