神に感謝

テサロニケ第一5:12-22

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5:12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。
5:13 その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。
5:14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
5:19 御霊を消してはなりません。
5:20 預言をないがしろにしてはいけません。
5:21 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
5:22 悪はどんな悪でも避けなさい。

 11月、感謝祭の月となりました。聖書から「感謝」について学びたいと思います。聖書には「感謝」について教えている箇所が数多くあります。その中でいちばん親しまれているのは、テサロニケ第一5:16-18ではないかと思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」これは色紙に書かれるのがいちばん多い聖書のことばかもしれまん。私のオフイスにもこの箇所の文語訳の木彫りが飾ってあります。それぞれの節を漢字四文字で「常時喜悦、不断祈祷、万事感謝」と書きあらわしたものもよく見かけます。この箇所は短く、とても調子がいいので、暗記している人も多いと思います。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」これは、慣れ親しんだみことばで、解説を加える必要がないように思えますが、「喜び」、「祈り」、そして「感謝」の三つと、その関係を改めて学んでみたいと思います。

 一、感謝のみなもと

 はじめに「喜び」について考えてみましょう。「いつも喜んでいなさい。」このことばは、どんなことを教えているのでしょうか。それは、悲しんだり、憂えたり、怒ったりしてはいけないということを言っているのでしょうか。そうではありせん。聖書は、自分の罪に悲しみ、社会の悪を憂い、正義が踏みにじられるときに怒るべきことを教えています。「喜怒哀楽」の感情は神から与えられたもので、それぞれに意味があり、役割があります。「いつも喜んでいなさい」というのは、何があってもニコニコしていれば良いといったことではありません。それは、喜びが人生の基盤にするということを教えています。悲しみ、憂い、怒ることがあったとしても、悲しみに沈んでしまわない、憂いにふさがれてしまわない、怒りに支配されてしまない、むしろ、悲しみも、憂いも、怒りも、最終的には喜びに変えられていくということです。神が与えてくださる喜びの上に人生を築くなら、悲しみは後悔で終わらず、憂いは失望で終わらず、怒りは罪に導くものにはならないのです。

 では、神がくださる喜びとは何でしょうか。それは第一に、救いの喜びです。主イエスが七十人の弟子たちに悪霊を追い出し、病気をいやす権威を与えて伝道に送り出したときのことです。弟子たちは、伝道を終えて帰って来たとき、興奮して言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」しかし、主イエスは弟子たちにこう言われました。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)悪霊を追い出し、病気をいやす力、それは福音をあかしするために与えられたものでした。しかし、福音はいつでもそのような奇跡的なことによってあかしされるとは限りません。多くの場合、福音は、クリスチャンの日常の生活を通してあかしされます。神の奇跡的な力が何も現われないどころか、クリスチャンがまったく弱い者として苦しめられることもあります。迫害や殉教などがそうです。初代のクリスチャンは、社会から締め出され、財産を奪われ、いのちさえも奪われました。彼らはこの世の権力の前に無力でした。神も、信仰者たちを迫害する者たちから奇跡をもって救いませんでした。しかし、クリスチャンは、内側に与えられた救いの喜びによって迫害に耐え、その喜びによって福音をあかししたのです。

 テサロニケのクリスチャンたちもそうでした。テサロニケのクリスチャンは信仰に反対する人々に囲まれていました。しかし、その困難や苦しみは信仰の妨げになりませんでした。1:6に「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました」とあるように、たましいの内側に、消えることのない喜び、救いの喜びを持っていたからです。

 私たちの人生にはかならず、アップ・ダウンがあります。笑う時もあれば、泣く時もあります。たましいの奥深くに、救いの喜びがなければ、アップ・ダウンの波にもまれ、流されるだけです。しかし、信仰の錨をイエス・キリストの救いの喜びに下ろすなら、どんなにアップ・ダウンがあっても、流されることはありません。救いの喜びが、私たちを支えてくれるのです。「いつも喜んでいなさい」とは、イエス・キリストの救いを信仰によって受け入れなさい。その喜びを人生の基盤としなさい。その基盤に信仰の錨を下ろしなさいということを教えているのです。

