愛の労苦

テサロニケ第一2:1-11

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2:1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。
2:2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
2:3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
2:5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
2:6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。
2:7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。
2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
2:9 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。
2:10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。
2:11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、
2:12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

 アドベントには、「希望のキャンドル」から始めて、「信仰のキャンドル」、「喜びのキャンドル」を一週づつ灯してきました。今日、アドベント第四週には「愛のキャンドル」を灯しました。クリスマス・イヴには真ん中の大きなキャンドル、「キリストのキャンドル」に灯をともします。それが終わると、アドベント・キャンドルは、来年までしまっておかれます。アドベント・キャンドルは、クリスマスが来ればやがて消えていきます。しかし、神が私たちに与えてくださった希望、信仰、喜び、そして愛は、私たちの心から消えることがあってはなりません。たえず希望をいだき続け、信仰を持ち続け、喜びを保ち続け、愛を育て続けていきたく思います。

 しかし、どうしたら、神への愛を育てていくことができるのでしょうか。一番良い方法は、神がどんなに大きな愛で私たちを愛してくださっているかを、聖書によって深く思い見ることです。聖書は、神から私たちへの「愛の手紙」です。神は聖書のいたるところで、「わたしはあなたがたを愛している。」と語っておられます。聖書は、神の愛の告白で満ちています。イザヤ43:4に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあり、エレミヤ31:3には「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」とあります。ゼカリヤ1:14に「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」とあり、マラキ書でも、神は「わたしはあなたがたを愛している。」と言っておられます。ところが、神を愛さない人々は言うのです。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」(マラキ1:2)これは、「神よ、あなたの愛が分かりません。神の愛を示してください。」というような謙虚なことばではありません。「『わたしはあなたを愛した。』などと、恩着せがましいことを、神さま、言わないでください。私たちは、今、こんなにみじめではありませんか。どこにあなたが私たちを愛しておられるという証拠があるんですか。あるなら、見せてください。」という、不平、不満のことば、不信仰のことばです。マラキ書では、そうした人々の不信仰に対しても、神は実例をあげ、ことばを尽くし、忍耐の限りを尽くして、ご自分の愛の証拠をあげておられます。一点のしみもない完全にきよい神が、罪人の私たちに、くりかえし、くりかえし、愛の告白をしておられる。これはほんとうに、驚くべきことです。

 一、神の愛と母の愛、父の愛

 聖書では、神の愛は、母の愛、父の愛にたとえられています。聖書は、神は「父なる神」であると教えており、「母なる神」という表現は使っていません。しかし、神の愛は父親のようであるばかりでなく、母親のような愛でもあるのです。申命記に「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。」(申命記32:10,11)ということばがあります。また、詩篇にも「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」(詩篇17:8)とあります。神が雛鳥を育て、守る親鳥にたとえられているのですが、雛鳥を守り育てるのは、たいていの場合、母鳥のほうです。神は、母鳥が雛鳥をその翼の下にかくまうように、神のもとに逃れてくるたましいをやさしく、かくまってくださるのです。主イエスは、「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」と言って嘆かれましたが、「めんどりがひなを翼の下にかばうように」ということばは、神の母親のような細やかで優しい愛をあらわしています。

