巨人を倒した信仰

サムエル記第一17:31-47

17:31 ダビデが言ったことを人々が聞いて、それをサウルに知らせたので、サウルはダビデを呼び寄せた。
17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
17:33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」
17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、
17:35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
17:36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」
17:38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。
17:39 ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、
17:40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。
17:41 そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。
17:42 ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。
17:43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。
17:44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
17:46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
17:47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」

 今朝は、こども祝福礼拝ということで、こどものためのお話とこどもの賛美がありました。私たちの教会に、こんなに多くのこどもたちが与えられているのは、とても楽しみなことですね。今年から、こども礼拝では "Adapt a Child" といって、主にシニアの方々に、こども礼拝に来ているこどもたちの写真を一枚づつ渡して、そのこどもたちを、霊的なこどもや孫としてアダプトしていただいて、お祈りしていただくようにしています。そうした祈りによって、こどもたちが、はっきりとした救いの確信を得て、神のこどもとして成長していくことができるでしょう。私たちも、こどもたちのために、また、サンデースクールのために、さらに続けて祈ってまいりましょう。

 さて、今朝は、こどもたちのために、ダビデとゴリアテのお話をしましたが、私たちも、たったひとりで、しかも石投げだけで、巨人ゴリアテを倒したダビデの信仰から、いくつかのポイントを学びましょう。

 一、信仰は現実を見る

 第一のポイントは「信仰は現実を見る」ということです。英語で "Leap of Faith" という言葉があります。これは、日本式に言うなら、「清水の舞台から飛び降りる」となるでしょうか、「いちかばちかやって見る」という意味です。多くの人は「信仰」というのは、現実を無視して、夢のようなことを追い求めたり、向こう見ずなことをしたり、虫の良いことを期待することだと思っています。しかし、本当の信仰はそうではなく、むしろ、現実をはっきりと見つめさせるものです。ダビデはたったひとりで、よろいやかぶと、また剣も持たないで、ゴリアテに向かっていきました。人の目には無謀なことに見えたでしょう。しかし、ダビデは、ちゃんと、ゴリアテの弱点を見抜き、必ず勝てると信じて行動しています。ダビデ以外のイスラエルの人々は「恐れ」が先に来て、勝てるはずの戦いを投げ出していたのです。

 「信仰」の反対は「不信仰」ですが、別の観点からみれば、信仰の反対は「恐れ」でしょう。当時、イスラエルの人々は、他の民族とくらべて小柄でしたので、自分たちよりも背の高い人々、身体の大きな人を恐れる傾向がありました。モーセに遣わされた偵察隊のうち10人までもが、カナンの地に背の高い民族がいるのを見て、恐れました。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」(民数記13:32-33)と、ヨシュアとカレブ以外の10人は言いましたが、これは、正しい報告だったでしょうか。どんな事実も、人の目に写ったもの、心に留まったことを通して伝えられるのですが、彼らは不信仰のために事実のすべてを正確に見ていませんでした。恐れのために、目の前にある困難を誇張して見、それを伝えたのです。「不信仰な人は事実の半分しか見ない」とよく言われますが、否定的な面だけを見て、神の恵みを見失ってしまうのですね。

 ところで、ゴリアテは「ペリシテ人」とは呼ばれていますが、人種的にはネフィリム人やアナク人と言われる人だったのでしょう。身の丈は六キュビト半あったと書かれています。一キュビトは、腕をまげて、ひじから中指の先までの長さで、40センチぐらいですから、ゴリアテの身長は2メートル60センチ、9フィート以上になります。確かに、バスケットボールやフットボールの選手より大きいですね。彼は巨人でした。けれども、どんなに背が高い、大きいといっても、人間ですから、キリンやゾウのようではありませんでした。動物で一番背の高いのはキリンで、肩まででも3メートル(10フィート)あり、首は2.5メートルあります。さらに舌が30センチあるので、6メートル(20フィート)の高さに届くことができます。いくらゴリアテでも、その半分にもなりません。ゾウも肩までの高さが3メートルから4メートルあり、体重は7トン以上のものもあります。ゴリアテがいくら大きくてもゾウのようではありませんでした。みなさんの座っている長いすは幅が10フィートです。ゴリアテを横に寝かせれば、長いすに収まるわけですから、普通の大人の倍も大きいというわけではなかったのです。手も足も出ないほどの巨人というわけではなかったと言えます。

