信仰にかたく立って

ペテロ第一5:8-11

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5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
5:9 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。
5:10 あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。
5:11 どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。

 一、さしせまる迫害

 ペテロの第一の手紙が書かれてからまもなく、皇帝ネロによる迫害が起こりました。ネロは紀元54年から68年まで、およそ14年間、皇帝の地位にありました。パウロがエルサレムで捕まえられ、裁かれようとしたとき、「わたしはカイザルに上訴します」(使徒25:11)と言って、ローマで裁判を受けることを願い出ましたが、そのときのカイザル(ローマ皇帝)がネロでした。ネロは最初は良い政治をしたのですが、そののちは優秀な人材を次々と死に追いやり、その政治はとても混乱したものとなりました。紀元64年にローマに大火事があったとき、「ネロが火をつけた」という噂が立ちました。それで、ネロは、「放火したのはクリスチャンだ」といって、クリスチャンを迫害しはじめたのです。

 このことは、タキトゥスという歴史家の書物にくわしく記されています。ローマの大火事とネロ皇帝による迫害は、ペテロの第一の手紙の読者がまもなく体験することであり、ペテロもパウロもそのとき殉教していますので、少し長くなりますが、タキトゥスの年代記15巻44章から読んでみたいと思います。

 「しかし、人々のあらゆる努力も、皇帝の多大のほどこしも、神々へのなだめの供え物も、あの大きい火は皇帝の命令によるものであるという確信を払いのけ、悪い噂を消滅することができなかった。そこで、この噂から逃れるために皇帝ネロは、一般にクリスチャンと呼ばれ、そのいまわしい行為のゆえに憎まれていた一群の人々を犯人に仕立て、最も巧妙な残忍さで罰したのである。」

 「クリスチャンという呼び名は“キリスト”からきているのであるが、この人物は、皇帝ティベリゥスの治世、総督ポンテオ・ピラトの手で処刑された。」

 「キリスト教徒であることを告白した者が最初に逮捕され、彼らを証拠にして非常に多くの人が、放火犯というよりは人類を憎む者という理由で有罪とされた。彼らは死刑に処せられるだけでなく、娯楽の用にも供された。ある者は、けものの皮をかぶせられて、犬に裂き殺された。ある者は、十字架にはりつけにされた。またある者は、日がくれると、闇をてらすためにからだに火をつけられた。皇帝ネロは、この陳列のために自分の土地を開放し、円形競技場でショーを開催し、そこで彼自身戦車の御者の服装をして群衆の中にまじり、また自分の戦車を乗り回した。」

 「こうしたことはすべて、その罪が最大のみせしめの罰に値する人々に対してさえ憐れみをもよおさせる結果になった。なぜならば、これらの人々が公共の利益のためにではなく、皇帝ネロ個人の残忍さを満足させるために殺されつつあるのだと、大衆は感じとっていたからである。」

 タキトゥスはネロに対して批判的ですが、クリスチャンに対しても「人類を憎む者」「その罪は最大のみせしめの罰に値する」と言って、クリスチャンを嫌いましす。このような非難はまったくの誤解でしたが、初代のクリスチャンは偏見によって人々の憎しみの的となりました。ローマ皇帝によるこうした大規模で残忍な迫害は4世紀のはじめまで続きました。ペテロ第一5:8に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」とありますが、迫害の時代には、つかまえてきたクリスチャンを競技場に引き出し、そこにライオンを放って襲わせ、人々がそれを見て楽しむなどということが行われました。クリスチャンは実際に「ほえたけるしし」による迫害に出会ったのです。

 このような迫害が、この手紙を読んでいるクリスチャンの上にもうすぐ起ころうとしていました。それで、ペテロは、この手紙で、やがてやってくる迫害、苦しみ、また信仰の戦いに備えるよう、ふたつのことを勧めました。第一は「身を慎み、目をさましていなさい」(8節)、第二は「悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」(9節)です。きょうはこのふたつのことを学びたいと思います。

 二、目覚めた生活

 では、最初に「身を慎み、目をさましていなさい」(8節)との勧めについて学びましょう。「目をさましていなさい」は、じつは、主イエスが弟子たちに繰り返し語ってこられた言葉でした。マタイ24章と25章には「だから、目をさましていなさい」という言葉が三度も繰り返されています(マタイ24:42, 24:43; 25:13)。

 また、主イエスはゲツセマネの園で血の汗を流して「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と祈られましたが、そのときも、ペテロとヤコブとヨハネの三人に「わたしと一緒に目をさましていなさい」(マタイ26:38)と命じました。ところが、イエスが祈りを終えて三人のところに来ると、彼らは眠ってしまっていたのです。それで主はペテロに、「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」(マタイ26:41)と言われました。そのように言われたペテロは、どんなにか恥ずかしく、申し訳なく思ったことでしょうか。ペテロは、主イエスのこの言葉を生涯忘れることがなかったと思います。それで、せまりくる迫害を前に、他のクリスチャンに自分が主から聞いたのと同じ言葉、「身を慎み、目をさましていなさい」を書いたのだと思います。危機の時代がやってくるのに、霊的に眠っていてよいはずがありません。そんなときに「身を慎み、目をさましている」目覚めた生活が必要なことは言うまでもないことです。