 そして、そうするときに、そこから感謝が生まれてきます。じつに、喜びは感謝のみなもとです。使徒パウロは、テサロニケ人への手紙の最初に「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝しています」(1:2)と書きました。また、2:19-20では「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」と言っています。そして、3:9で「私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう」と書いています。テサロニケのクリスチャンは苦難の中でも救いの喜びを失いませんでした。そのようなテサロニケのクリスチャンのゆえに、パウロは神に感謝をささげました。喜びは感謝のみなもとです。イエス・キリストにある喜びを保ちましょう。そして、大きな感謝を神にささげましょう。

 二、感謝の方法

 次に「祈り」について考えてみましょう。「絶えず祈りなさい。」このことばも、朝から晩まで、何もしないで祈ってさえいれば良いということを言っているわけではありません。多くの時間を祈りに費やすことができたら、それは素晴らしいことです。「祈りはクリスチャンの呼吸である」と言われますが、十分に、深く祈らないなら、それは浅い呼吸と同じで、すぐに息苦しくなってきます。私たちには、もっと祈りのために時間を割く必要があると思います。それによって神の恵みを十分に吸収したいと思います。しかし、「絶えず祈る」ということが24時間のすべてを祈りに費やすということだとしたら、どんなに時間をとっても、誰もそれを守ることはできません。「絶えず祈る」というのは、時間的なことだけを言っているのでなく、祈りで始めた一日を、祈りによって過ごすということを意味しています。一日を祈りで満たす、祈りが生活になる、生活の営みが祈りになるということです。

 私がまだ日本にいたころ、アメリカから講師を迎えての「祈りのセミナー」がありました。そのとき、講師の先生が、「教会の集まりが祈りで始まっても、その祈りが忘れられて、神が意識されず、この世の話題が中心になり、人間的な議論で終わってしまうことがある。祈りを教会の集まりの合図にしてしまってはいけない」と言われたのを、今も、覚えています。開会の祈りや閉会の祈りはたんなる合図ではない、祈りで始められた教会の集まりが、その後も祈りによって導かれ、進められていくようにしなければならない。祈りはそれほどに大切なものなのだということを、そのセミナーで改めて教えられました。そのように、祈りではじめた一日が、その祈りのように導かれ、進められるようになりたいと思います。祈りが生活になり、生活が祈りになる、そのことによって「絶えず祈る」ということを実践できたらと願っています。

 そのような祈りによって、私たちは感謝に導かれていきます。感謝のみなもとは「喜び」ですが、もし、祈りがなければ、神が与えてくださっている喜びを発見することができません。熱心に祈り求めていればこそ、求めていたものが与えられたとき、それが神がしてくださったことが分かり、そこから感謝が生まれるのです。祈りがなければ、神が良いものを与えてくださっていても、偶然、物事がうまくいったと思うだけで、神の恵みが見えず、感謝も生まれないのです。また、「祈り」には「願い」だけでなく、神のみわざや神のことばを深く思い見る、「観想の祈り」と呼ばれるものも含まれてます。そのような祈りを積み重ねていると、人生に洞察が与えられ、人からみて、とても感謝なこととは思えないことも、感謝することができるようになります。

 明治時代のクリスチャンに徳永規矩(のりかね)という人がいました。この人は事業に失敗し、全財産を失い、その上、結核を患いました。五人の子供を抱えて貧困のどん底にあったときも、神への信頼の中に生き抜きました。徳永氏はその信仰の証を『逆境の恩寵』という本にまとめ、その本は多くの人に励ましを与えるものとなりました。その中にこんな話があります。ある時、徳永氏が米屋に一斗(18リットル)のお米を注文したところ、米屋は一斗でなく、四斗入った俵を運んできました。徳永氏はそんなに米代を支払えないから、一斗だけで十分、あとはもって帰るように言ったのですが、代金はいつになってよいから使ってくださいとのことでした。徳永氏は感謝して夜休みました。ところが翌朝、起きてみるとその四斗の米がすべて盗まれてなくなっていたのです。しかし、そんなときも、徳永氏は次の五つのことを神に感謝しました。

