母のように

テサロニケ第一2:5-12

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2:5 わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。
2:6 また、わたしたちは、キリストの使徒として重んじられることができたのであるが、あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。
2:7 むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。
2:8 このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。
2:9 兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。
2:10 あなたがたもあかしし、神もあかしして下さるように、わたしたちはあなたがた信者の前で、信心深く、正しく、責められるところがないように、生活をしたのである。
2:11 そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、
2:12 御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。

 「母の日」は、今から百年以上も前、1907年5月10日、ヴァージニア州グラフトンの教会で行われたアン・ジャーヴィスの記念会から始まりました。アン・ジャーヴィスは、衛生状態が悪く病気になる人たちが多かった時代に、母親たちが衛生上の知識を持ち、公衆衛生の向上のために働くことができるようにと、「マザーズ・デーワーク・クラブ」というものを各地に作りました。このクラブは南北戦争のときには敵味方の区別なく困窮した兵士たちを助けました。彼女は南北戦争の後「マザーズ・フレンドシップ・デー」を提唱して、南北の和解を助けました。また、彼女はグラフトンの教会の建設にかかわり、その教会学校で25年間、子供たちを教えました。娘のアナは、母親の記念会で母親への思いを語り、人々は母親の役割が家庭でも社会でもどんなに大切かを身にしみて感じました。

 そこで人々は、翌年の5月10日がちようど日曜日なので、この日の礼拝を「母の日」礼拝にすることにしました。1908年5月10日の礼拝には、アン・ジャービスが教えた教会学校の生徒407名と、その母親が出席しました。娘のアナはこの礼拝に出ることができませんでしたので、教会に集まった母親たちのため500本の白いカーネーションを贈りました。こうして5月の第2日曜日が母の日となり、カーネーションが母の日の花となったのです。

 一、神の愛と母の愛

 教会で母の日を守るのは母親に感謝するためとともに、私たちに母親を与えてくださった神に感謝し、母の愛に表わされた神の愛を想うためです。

 聖書では神を「父なる神」と呼んで、神は父親のような大きな愛で私たちを愛し、導いておられると教えています。しかし、だからと言って、神に母親のような細やかな愛がないわけではありません。父なる神は、母親のような愛をも持っておられるのです。聖書に「主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように」(申命記32:10,11)という言葉があります。神が雛鳥を育て、守る親鳥にたとえられているのですが、雛鳥を守り育てるのは、たいていの場合、母鳥のほうです。皆さんも母鳥が雛鳥を守り、かばう姿を見たことがあると思います。母鳥は自分の身を危険にさらしてでも雛鳥を守ろうとしますが、神もまた、神に頼る者をご自分の翼のものとにかくまい、守ってくださるのです。

 主イエスも、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(ルカ13:34)と言っておられます。「めんどりが翼の下にひなを集める」という言葉で、主イエスの母親のようないつしみの愛が表わされているのです。

 ルカ15章にある「放蕩息子」のお話では、神が、放蕩息子の父親として描かれています。「放蕩」というのは、今ではあまり使わない言葉ですが、「湯水のように無駄にする」という意味の言葉です。この父親の息子は、父親が生きている間に財産を相続しました。息子は父親の財産を文字通り湯水のように使い果たし、ユダヤ人にとって一番忌み嫌われていた豚を飼う者にまで、成り下がりました。ユダヤの法律では、息子が生前贈与を受け取った場合、親子の縁が切れ、再び親のもとに帰ることができなくなるのですが、この父親は、それでも息子が帰ってくるのを待ち続けました。そして、乞食同然になった息子を見つけると、自分の方から走リ寄って息子を迎えました。この時代、しもべたちをたんさん持ち、息子に財産を分け与えることができるほどの人物は、いつもすその長い服を着ていて、ゆっくりと、威厳をもって歩きました。長い服を着ては走ることはできませんから、走るときにはすそをまくって走らなければなりません。ですから、父親が人前で走るのはとても恥ずかしいことでした。長服のすそをまくって走り、息子を抱いてキスをするのは、母親のすることで、父親は、こんな息子が帰って来たなら自分の前にひざまずかせ、「さあ、言い分があったら、話せ」と言うのが、当時のユダヤでは普通のことでした。主イエスは、放蕩息子の物語で、父親に母親のような仕草をさせています。それは、神が、子どものためなら恥も外聞も捨ててまでも尽くそうとする母親のような愛をもって私たちを愛しておられることを、私たちに教えるためでした。