 ルカ15章にある「放蕩息子」のお話では、神が、放蕩息子の父親として描かれています。「放蕩」というのは、今ではあまり使わない言葉ですが、「湯水のように無駄にする」という意味の言葉です。この父親の息子は、父親が生きている間に財産を相続しました。息子は父親の財産を文字通り湯水のように使い果たし、ユダヤ人にとって一番忌み嫌われていた豚を飼う者にまでなってしまいます。ユダヤの法律では、息子が生前贈与を受け取った場合、親子の縁が切られ、再び親のもとに帰ることができなくなるのですが、この父親は、それでも息子が帰ってくるのを待ち続けました。そして、乞食同然になった息子を見つけると、自分の方から走っていって息子を迎えました。『ルター』の映画を観た人はお分かりでしょうが、映画の終わりのほうに、ルターがこどもたちに放蕩息子の父親の話をしている場面があります。その中でルターは「偉い人は走りはしない。ゆっくり歩くものだ。ところが、この父親は走って息子を迎えた。父親はそれほどに息子を愛していた。神もまた、それほどに私たちを愛しておられる。」と話しています。しもべたちをたんさん持ち、息子に財産を分け与えることができるほどの人物は、いつもすその長い服を着ていて、ゆっくりと歩くのが普通でした。長い服を着ていて走ることはできませんし、そういう人が人前で走るのは、とても恥ずかしいことでした。家の中にいて、放蕩息子が帰ってきたなら、自分の前にひざまずかせ、「さあ、言い分があったら、聞いてやろう。」というのが、当時のユダヤの父親の姿でした。長服のすそをまくって走り、息子を抱いてキスをするのは、母親のすることでした。主イエスは、放蕩息子のストーリでも、父なる神が、母の愛にまさる繊細な愛をもって私たちを愛しておられることを示されたのです。

 イエス・キリストは永遠の神の御子です。イエス・キリストは、永遠のはじめから神とともにおられました。クリスマスは、神の御子であるお方が人となってこの地上にお生まれになった日です。神の御子は、何も人にならずとも、この世を訪れることができたはずです。赤ん坊として生まれなくても、天使たちを従えて栄光のうちに地を訪れても良かったのです。いや、そのほうが神の御子にふさわしかったでしょう。しかし、御子は、赤ん坊となってこの世に来られました。全能の神が最も弱い者となり、栄光の神が最も小さい者となったのです。それは、神の御子が、私たちの救いのために苦しみを受け、私たちに代わって、罪の刑罰を受けて死なれるためでした。キリストがご自分の神の子としての特権のすべてをお捨てになったのは、信じる者に神の子どもの身分を与えるためでした。神が、クリスマスにご自分のひとり子をこの世に送ってくださったのは、罪のために神から遠く離れている者たちを呼び集め、神の子どもとするためでした。クリスマスに示された神の愛は、父親のような大きな愛です。母親のような深い愛です。神から離れた者が立ち返るのを待っていてくださる、たましいの親としての愛です。この愛に立ち返りましょう。この愛を深く思いみましょう。

 二、神の愛と愛の労苦

 聖書にあるように、使徒たちは、キリストの代理人として立てられた人々です。使徒たち自身が大きな神の愛を受け、神の愛に生かされていました。使徒ペテロは、主イエスを三度も否定したにもかかわらず、イエスの赦しを受け、初代教会の礎となりました。使徒パウロは、教会を迫害する者であったのに、キリストの恵みによって、使徒となり、他のどの使徒にもまさって大きな宣教の働きをしました。使徒たちは、神の愛を宣べ伝えただけでなく、キリストに代わって教会を愛しました。テサロニケ第一2:7に「母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」とあるように、パウロは、男性ではありましたが、母親のようにしてテサロニケの人々を愛しました。使徒パウロは、ガラテヤ人への手紙では「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ4:19)とさえ言っています。出産の苦しみというのは、男性には分からない苦しみですが、使徒パウロは、教会のために霊的な産みの苦しみを体験したのです。

 また、使徒たちは、母のような神の愛ばかりではなく、父のような神の権威をも示しました。11節と12節には、「また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」とあります。

 しかし、どの人間も、たとえ使徒といえども、完全には神の代り、キリストの代りをすることはできません。私たちは、キリストの証人とされてはいても、神の愛にはほど遠い小さな愛しか持ち合わせてはいません。けれども、神の愛を心に思いみながら生きていくなら、小さいながらも、キリストの代理人としてキリストの愛をあかしし、キリストのことばを権威をもって伝えることができるようになります。私たちのほとんどは、神の愛や神のことばに直接触れる前に、クリスチャンの愛や平安、確信や喜びに触れて、神の愛に、神のことばに導かれたと思います。そのようにして導かれた私たちは、今度は、他の人が私たちの愛や平安、確信や喜びに触れて、キリストに導かれていって欲しいと願い、そのために、自分自身が神の愛に留まり、神のみことばをしっかりと保つようにと努力しているのです。