第一、 自分たちは盗まれる立場で、盗む立場でなかったこと。
第二、 米屋が自分たちに十分なお金がなくても、自分たちを信用して、四斗俵を置いて行ってくれたこと。
第三、 盗難にあったものは人から預かったものでなく、自分のものであったこと。
第四、 肉体の糧は盗まれても、霊の糧は盗まれなかったこと。
第五、 それは、霊の糧を盗まれないように注意せよ、との戒めであったこと。
「絶えず祈る」、祈りの中に生きるとき、逆境の中に恵みを発見し、それを喜び、感謝することができるのです。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」「喜び」と「祈り」と「感謝」の三つはしっかり結びついていて、決して分けることができません。とりわけ「祈り」は「喜び」と「感謝」をつなげるものです。本気で祈る人が、主にある深い喜びを味わい、こころからの感謝をささげることができるのです。人生に喜びを発見するために、感謝の生活に導かれるために、さらに真実な祈りを学び、それに励みたいと思います。

 三、感謝の目的

 最後に「感謝」そのものについて学びましょう。聖書は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」と言ったあと、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(18節)と書き加えています。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」というのは、直訳すれば、「これが、キリスト・イエスにある、あなたがたへの神のみこころです」となります。「これは神のみこころである」というのは、とても強いことばで、ここに宣べられていることが、決してないがしろにしてはならない大切なことであることを表わしています。

 実際、パウロはテサロニケ5:12-22で、キリストの使徒として権威をもって、厳かな勧めを与えています。ここには、教会の指導者たちを敬うこと(12-13節)、すべての人々を敬うこと(14-15節)、聖霊とその賜物を敬うこと(19-22節)が教えられています。では、16-18節は何を敬うことを教えているのでしょうか。それは、神とイエス・キリストを敬うことです。「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝する」というのは、そうしていれば、気分がいいから、ハッピーでいられるからという処世訓ではありません。聖書が教える「感謝」は、なんとなく、しあわせな気分にひたるといったものでもありません。それは、神のみこころを喜ばせ、キリストに従う道です。私たちが感謝の心を持つのはそれによって自分を喜ばせるためではなく、それによって神を喜ばせるためです。ほんとうの感謝は神に向かって献げられるものです。

 使徒パウロは、「私はイエス・キリスによって私の神に感謝します」「神に感謝します」「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています」「私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています」などと、さまざまな手紙に書いています。テサロニケ人への手紙でも、パウロは1:2や2:13で「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝しています。」(1:2)「私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。」(2:13)「私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう」(3:9)と書いています。「感謝します」だけでは、感謝の意味がなくなってしまいます。「神に」が大切なのです。

 初代教会では、ことあるごとに "Deo gratias"(神に感謝)を唱和しました。とりわけ礼拝の終わりには "Deo gratias" と唱和して家路につきました。 "Deo gratias"(神に感謝)は「アーメン」や「ハレルヤ」とおなじほど頻繁にクリスチャンの唇にのぼったことばでした。

 五世紀の半ば、アフリカのカルタゴにデオグラシアスという教会の指導者がいました。当時、カルタゴの町は蛮族と呼ばれた諸民族の侵入によって崩壊の危機を迎えていました。デオグラシアスはそんな困難な中でも、アウグスティヌスを通して伝えられた教えをしっかりと守り、それを人々に教えることに心をくだいた人でした。「デオグラシアス」という名前は生まれときにつけられた名前なのか、後になってあたえられた名前なのかはわかりませんが、もし、後でつけられた名前だとしたら、この人は何事においても「神に感謝」と言って、神に感謝をささげる人だったのでしょう。聖書は、「感謝の心を持つ人になりなさい」(コロサイ3:15)と教えていますが、そのような人になり、他の人から「感謝さん」というニックネームで呼ばれるようになったら、どんなに素晴らしいでしょう。そこに至るまでまだ道が遠いかも知れませんが、それを目指して、感謝を神にささげる者になりたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは私たちに「いつも喜び、絶えず祈り、すべの事を感謝する」ことを望んでおられます。しかし、私たちは、あなたのみこころから離れ、喜びを見失い、祈りをやめ、感謝を忘れてしまうことがあります。どうぞ、私たちの目を、あなたに向けさせ、感謝はあなたにこそ献げられるべきことを教えてください。「神に感謝」このことばをもって、この礼拝から家庭に、職場に、地域に向かう私たちとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

11/13/2011