 父親の愛も、母親の愛も、そのみなもとは神の愛です。地上の父親や母親は、どんなに子どもを愛したとしても、その愛にはどこか近視眼的なところがあったり、利己的なところがあったりするものです。最近の日本では、とても悲しいことですが、実の親から虐待されたり、捨てられたりする子どもが増えています。子どもは親の愛と保護がなければ生きられないのに、その親から虐待を受けて日々を過ごさなければならないとは、あまりにも不幸なことです。虐待とまでいかなくても、親子関係がうまくいかなくて、心ならずも、親と子が互いに傷つけ合うということもよくあります。ほとんどの人が、家族関係のことで、なんらかの悩みを抱えています。悩みのない人を見つけるほうが難しいかもしれません。そんな中での希望の光、解決の鍵は、やはり神の愛です。聖書に「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう」(詩篇27:10)とあります。神の愛は父親の愛よりも大きく、母親の愛よりも深い愛です。父親も、母親も、この神の愛を知ってはじめてほんとうの意味で子どもを愛することができるようになります。子どもは、神の愛の中に父親の愛、母親の愛を見ることによって、はじめて、父親や母親を愛することができるようになるのです。

 二、父なる神と母なる教会

 神の愛には、父親のような愛も母親のような愛も、両方が含まれていますが、神は、母親のような愛を注ぐために、教会を私たちの「母」としてくださいました。教会は「父なる神」に対して「母なる教会」と呼ばれ、古代から「教会を母とするのでなければ、神を父とすることはできない」と言われてきました。アウグスティヌスは「教会はキリスト信者のいとも真実な母である」と言っています。

 信仰はひとりひとりが神の前に決断するものです。しかし、その信仰は、信じる人が自分で勝手につくり出すものではありません。イエス・キリストから始まって、使徒たちやそれに続く多くの信仰者たちを通して伝えられてきたものです。信じるという行為は個人的な決断ですが、信仰という賜物は信仰者の共同体、つまり教会の中で受け取るものです。教皇フランしシスコはこう言われました。「私たちは実験室でキリスト者になるのではありません。独りで、自力でキリスト者になるのでもありません。信仰は神からの賜物です。この賜物は教会の中で、教会を通して私たちに与えられるのです。」母親は子どもを産み、育てます。同じように私たちの信仰も教会によって生まれ、教会によって育てられるのです。

 私は、中学生のときはじめて聖書を読みました。そして高校生になってきちんと聖書を勉強したいと思いました。当時とっていた雑誌に「聖書通信講座」の広告が載っていたので、それを申し込んで勉強を始めました。私は教会に行く前に聖書を学び、イエス・キリストを知りました。でも、だからと言って教会とは別に信仰に導かれたのではありません。聖書は、国の内外の多くの教会のサポートによって出版されたものであり、聖書通信講座の教材も、アメリカのある教派の人々の献金によって用意されたものでした。私のように教会の外で聖書に触れる人がいたとしても、その人は、実際は教会の働きによって聖書に触れているのです。

 それから私は教会の伝道集会に行きました。メッセージの後、イエス・キリストを信じたいと思う人は手をあげなさいという招きがありました。ためらわず手を上げ、伝道集会のあと、教会の執事の方に導かれて生まれてはじめてまことの神に祈りました。私は信仰による生まれ変わりを体験し、バプテスマを受けました。私を新しく生んでくださったのは、もちろん神です。しかし、同時に、教会もバプテスマによって、私をその一員として生んでくれたのです。教会の一員になるというのは、学校のクラブ活動に加入するとか、サムズ・クラブの会員になるとかいうこととは違います。バプテスマを受けて教会のメンバーになるというのは、教会という組織に加入することではなく、神の家族に生まれるということです。父なる神と母なる教会によって、生んでもらい、神の息子、娘となることなのです。この母の日に、教会を母として与えてくださった神の愛に感謝したいと思います。