 ゴリアテは、よろい、かぶとに身を包み、足には青銅のすね当てをつけ、肩には投げやりを背負っていました。イスラエルの人々は、その姿を見て、とてもかなわないと考えましたが、ダビデは、これだけの重装備をしていたら、敏捷に動き回ることはできないだろう、また、よろい、かぶとで身を被っても、顔は覆われていないから、そこを狙えばよいと、ゴリアテの弱点をちゃんと見抜いていたのです。信仰は、このように物事を正しく見る知恵を与えます。うわべの判断でなく、本質を見抜く力を与えてくれます。信仰によって、物事の中に神の力や恵みを見ることができます。

 信仰をなくしてしまうと、何かの問題や困難がやってくる時、それを実際よりも大きく見てしまい、その課題と取り組み、困難と戦う前から、「どうにもならない」とあきらめてしまったり、「どうにでもなれ」と投げ出してしまったすることがあります。それがどんなに大きな巨人に見えても、どこかにそれを打ち負かす道があるのです。コリント第一 10:13はこう言っています。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」「脱出の道」、「突破口」はどんな場合でも備えられています。あきらめや、恐れによって、「脱出の道」、「突破口」を見失うことがないように、信仰によって、現実をしっかりとみきわめましょう。

 二、信仰は過去の恵みをかえりみる

 第二のポイントは「信仰は過去の恵みをかえりみる」ということです。試練や困難にぶつかったら、以前同じようなことがあった時のことを考えるようにと、よく言われますね。しかし、ただぼんやりと過去をふりかえっても、「昔は良かった。でも、今はたいへんだ」という愚痴やつぶやきで終わってしまいます。過去を振り返る時、ひとつひとつの場面で、神がどんなにか恵み深く働いてくださったかをしっかり見つめなおさなければなりません。教会に行くのを両親から反対された時、神がそれを解決してくださったこと、とんでもないことで誤解されても、神の働きによってその誤解が解け、かえって人々の信頼を得るようになったこと、経済的な困難や、難しい人間関係の問題が解決したこと、病気の中で支えられたことなど、数々の神の恵みを思い返す時、今、直面している試練や困難もかならず、乗り越えることができるいう確信がわいてきます。教会の兄弟姉妹たちと心を注ぎ出して祈った日、一緒に泣き、いっしょに喜びながら奉仕した日々、そうした思い出が、たんに思い出でおわらず、その中に神の生きた働きを見ることができるのはクリスチャンの特権です。聖歌に「かぞえてみよ、主のめぐみ」とあります。過去の神の恵みを数える時、私たちは、今、自分が直面している困難にも、必ず、神が働いてくださると確信することができるのです。

 ダビデは、サウル王のところに連れて行かれた時、サウルから「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」と言われてしまいました。しかし、ダビデは、そのことばに気をくじかれることなく、かえってサウルにこう言いました。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。」と言っています。聖書はダビデを「紅顔の美少年」(42節)と呼んでいます。ライオンや熊の「ひげをつかんで打ち殺す」などというと、まるでサムソンのようで、とても「紅顔の美少年」のイメージがわいてきませんが、これはダビデの勇気や力だけでできたことではなく、神の助けによってでした。