 こんな話を聞いたことがあります。ある宣教師が、教会の伝道集会で、慣れない日本語で一所懸命キリストのことを語っていました。そのとき、一番前に座っていた70歳くらいの女性が、集会中ずっと目をあげて宣教師を見つめ続けていたので、その宣教師は集会が終わってから、その女性に声をかけました。「ずいぶん一所懸命聞いてくださいましたが、イエスさまのことが分かりましたか。」と聞くと、「いいえ、ちっとも。」という答えが返ってきました。けれども、彼女は、続けてこう言いました。「私は、先生のワイシャツの襟のほころびが縫ってあるのをが気になって、それを見ていたんです。日本は、豊かになって、いまどき、ほころびを縫ったものを着ている人なんかいません。なのに、先生は、わざわざよその国から来て、たいへんな思いをして、お話してくださる。私はそれに感動しました。やっぱり、キリストはすばらしいのですね。」これをきっかけに、宣教師は、さらにキリストのことを話し、この人も信仰に導かれたというのです。この人は、直接神の愛を見ることはできませんでしたが、宣教師が払った犠牲を見、その愛の労苦を見て、それを通し、神の愛を見たのです。

 マザー・テレサは言いました。

人々は忙しすぎます。
何かに夢中で時間がなくて微笑みを交わす暇さえありません。
食べ物に飢えた人ならば
食べ物を与えればその飢えは満たされます。
けれども孤独な人の心の飢えは、もっと深刻なのです。
愛への激しい飢え
誰もがその苦痛や孤独を経験します。
家族の中にもいるかもしれない「飢えた」人々を見出し、愛し、
愛を行いに移すのです。
行なってこそ「愛」なのです。
聖書が「愛の労苦」ということばを使っているように、ほんものの愛は、労苦を伴います。愛を与えるために、自分が疲れ果て、傷つくこともあります。そのような愛の労苦を私たちはしているでしょうか。自分のためにではなく、神のため、人のために使っている時間は、金銭は、気持ちはどれほどでしょうか。

 小さな女の子が、クリスマスの朝、たくさんのプレゼントを開けていたとき、突然、言いました。「私はこんなにたくさんプレゼントをもらったけど、神様には、何もプレゼントをあげなかたわ!」私たちは、この女の子が気付いたことに気付いているでしょうか。あなたから神へのプレゼント、愛の労苦は何でしょうか。そのことに気付くためにも、もういちど、神の前に座りなおして、神のことばを聞きましょう。静かな祈りの中で、神の愛を深く思いみましょう。マザー・テレサのことばで、今朝のメッセージを終わります。

沈黙の祈りの中で受ければ受けるほど 活動の中でより多くのものを与えることができます。 沈黙はすべてのものをまったく新しい視点から見させてくれます。 魂にふれるためには、この沈黙が必要なのです。 大切なのは、わたしたちが何を言うかではなく、 神がわたしたちに何を言われるか、 神がわたしたちを通して何を語られるかなのです。

 (祈り)

 神さま、あなたは、あなたの愛を、神の御子という大きなプレゼントによって示してくださいました。この大きな愛を、私たちは、なんと小さなものにしてしまっていることでしょうか。聖書に満ち溢れているあなたの愛の証拠に耳を傾けさせてください。キリストのうちに形をとって示されたあなたの愛に目を向けさせてください。それらを深く心に思わせ、あなたのための愛の労苦を惜しむ心を私たちから取り去ってください。純粋な愛の労苦を、あなたの愛によって、身近な人からはじめて、実践することができるよう助けてください。愛するイエス・キリストのお名前で祈ります。

12/21/2008