 三、母なる教会と教会の母

 さて、今朝の箇所の11-12節に「父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである」という使徒パウロの言葉があります。パウロはきわめて男性的な人物でしたから、威厳をもって人々を教え導いた姿が目に浮かぶようです。ところが7節では「母がその子供を育てるように、やさしくふるまった」(7節)と言っています。男性であるパウロがそう言うのは不思議な気がしますが、パウロは母親のような愛をも持っていて、その愛で人々を導いたと言っています。

 パウロは、ローマで監禁状態にあったとき、主人のもとから逃げ出した奴隷、オネシモを信仰に導いています。パウロは、オネシモの主人ピレモンに書いた手紙で、このオネシモについて「捕われの身で産んだわたしの子供オネシモについて、あなたにお願いする」(ピレモン1:10)と言っています。ガラテヤの教会に対して「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」(ガラテヤ4:19)とさえ言っています。子どもを産むのは女性の仕事であり、出産の苦しみというのは、男性には分からない苦しみですが、使徒パウロは教会のためのさまざまな労苦を「産みの苦しみ」という言葉を使って言い表わしています。使徒たちは産みの苦しみをするように、母がその子供を育てるようにして教会を育て、それによって教会は「母なる教会」として育っていきました。

 男性であるパウロでさえ、教会にあって母親の役割を果たすことができたのなら、教会の女性たちは、教会で母親としての役割をもっと果たすことができると思います。私は、日本でもそうでしたが、アメリカに来てから数多くの「教会のお母さん」に出会ってきました。カリフォルニアには、戦前に移住した一世の方々から始まった「日系社会」というものがあります。私がカリフォルニアに来たのは、一世の方々がほとんど世を去り、二世たちが老いていく時代でした。二世の人々はアメリカ市民であるのに、戦争中の隔離政策のため収容所に入れられ大変な苦労をしました。若者たちは兵士となり命がけでアメリカへの忠誠を示しました。戦争が終わって、自分たちの生活もままならない時でしたが、二世の方々は戦争中閉鎖されていた教会を再建するため、自分のことは後回しにして働きました。英語で礼拝を始め、英語の会衆が日本語の伝道を助けました。一世が世を去れば日本語部はなくなると思われていましたが、やがて日本から若い人々がビジネスのため、また勉強のため、さらにアメリカ人と結婚して数多くやって来るようになりました。二世のほとんどは英語部に属しましたが、日本語が良くできる人たちは日本語部に属して、まるで母親のように、日本から来た若い人々の面倒を見ました。そのようにして世話をされた人々が次の世代の人々の面倒を見るという形で、ひとりひとり着実に信仰に導かれていきました。教会に数多くの信仰の「お母さん」たちがいて、教会が、信仰の子どもを生み出す「母なる教会」として機能していきました。

 母なる教会は一朝一夕に出来るものではありません。母のような愛で人々を愛し、教会を愛する人々によってつくられていきます。教会は信仰者を形づくりますが、同時に教会は信仰者によって形づくられていくのです。私たちは教会で神の愛を知り、それに満たされ、そうして家庭に戻り、社会に出て行きたいと思います。そのとき、家庭はどんなにか天国に近いところになり、社会に神のみこころが反映されるようになることでしょうか。それと共に、神からいただいた愛で教会に仕え、教会が「母なる教会」となるよう励んでいきたいと願います。

 (祈り)

 父親の愛と母親の愛のみなもとである神さま、あなたの大きく深い愛を心から感謝します。あなたの愛で私たちを満たしてください。そうすれば、私たちの家庭があなたの愛を反映するものとなります。不幸にして、父親、母親の愛情を感じるとることのできなかった人々には、あなたの愛がもっと必要です。そのような人々があなたの愛でいやされ、満たされ、家庭をいやし、満たす者となれますように。また、教会があなたの愛を分かち合うところ、「母なる教会」となることができるよう、導いてください。そのために私たちができることを教え、それを実行することができるよう、私たちをさらにあなたの愛で満たしてください。主イエスのお名前で祈ります。


5/11/2014