 ダビデは、今までどんなにか神が彼を守ってくだださったかをサウルに語りました。そして、サウルに言いました。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」このことばを聞いた時、サウルはダビデに「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」としか言うことができませんでした。「論より証拠」と言いますが、神がわたしたちの人生のうちにしてくださったみわざ以上に、私たちに確信を与え、人を説得することができるものは他にありません。私たちの信仰が、神のことばと神のみわざとをしっかりとらえる時、問題や困難が、巨人のようにたちはだかっても、それを打ち倒して進むことができるのです。皆さんの多くはすでにそのことを体験し、約束のとおり、神の力や恵みをいただいておられることでしょう。そのような恵みの体験で、わたしたちの教会が満ちあふれるよう、心から願っています。

 三、信仰は神の助けをあおぎ見る

 第三のポイントは「信仰は神の助けをあおぎ見る」ということです。

 ダビデがゴリアテと戦う気持ちになったのは、ゴリアテを倒したらサウル王の婿になり、一切の税を免除されるという恩賞のためではありませんでした。神の御名があなどられているのに、我慢できなかったのです。ゴリアテは、おそらく、「イスラエルが弱いのは、イスラエルの神に力がないからだ。ペリシテが強いのは、ペリシテの神々がすぐれているからだ。」と言ったのでしょう。ダビデにとって、神の御名があなどられることは、自分が侮辱されるよりも辛いことでした。ダビデは、自分が手柄をたててやろう、ヒーローになろうという動機でゴリアテに立ち向かったのではなく、それは、神への愛から出たことであり、神の御名のためのものでした。ダビデが「この戦いは主の戦いだ。」(47節)と言ったように、この戦いは、「神の御名」に信頼した戦いでした。

 ゴリアテがペリシテの神々の名によってのろった時、ダビデは言いました。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」剣や槍、それは戦力をあらわします。ダビデが頼ったのは、そうした戦力ではありませんでした。ダビデは人間の力でなく、神の御名、神の力に頼りました。神の御名によってでなければ、神の御名のために戦うことはできないのです。そうでなければ、神のためにと、張り切って始めたことも長く続かなかったり、神の御名のためにということが、自分の願いを実現するための口実になってしまったりします。そうなれば、それは、あからさまに神の御名を侮辱するよりも、もっと神の御名を汚すことになりかねません。やがてダビデはイスラエルの王になり、イスラエルは軍事的にも強くなりましたが、ダビデは決してイスラエルの安全をその軍事力や政治力にゆだねませんでした。ダビデはいつも神に頼りつづけました。詩篇20:7で「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」と言っているとおりです。

 ダビデはサウルから与えられたよろい、かぶとを辞退しました。剣も槍も手にとりませんでした。いつも使っている石投げと、五つの小さな石ころだけで、ゴリアテに向かいました。ゴリアテがよろい、かぶとに身を包んでいるから、それに向かうには、もっと重装備の身支度をしなければならない、というのではありません。ゴリアテが剣や槍を持っているから、それに勝つには、もっと良い剣や槍が必要なのではありません。この世がお金の力でものごとを運んでいるから、それに対抗するためにお金集めをしなければならないとか、人脈でものごとを進めているから、あちらこちらに顔を出し、あの人、この人の顔を立てておかなければならないというのではありません。私たちは、私たちが持っているもので勝負をします。神は私たちの手のうちにあるものを用いてくださいます。それが五つの石ころのように、値打ちがなく、力がないと思われるものであっても、神の助けをあおぎみてそれを用いるなら、神は、それによって巨人のように見えた困難をも打ち倒してくださるのです。主の御名に力があります。主の御名によって用いられるものは、大きな働きをするのです。立ち向かってくるものがどんな巨人であっても、主の御名の力を信じ、それを誇る、私たちでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、巨人を見て恐れたイスラエルの人々のように、試練や困難に恐れ、混乱し、落胆しやすいものです。そのような時、本当の信仰は、現実を見つめさせ、あなたの恵みに目を留めさせ、そして、あなたの御名の力を仰ぎ見させるものであることを教えてください。恐れにかえて勇気を、混乱にかえて平安を、落胆にかえて希望を、信仰によって握り締めることができますように。力ある主イエスの御名によって祈ります。

11/3/2002