 しかし、「身を慎み、目をさましている」目覚めた生活がもっと必要なのは、危機の時よりも、むしろ平穏で無事な時かもしれません。人は、危険が迫っているときには、自分の生き方に注意し、ものごとに真剣に対応しようと励みます。ところが平穏無事でいると、ものごとにいいかげんになり、思慮のない行動をしてしまいがちです。

 「身を慎み、目をさましている」という言葉の文字通りの意味は、「酒に酔わず、しらふでいること、ものごとに注意深くある」ということです。主イエスは世の終わりについての教えの中で、ノアの洪水のことに触れてこう言われました。「すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらっ行くまで、彼らは気が付かなかった。」(マタイ24:38-39)また、良いしもべと悪いしもべの譬えでは、「もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたりのんだりしているなら」(マタイ24:48-49)と言っておられます。両方とも、平穏無事だからといって酒に酔っている状態が書かれています。人は酒に酔えば、判断が鈍ります。自分の言動に責任が持てなくなり、まっすぐ歩くことさえできません。そんな状態で、物事をきちんと考え、神のみこころを問い、それに従おうとすることなど、とてもできるわけがありません。そんなことで信仰の戦いを勝ち抜くことなどできません。平穏無事なとき、物事が順調に進むときこそ、そこから来る気休めや快楽に酔いしれることなく、しっかりと目をさましていたいと思います。

 三、信仰に立って

 さて、この箇所にあるふたつ目の勧めは、「悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」(9節)です。ここで言われている「抵抗しなさい」というのは、どういう意味でしょうか。ローマ政府に政治的、軍事的に抵抗することでしょうか。当時、ローマには数多くのクリスチャンがいて、その中には有力な人たちもいましたから、そうした人々の協力を得て、評判の悪い皇帝ネロに立ち向かうことができたかもしれません。しかし、それで迫害がやむことはありませんから、クリスチャンはそのような行動には出ず、「非暴力の抵抗」を貫き通しました。キリストへの信仰を捨て、ローマの神々とローマ皇帝とを拝むよう強要されても、信仰のことにおいては最後まで抵抗し続け、「イエスこそ主です」と告白し続けました。聖書が言う「抵抗」とは、信仰の告白を決して曲げないということでした。

 聖書は、「悪にむかい、…抵抗しなさい」とは言っていません。「悪魔にむかい、…抵抗しなさい」と言っています。「悪」にむかうだけなら、クリスチャンも武器をとったでしょう。さまざまな方法で、国家の悪、社会の悪に立ち向かったでしょう。しかし、クリスチャンの戦いの相手は、「悪」(evil)ではなく「悪魔」(devil)です。この戦いは、エペソ6:12にあるように、「霊の戦い」です。霊の戦いは、決して人間の力では勝つことはできません。この戦いに勝つ唯一の方法は「信仰」です。それで、聖書は「信仰にかたく立って、抵抗しなさい」と教えているのです。

 では、その信仰とは、どんな信仰でしょうか。10節にこうあります。「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」これは、恵みにあふれた神がキリストにある者を、最後まで守ってくださることを確信し、神に信頼する信仰です。10節の前半と後半には「永遠の栄光」と「しばらくの苦しみ」という対比があります。地上の苦しみはつかの間、天での栄光は永遠という対比です。

 信仰者には、信仰者であるゆえの戦い、苦しみ、痛みがあります。神に対して真実であろうとする人には、他の人には分からない労苦や涙、戦いがあるのです。けれどもそれは天の「永遠」の栄光にくらべれば、「しばらくの」苦しみにすぎません。使徒パウロも、「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(コリント第二4:17)と言っています。苦しみを耐え、信仰の戦いを戦い抜いた信仰者たちはみな、わたしを救ってくださった神は、天に帰る日までわたしを守り、支え続けてくださるという信仰を持っていました。

 信仰の歩みは、けっして平坦なものではありません。神は信じる者を罪のどん底から天の高みへと召してくださったのですから、それは、"Upward Way” ― 上に向かって登っていく道です。信仰者が歩む道は、神を知らない人々が歩んでいる、平坦であっても、天に届かない道であってはならないのです。ましてや、もといた罪の状態へと逆戻りしていく下り坂であってよいわけはありません。上に向かう道には苦しみが伴います。それで、困難があると、信仰の成長をあきらめたり、伝道が進まないといって失望したり、神への奉仕を途中で投げ出したりしてしまうことがあります。信仰の戦いとはそんな誘惑に抵抗し、神がわたしをいやし、強め、力づけ、不動のものとしてくださること信じて耐えぬくこと、この神に希望と信頼とを置くことにあるのです。わたしたちの信じる神は、「あふるる恵みの神」、恵みに満ちた力ある神です。神の変わらない恵みと真実をいつも心にとめ、天につながる道を歩み続けたいと思います。

 (祈り)

 恵みに満ちた神さま、霊の戦い、信仰の戦い、人生の戦いにおいて、今の時代のわたしたちに必要なことを教えていただき感謝します。平穏な中で眠りがちになるわたしたちを目覚めさせ、ふるい立たせてください。この戦いの勝利が、イエス・キリストにあることを覚え、あなたへの信仰にかたく立つて、この戦いを戦いぬくわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/1/2017